2012年01月29日

自分の場所

人には一番輝ける場所がある。その場所を探していくのも人生の楽しみの一つかもしれない。どんな場所であれ、人がそこで全力を出し切っている姿を目にすると内面からの輝きに溢れて見えるものだ。その輝き方も人それぞれだが、見ている人に元気と活力を分け与えてくれる。輝きとは地位とか名声とかではない。そんな外見の見てくれの輝きではない心の奥底から発せられる情熱のほとばしりのような輝きだ。余計なものを全て削ぎ落としたシンプルではあるが、シンプルだからこその純粋な輝き。作られたものではない、自然に発せられる本物の輝き。その場所ではその人が一番その人らしくいられる。等身大でありながら大きく見える場所。場所と人とが一体化しているかのように感じる。人生という時間の中で人は無意識のうちに、自分にとってのその場所を探しているのだろう。余計なものを背負い過ぎているとその場所は見えないかもしれない。真摯に自分の心と向き合うことで初めて見えてくるのかもしれない。その場所を見つけその場所に立てるのは人生の一番の幸せかもしれ
ない。
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2012年01月28日

目的と手段

日本代表になれそうだからあるスポーツをやっている。あるスポーツが大好きだからやっている。前者は最も人気のないスポーツを選べば近道だし、後者はそのスポーツが人気があろうがなかろうが気にもならない。要は他人の目を軸にスポーツをするか、自分の目を軸にするかの違い。前者はスポーツは手段。後者はスポーツは目的。人は何をするにしても、今やっていることは目的なのか手段なのか、自分がしたいからしているのか人から称賛を受けたいからしているのかを心の中で明確にしておかなくてはいけません。目的と手段とでは取り組み方も結果の受け止め方も違ってきます。前者は目的を達成できなければ手段を捨ててしまうでしょう。しかし後者はその目的がある限り永遠に続けていくことができるでしょう。好きなスポーツをして結果として日本代表に選ばれるなら幸せですよね。しかし、それは同時に選ばれなくても続けていくことでもあるんですよね。人生の中に生涯のライフスタイルになるような目的を持てることは何よりの幸せだと思います。
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2012年01月27日

基準を変える

相撲が力比べなら大型力士に小さな子どもは絶対に勝てない。しかし土俵から相手を出すというのなら、動きの俊敏な子どもは方法如何によっては勝てる可能性も生まれる。重量という基準で戦うのか、俊敏性という基準で戦うのかによって違いが生まれてくる。基準をどこに置くかによって可能性は見出だしていけるものだと思う。この基準がくせ者で、多くの人は社会の定めた一つの基準しか見れていない。そしてその基準の中で勝負しようとする。その基準を基に人と自分を比較して優劣を決めて、劣を少しでも優に近づけていく。しかしその基準でいく限りは、その小さな子どもが中途半端な肥満になって体重を増やしたところで、大型力士には敵わない。根本から勝負の基準を変えてみれば、その基準における短所が実は別の基準においては最大の長所に変わる可能性がある。小さな子どもが中途半端に体重を増やして動きが鈍くなったら、それこそ可能性は見出だせなくなる。僕はこの基準をたくさん見つけ出すのが得意なんだろうと感じる。これがなかなか面白い。
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2012年01月26日

辛抱強く待つ

与えることに慣れた大人と、与えられることに慣れた子ども。何でも事細かく教えないと気がすまない大人と、教えられて当たり前の子ども。昔は制約を打ち破り自由を手にしたかった。今は自由時間でもどうしていいのか分からず指示を待つ。大人も与えることを我慢して子どもの力を信じて待つことも必要な気がする。大人から手取り足取り教えられて、レールまで敷いてもらった子ども達は果たして自分で自分の人生を切り拓き、自分の人生に責任を持てる大人へと成長していけるのだろうか…人が何とかしてくれると思っても人は何とかしてはくれない。人がいろいろ教えて指示してくれると思っても人は黙ってその人の動向を見ている。世間と呼ばれる大人の社会はそんな社会だ。何もせず指示を待っていることは、何もできない人間の烙印を押されてしまう。であるなら、大人である僕たちが次世代の子ども達が真の生きる力を身につけられるように育んでいかなくてはならないと思う。育むというのは、じっと我慢して辛抱強く見守るということと同義だと思う。教える振りして今は
大人も子どもに依存しているような気がしてならない。
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2012年01月25日

夢の種

パークさん、初コメントありがとうございました。確かに、昔の武道家は観の目、見の目を身につけていたのだと思います。お互いに観の目を磨いていきたいですね。高柳さん、初コメントありがとうございました。慌てずゆっくりと成長していきましょう!継続の力も育ててくださいね。



種は小さいが大木にもなるし、美しい花も咲かせる。種の違いはあっても、それぞれの種には光と水と養分があれば育つ。夢の種を心の大地に撒こう。そして心の中で温め、潤いを与え、栄養を与えていけば、時間はかかっても人の夢の種は育っていく。僕はそんな夢の種が人の数だけ少しずつ育っていくイメージを描くと本当に幸せな気分になれる。植物にも人間にも優劣がないように夢にも優劣なんてない。夢の種が育つイメージは何故かいつもパステルカラー。いつも温かな光に満ち溢れている。僕は一人でもたくさんの人に自分の夢を育んでいっていただきたいと願う。本人の心に光が足りなければ僕が光を投げかけてもいいし。心に栄養が足りなければ、僕が与えてもいい。豊かな心の大地が広がり夢が育っていく。そして実現した自分の夢と他の人の夢とがつながっていくパステルカラーの幸せ。次世代の子ども達にも伝えていきたいことだ。夢の種は本当に小さい。もしかしたら小さすぎて自分でも持てているのかどうかすら気づけていないかもしれない。でも必ず人の心には夢の種
はある。
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2012年01月24日

見ると観る

見ることと観ることは違う。目を開けば見ることはできる。しかし観るは明確な目的意識を持たなければ観れない。人は同じモノをみても、みえる世界はまるで違う。見ていても、観れていない世界はたくさんあるものだ。見るは物事の外側の表面的なモノを見るのだとしたら、観るは物事の内側の深く深くを観ていく感覚のような気もします。心は目では見えませんが、観ることはできるように感じます。何かを目にして見るだけで終わりにするのか観るを深めていくのかではまるで違ってきます。観には正観、内観という言葉に用いられますよね。物事の本質を見抜くためには見るでは不十分なんです。とことん観ていくことが大切なんですね。常に何をみる時もボーと無意識に見るのではなく、明確な目的意識を大切に観ていきたいものですよね。チラリと見るのではなくじっくりと時間をかけて観ていくことも大切だと思います。観るようになると明らかにみえる世界は無限に広く深くなっていきます。
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2012年01月23日

エネルギーを生かし合う

二つのコマがあります。二つのコマが勢いよく回っている時はそれぞれの軸は安定しています。しかし二つのコマはぶつかるとお互いを弾き飛ばしてしまいます。しかし、一方のコマが勢いを失って軸がブレブレになっている時に、勢いよく回っているコマをぶつけるとその瞬間に勢いのある方のコマの回転の力で、勢いを失った方のコマも再び回転を取り戻すことがあるんですね。人間関係にもこのようなケースはあるように感じます。同じ人間同士でもある時には激しくぶつかり合いお互いが飛ばし合うこともあれば、反対に時には相手の勢いに力をもらい自分の勢いも取り戻せたり。だから、人間関係も単なる点で捉えたり、一面的に見たりしてはいけないんですね。本来ならば上手にお互いのエネルギーを生かし合っていけるのが一番です。お互いが相手のエネルギーを潰し合っても建設的ではないですからね。生かし、生かされる関係性が人間同士とても大切になってくると思います。
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2012年01月22日

可能性

可能性とは、『ある』ものではなく『見つけ出す』もの。可能性があるという時点で、それは可能性ではなくなっている。その可能性は言い換えれば単なる成功率でしかない。変な表現だが0%の四面楚歌の状況を1%に変えるところに可能性は位置していると思う。0から1。無から有が生まれる。しかしこれだけ難しくて苦しいこともない。0から1は数的には単なる1でしかない。1から100は数的には遥かに大変そうに見えるが、遥かに楽だ。それくらいに可能性という言葉は重いもののように思える。1から100まで成功率を高めていくことの方が進めやすい。何せ0の世界は見えない世界なのだから。見えない世界を見つめ続け、何か見えるまで何かを探し続けていく。するとそれまでは視界になかった小さな光を見出だせる。絶望と可能性の狭間は小さな1でしかないが、その1は天と地ほどの差がある。小さいがこれ程大きな光もない。せっかく見出だした可能性だからこそ、後は地道に成功率を上げていくようにしたいものだ。
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2012年01月21日

登る道も登り方もいろいろ

登り方は無数にある、登る道のりも無数にある。どの道を登るにしても、大切なのは頂を目指す意志を持てているかどうか。どんな時でも歩を止めず歩み続ける力があるかどうか。遥か彼方に見えるものでも、自らの足で近づいていくことはできる。向こうからは近づいてはこない。近づくのは自分自身。人間は誰しも果てしない距離を感じて、弱気になり妥協して歩くのは止めてしまう。果てしない徒労感を感じて全てを投げ出してしまいたくなる。そして周りを見渡して、他の道を登っている人を見て道に迷い道を変えていく。他の登り方をしている人を見て登り方を真似してみたくなる。どうして今の自分を信じて歩を進めていかないのか。まるで、あみだクジのようにコロコロと行きつ戻りつ、左に右にフラフラしているのか。人なんか羨ましがったりせず、自分自身の道を進んで行きたいものだ。辛くてもキツくても絶対に進み続けていく。時には這ってでも進んでいく。本当は頂なんてゴールはどこにもないのは知っている。でも自分の人生を通してどこまでも可能な限り自分自身を高
めていきたいと思う。
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2012年01月20日

哲学を極める

哲学は人生の生き方を明確に定めてくれ、人生の生き方は哲学に深みを与えてくれる。人生を通して確固とした揺るぎない自己を構築していくこと。僕には高畑哲学なるものがあるのですが、机上の空論ではなく生き方の中で模索して構築した哲学です。生きた哲学。僕はこれを一番大切にしています。迷った時には必ずその哲学と照らし合わせます。世の中の森羅万象の本質を常に自分の中で問い詰めていくんです。まだ深い世界、まだ自分には見えていない世界があります。それを自分の人生を通して見出だして構築していくんですね。今の自分の生の中でどこまで行き着くことができるのかは分かりませんが、僕は僕の人生哲学をとことんまで極めていきたいんですね。哲学に照らし合わせた確固として凛とした自己の確立。これは教えられた答えではなく、僕が自分自身で作り上げた答えになるんでしょうね。限りある生の中で自分を、哲学をどこまで極めていけるのか、それは僕の人生の一番のテーマのような気がしています。
posted by Takahata at 02:07| Comment(11) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする