2024年11月05日
昔の教訓
この年になっても、受験の夢を見てうなされることがある。二回も失敗した大学受験には苦悩の思い出ばかりが思い浮かぶ。だからそんな夢をしばしば見るのかもしれない。全く先の見えない暗黒の不安。何から手をつけていけばいいのかすら分からない茫然とした絶望感。何故もう少し早くからしっかり勉強をしなかったのかという取り戻せない時間に対しての果てしない後悔。みんなから大きく遅れを取ったような断絶されたような孤立感。勉強しなくてはと焦るもののそれでもなお、勉強を遠ざけようとする自分に対しての怒鳴ってやりたいくらいの情けなさ。存在価値すら見えなくなった底なしの無力感。何かこのように当時の心境を思い出して改めて書いてみると、本当に当時の自分はどうしようもない奴だなと感じる(笑)典型的なダメな奴だ。。。よくもここまで嫌いな勉強から逃げ回っていたものだと思う。自分にとっての合格というのは、唯一誇れるとしたらこうした底なしに駄目な自分自身を自分が必死に乗り越えられたことなんだと感じる。何一つ希望の欠片すら見えない中で懸命に弱い自分と戦った最後の一年だったように思う。底なしに落ちていくか、這いつくばるかのギリギリ瀬戸際の一年を何とか最後まで戦い抜けた当時の自分に、「よく踏ん張り抜いたな!でも、例え嫌いなことでもそれを与えられた時は、逃げずに地道に積み重ねていかなくてはならないよ!」と声をかけてあげたいと思う。それがその後の今の自分を作り上げたのだから。
2024年11月04日
あの頃のように
ふと思い出すと小学校の頃は雨が降って校庭に水溜まりができてると、みんなで夢中になってその水溜まりから川を掘ってどこまで長い川を作れるかなんて遊んでいたなぁ〜と。小学生の頃は何がなくても、どんな状況でも、その中で柔軟に楽しいことを見つけて、夢中で楽しんでいたものだ。楽しむことの天才。そこに損得計算なんかなく素直に楽しむ。遊びなんかの定義はなく、自分達で遊びを創造していく。楽しいという結果を求めたり、楽しもう!と意気込んで遊ぶのではなく、目の前のことを後先考えずに夢中でやった結果として楽しかった!!みたいな。大人になって仕事を100%あの頃のようにはいかないだろうが、それでもあの頃の気持ちは失いたくはないなと感じる。どんな状況でも目の前に何かを創造して、目の前のそれに無我夢中になれる少年の頃の自分は残しておきたいと。
2024年11月03日
大切な何か…
例え、思い描いた結果に至らなかったとしても、本気で思い描いた情熱、本気で流した汗、地道に積み重ねてきた年月は誰よりも自分自身がこれから先を生きていく力になるはず。苦しみもあったろう…流した涙もあるだろう…それらを乗り越えて自分を信じて舞台に立った力は図り知れない。もちろん、結果は大切だし、誰もが結果を残していきたいと考えていることだろう。しかし、結果では見えない数多くのことが本人の中に深く刻まれているはずだ。数字では表せない本人にしか分からない大切なことが。それは挑み続けた者にしか分からない大切な生きる力というかけがえのない財産だと思う。敢えて言おう。繰り返すが結果は大切、でもそれ以上に大切なものが絶対にある。人が人生を生きていく上で絶対に大切なものが。
2024年11月02日
遊び心を
僕は本やプロジェクトの企画などを考える時は、誰かと飲んでいたり、外の空間で自然を感じながら頭の中を遊ばせながら考えていたりする。誰かとバカ話をしながら頭の中を柔軟にしていく。周りの動きを楽しく観察しながら頭を楽しい方向に持っていく。会議室のような狭い空間で真面目ぶって考えるのが好きではない。周りが壁で仕切られているのも、さあ!考えるぞ!と改まるのも好きになれない。僕にとっての仕事の基本は『大人が本気で遊べばそれが仕事になる』というもの。まずは企画というのは、自分にとって本気で情熱を傾けて遊べるものでなくてはならない。子どもの頃に無我夢中で遊んでいたように。どれだけ本気で没頭できるのか。遊びだって中途半端な遊びなんて心底から楽しめない。今と違って、僕の子どもの頃には色々遊び場所や道具があった訳ではない。近所の空き地や山や川…遊び道具はそこら辺に転がっているものだったり。そんな中でどうやってみんなで楽しく遊びを創り出せるかを考えたものだ。目一杯、想像力を働かせて遊びを創造していた。何かなくても、自分の頭の中で何かを作り出して楽しい時間を過ごした。大人になった今もどこかそんな感覚を自分の中で大切にしている。何もないところから何か新しい企画を創造する楽しさ。頭の中で想像力を膨らませて遊ばせていく。自分が本気になってワクワクして遊べることを本気で探求していけば、そこには新たな企画が生まれていたりする。子どもの頃と違うのは、大人になると楽しい時間に+αを付加させていけること。
2024年11月01日
時間の流れ
ネットやテレビで言葉や写真で見るものと、実際に見て体験するものとでは大違いなものだ。それらで知ることができるのは、物事の表面的かつ断片的なだけの世界。そこには時間の流れというものが欠如している。時間の流れの中で物事と一緒に過ごさなければ、本当の何たるかは見えてこないのではないだろうか。それこそが経験するということ。時間の流れということこそが、人間が生きている一つの証明でもあるのだから。時間の流れが止まるということはそこが最期ということにもなる。ネット社会になって、知ってるつもりが増えていくような気がする。知ってるつもりと知っているとは大違いだと改めて実感する。時間をかけて体験してきたものに優るものはないように感じる。生きるというのは時間を共にすること。その共にする物事は何なのか?その共にしながら感じたり考えたりすることは何なのか?そんなことで人生の豊かさも変わっていくような気もしてくる。
2024年10月31日
スタートライン
できないことをできるようにするための第一歩はできない自分を認め自覚すること。これは簡単そうで難しい。できない自分を見たくはないし、認めたくはない。しかし目をそらせて自分に言い訳して誤魔化していても、本当に先には進んでいけない。大切なのはできる振りをすることではなく、できるようになる一歩を踏み出すこと。できない自分が格好悪い、できない自分が惨めで情けないと思っている限りはなかなか認めてはいけないだろう。できないならできるようにすればいいんだ、シンプルだがそのように思っていればできない自分を認めていけることだろう。それを認めた時点でそこができるゴールへのスタートラインになる。スタートを引けなければゴールも生まれない。できないことが恥ずかしいことじゃない、できない自分を誤魔化していることの方が遥かに恥ずかしいこと。
2024年10月30日
向き合う
本当に人生を生きていると様々なことと出会うものです。全く予期もしなかったこと、ある程度は覚悟していたこと。そのどちらも人生は避けては通れない。しっかりと受け止めて、それを乗り切っていくしかない。悲しみに耐え、苦しみに耐え、辛さに耐え、それでも人生が続いていく限りはそれに向き合っていくしかない。様々なことが、様々な形で心にのしかかり、それが様々なことを自分自身に気づかせてくれたり、学ばせてくれたりする。目をそらしたくなるようなことがあっても、絶対に目をそらさずに向き合っていこうと思う。それだけの力はこれまでの人生の中で身につけてきたはずだから。最後まで目を見開き、とことんまで向き合ってみようと思う。
2024年10月26日
心の四季を
春の木漏れ日の降り注ぐような穏やかで温かな気持ち。夏の灼熱の焼き尽くすようや熱い気持ち。秋の木の葉が紅葉し散っていく少し感傷的な寂しい気持ち。冬の寒気と張り詰めた空気感のような厳しい気持ち。人の心の中の四季。そんな四季を感じながら、心の移ろいを楽しめたらいいかなぁ、なんて思うこともあります。心の中の感情に伴う風景というか、情景のようなものを静かに見つめようと。心の季節にイメージの中で自分自身を置いてみます。そしてその感情を深く感じてみる。その季節季節の自然の美しさがあるように、人の心の感情にもそれぞれの美しさがあるのかもしれない。季節が移ろうように感情も移ろうからこそ、その感情の一つ一つを慈しむこともできるのかもしれないですね。
2024年10月24日
自分への挑戦
誰かが整備してくれた整った道と、誰一人として足を踏み入れたことのない未開の道があったら、自分は後者を選んでしまう。前者は行き先もなんとなくは分かるし、多くの人がそこを歩いているので安心して進むことができる。後者は怖さや不安もある。自分一人だけを頼りに悪戦苦闘しなくてはならない。では、何故に自分は後者を選んでしまうのか?心の中に強く自分の人生を生きたいという想いがあるからかもしれない。一度きりの人生をやはり自分の人生にしていきたいという気持ちは昔から強かった。人の歩んだ道筋が自分も同じように歩く道筋とは素直に思えなかった。自分のしたいことが世の中に存在しなければ、自分が作り上げて存在させていけばいいと考えたし、道がなければ自らが開拓していけばいいと考えてきた。その道が楽とはほど遠い険しい道であったとしても、その道の先に大きな落とし穴や崖があったとしても、自分の力で進んでみたかった。自分という一人の人間をその道の中で試してみたかったし、追い込んでもみたかった。自分が人生の中で何者でどれだけのことができるのか?それはやはり未開の道を選ばせてしまう。
2024年10月23日
指導者の役割
『もっと努力しろ!』この言葉に何の違和感も感じない方は多いと思います。しかし、野球を始めたばかりの野球小僧が努力をしているでしょうか?野球が楽しいから無我夢中でやっているだけです。同じ野球をやっているのにそんな野球小僧が努力をしなくてはならなくなったのでしょうか?人に勝つための野球、人と比べられて優劣をつけられる野球、ミスしたら怒られる野球。。。そんな様々なものを心の中に大人が背負わせたか、自分自身が自ら背負うかして心の重荷が重くなり、それで好きという気持ちよりもこうした心の重荷が重くなってそれでもそれを背負って休むことなく歩き続けていかなくてはならないため、いつしか努力しなくてはならないと考えるようになっていくのです。指導者の役割としては努力をしろ!というのではなく、むしろ選手が心の中で背負っている重荷を少しでも降ろして身軽にしてあげることなのです。そうして身軽になり野球の楽しさを改めて思い出させてあげれば、努力をしろ!と言わなくても好きな野球に無我夢中で取り組んでいけると思います。