2011年07月31日

ご冥福をお祈りします

昨日、中学と高校の六年間、部活動でかわいがっていただいた一学年上の先輩が事故で突然亡くなられました。先月の広島出張の際に四学上の先輩と僕を誘っていただきお会いしました。それこそ先輩が卒業されて以来の再会でした。食事をご馳走していただき、昔話に花を咲かせて。あれが卒業以来25年ぶりの、最初で最後の再会になってしまいました。先輩後輩の関係が厳しい時代にあって、いつも「大丈夫か?」と何かにつけて言葉をかけてくれる方でした。再会の時にも「このお店で大丈夫?」「大丈夫か、お腹いっぱいになったか?」と。別れる時には「また会おうね!」と肩をたたいていただきました。何だか、心に穴が開いたような寂しさがあります。あれは虫の知らせ、何かの予感だったのか…一期一会の言葉を噛み締めるような思いがします。もう会えません。人の大切さを改めて実感します。夏の蝉が鳴く蒸せ返るようなグランドで、倒れそうな時に何度となく笑顔でかけていただいた「大丈夫か?」。この言葉でどれだけ助けられたか…僕はそんな優しさをこれからの人生
で引き継ぎます。先月に昔の感謝の気持ちはお伝えしましたが、改めて先輩、どうもありがとうございます。ご冥福をお祈りします。
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2011年07月30日

認識すること

窓ガラスに何度も懲りずにぶち当たる虫を見ながら、この虫にはガラスが見えないのかな?と思いました。いくら透明であっても人間には見えますよね。虫の視覚がどうなのかは知らないですが、ふと考えてしまいました。虫はガラスという認識を持っていない、人間はガラスという認識を持っている。この認識はとても重要な気がするんですね。頭の中に認識のないことに関しては人間もたくさん見えていないものがあるように思うんですね。分からないことを知り、知るからこそ次から分かる。虫にもガラスというものがあるんだよ、と教えて分かりガラスの存在を認識できるなら、そんなにぶつからずに済むのかもしれませんね。人によって認識が違えば、同じモノを見ても全く違うように見えたり、違う行動になったりするものです。自分が見えているモノが人も見えているかは分からないし、同じように見えているかも分からないんですね。何をどれだけ正確に認識できているかは重要になってきますよね。
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2011年07月29日

道…僕は道はその道の先に何かしらのゴールがあるんだと思っていました。しかし最近つくづく思うのは、道にはゴールはないんだということです。世の中、たった一つのことを探求しても絶対に行き着かないと思います。探求すればするだけ、どんどん果てしなくなっていくような気もします。道の探求とは、辿り着かないことを知ることなのかもしれませんよね。辿り着かないことを知り、辿り着かないならどうでもいいや、となるのか、行けるところまで行ってみるのか…人生を通して最期を迎えるその瞬間まで道を探求し続けていく。価値観は個々で違っていいと思いますが、僕はそんな生き方が好きなんでしょうね。ゴールに辿り着くのではなく、人生の時間の中で行き着くところが終わり。僕はそれでいいんですね。それでもただひたすらに道を探求していきたいんです。不思議なものです。終わりなき道を進むのは孤独な道のりであるにも関わらず、やはり真っ直ぐに進んでいきたい。どこまで自分が進化して、道のどこまで辿り着けるのか…それを見てみたいのかもしれませんね。
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2011年07月28日

目的と手段

目的があるからこそ、目的を遂行するために手段があります。しかし、うっかりしていると本来は手段であることが目的化してしまいます。野球で言えば、ボールをより正確に捕えることが目的であり、それを達成していくために手段として素振りがある訳です。しかし、ともすると素振りをすることそのものが目的になってしまったりするんですよね。今の時代はとても軽い時代です。軽い時代においてはスキルのような手軽な手段が流行ります。すると、みんなが流行から取り残されないように手段に飛びつきます。すると手段をしている自分に満足し、いつしか目的化していくんです。下手をすると最初から目的すらない人もいるかもしれません。手段はあくまでも手段であって、目的ではないんです。常に何のために?何を目的にして?今このことに取り組んでいるのかを明確にブレないようにしていくことが大切なのではないかと感じます。そうすると手段の意味も見えてくるので、適切な手段の選択や手段の取り組み方もはっきりしてくるのではないかと思いますよ。
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2011年07月27日

価値観を大切に

物事の価値はどのように決められるのか。社会に価値を置いていると、社会の多数派が価値を認めることが自分の価値になります。個人に価値を置いていれば、個人の価値が自分の価値になります。では、社会的な価値はどのように形成されるのか。その多くは教育やマスメディアによって植えつけられていきます。自分がそうしたい、そうありたい、と自主的に作り出すのではなく、そうするべき、そうあるべきと周りから無意識のうちに押しつけられているんですよね。仮に自分ではそうしたいと自分の価値を持っていると自分で感じながらも、心の奥底では社会的な価値を植えつけられていてその影響を受けているだけみたいなことは案外たくさんあるものです。すると自分の価値を持ててるはずなのに、何でこんなに苦しいのだろう…と感じてしまうのです。社会の形成する価値観は多数派によって成り立っていますから、最初の頃はそこから外れることは不安や恐怖を感じるかもしれませんが、自分自身の価値観がしっかり形成されれば、逆に伸び伸びと自分らしい生き方を芯からしてい
けるので楽しくなってくるものです。
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2011年07月26日

マズローと五重の塔

20100122124905.jpg日本には五重の塔がたくさんあります。何故?五重の塔なんだろう?と以前から不思議でした。別に四重でもいいのに、何故?と。ふと思い当たりました。それまマズローの提唱した欲求の五段階説。@生理的欲求A安全の欲求B社会的所属の欲求C承認の欲求D自己実現の欲求。このピラミッドをその遥か昔から塔で表現したのが五重の塔なのかもしれないと。仏教は煩悩との葛藤です。西洋、東洋を問わず人が真剣に自分自身と向き合えばそれは欲求との戦いとなるのではないでしょうか。欲求の階段を上に上がっていく。自己実現を目指す中から悟りは生まれてくるように思えます。つまり五重の塔の屋根の上の棒みたいな飾りは悟りで、悟りは天に通ずるみたいな。僕はこのマズローの五段階説と五重の塔の自分自身の仮説に小さな喜びを感じています。僕の中では西洋的なメンタルも東洋的な哲学も本質的な部分で必ず深い繋がりがあると感じて求めてきたからです。人はその人生の中でいかに自分自身の人生哲学を構築していけるのかはとても重要になるからです。そして自分自身の中
にある五重の塔を上り切り、そこから見える風景。つまり高い位置から全体の風景を見渡してみたいと感じます。この高いは地位や名誉などとは違い、限りなく精神的なものです。
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2011年07月25日

自分を生きる

時間のスピードも早い、結果を求められるスピードも早い。人は簡単に手を出しすぐに飽きて次のものに手を出す。人はじっくりと考える間もなく毎日をやり過ごす。ツールを使いこなすのではなく、ツールに使われ振り回される。日々大量の新しい情報が溢れ返り、情報に呑まれて酔ってしまう。地道な丁寧さよりも簡単な手軽さを求めて人はさまよう。何かが流行れば我先に飛びつき、廃れれば全てを忘れたかのように次の流行に大群移動していく。自分ではなく周りに必死で合わせるように生きて、得体の知れない世間というものに振り回されて生きる。このように今の時代を生きていると自分を喪失していくような感覚にとらわれて疲れ果てていくような気がします。こんな時代だからこそ本気で自分自身を見つめて、自分の価値観を明確にして自分の生き方を貫いていくことが大切な気がします。大切なものを見失って迷走しないためにも。社会で生きていくこと、イコール社会に迎合することとは違うような気がします。当たり前ですが自分の人生を生きたいですよね。
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2011年07月24日

近い?惜しい?

馬と亀は同じ四本足で歩きますから似てますよね。でも類別が違います。馬と牛は同じ動物です。二つは近いですよね。類が同じですが科が違います。馬と鹿は同じく速く走れるのは似てますが、やはり科が違います。僕たちは日常の中で物事を進めていく中で「惜しい」とか「近い」とか口にします。でもそれは本当に惜しかったり、近かったりするのかをよく吟味してみる必要があると感じます。水の中で生活してるから亀と鯉は近いと言っても、全く近いどころか遠いですよね。さらには、トンボの幼虫のヤゴと鯉は水の中にいるけど遥かに遠いですよね。鯨とマグロもすごく近そうで根本的に遠い。このように結果や答えだけを見て表面的には近く見えても、その根本が全然遠いということがよくあるんですね。この近いとか、惜しいとかの吟味を間違ってそのまま続けても、続ければ続けるだけ間違い続けていくんです。そのためには吟味するための本質的な判断軸が必要になるんですね。水で生活している、四本足で歩く、速く走れるというのは表面的な判断軸なんです。鯨と馬は表面
的には全く近さを感じませんが、哺乳類と近かったりします。このように全く近くも惜しくもなさそうに見えても、近い惜しいにも気づけていけるんですね。
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2011年07月23日

人生の中の一番の闘う相手

昔から自分は弱虫にはなりたくなかった。弱虫とは負けるのが嫌で、負けるのが怖くて、負けるくらいなら闘うのはやめようというような心の中に潜んでいる虫です。弱虫でいる限りには敗者にはなりません。闘わないんですから。この闘うはいろいろです。僕は闘うのが好きなんでしょうね。勝とうが負けようが関係ない。一番は弱虫と闘う。心の中で懸命に闘う。そして弱虫に打ち勝って挑んでいけるなら僕には大きな『勝ち』ではなく『価値』なんですね。いつも自分の中で挑んでいける自分でいたいし、挑める価値そのものを大切にしていきたいんです。負けたら、そこでまた弱虫と闘い、また次に挑んでいく。勝ったら弱虫とは無縁のようだけど、勝ったら勝ったで次も負けたくないという弱虫が出ます。だから勝ってもまた弱虫と闘い次に挑んでいくんです。生きている限りは挑み続けていく。弱虫と闘いながら。弱虫って弱い虫ですけど、なかなか手強くしぶといんです(笑)人間にとって人生を通して一番闘わなくてはならない相手かもしれませんね。僕は弱虫にだけは
絶対に負けない。
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2011年07月22日

恩師

IMG_4388.jpg先日、約20年ぶりに当時浪人生だった頃のカテキョーの恩師の石崎泰先生とお会いして飲みました。大学受験に向けてみっちりと英語を叩き込んでもらいました。僕とは四歳違いでしたが、当時は兄貴って感じで、長男だった僕には兄貴ができて嬉しい感じでした。英語が苦手(まあ、どれも苦手でしたが)な僕にお前は100点を取ろうとしてないか?受験は60点取れれば合格するんだよ、それくらいならお前でもやればできるだろ!と教えてくれました。それで心が一気に軽くなりそれなら僕でもできると思って勉強に取り組めたのを思い出しました。本当に自由な雰囲気の先生で心の優しい温かい人で、英語以外にたくさん人生を教えてくれました。人間には、決められた枠組みの中で責任を持たされた方(受動的責任)が力を発揮できる人間と、自由の中で責任を持って(能動的責任)生きることで力を発揮できる人間とがいる。そんな教えもこのような道を選択した僕の頭の中に残っていたのかもしれません。あと人生で大切なのは、素質と育ちと出逢いだとも。きっと人には個々に
生まれ持った個性があり、それは育てられる中で育まれていき、人との出逢いによって開花していくということなのかもしれません。石崎先生は僕の人生の中で大きな出逢いであり、大切なものをたくさん心に残してくれた大好きな恩師でした。こうして長い時を経て熱く語り合えた時間は最高の時間でしたね。ザキさん!ありがとう!
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2011年07月21日

アイデアや発想を汲み上げる

小さな泉を見つけても、そのままでは池にもならなければ湖にもならない。小さな湧き水で終わりです。大切なのはその湧き水の小さな穴をどれだけ大きな穴にしていけるかなんでしょうね。穴が大きくなるとどんどん地下水は湯水の如く溢れ出てきます。これは人間も同じような気がします。アイデアや発想が出る泉を見つけたら、その見つけたことに満足するのではなくそこからが始まりなんでしょうね。しっかりとその出口の穴を広げて大きくしていかなくてはいけませんよね。そうすればアイデアや発想は溢れ出して泉が池に大きな湖になっていきます。小さな世界で何とかしようとするのと、大きな世界で何とかしようとするのでは底力が違います。泉を見つけ探し回るのも大変、見つけて穴を大きくしていくのも大変。でもそこにアイデアや発想が溢れる潤いのある豊かさがあるなら大変さも、また楽しです。そんな楽しみ方も、頭を使う楽しみなんですよね。誰の頭の中にも潜在的な能力は地下水のように流れているんですから。それをどこまで汲み上げていけるのかなんでしょうね
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2011年07月20日

心の原風景

僕は広島生まれ広島育ちで、学校で海での遠泳がありました。僕は泳ぐのは得意だったので苦ではありませんでしたが、途中で横とか後とかで苦しそうな感じの声を出したり、ギブアップしそうな友達がいたりしたら励ましていました。まあ、僕も途中で疲れてきて彼らの声を聞くと苦しいのは自分だけではないとも感じられました。その時に誰も脱落せずにみんなで最後まで泳ぎ切りたいと強く思いました。自分だけ泳ぎ切ればいいとは思わないし、みんなで泳ぎ切った後に喜び合いたいと強く思ったんですね。誰かに勝つとか負けるとか、そんなものは超越した全員で達成感を味わいたいと。みんなで大声を出して励まし合いながら最後まで泳ぎ切り、みんなで抱き合い肩を組みながら水飴を食べた瞬間が忘れられません。全身疲労感でクタクタなのに、心は凄く元気溌剌で、なんか凄く仲間を強く感じられて。今でもその時の感覚はリアルに残っています。きっと一人でも脱落してたらそんな風に心底喜びを感じられなかったと思います。同じ苦しさと喜びを仲間と共有して、みんなで達成し
たからこその感情なんですね。そんな感情が今も僕の心の原風景にあるから、そんな生き方や仕事の仕方をしていきたいと思うんでしょうね。
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2011年07月19日

どう生かして使いこなすか

短所は欠点と言われます。欠点や短所というと標準より足りない感を受けます。足りない感を持つと人はそれを満たさなければ、埋めていかなければと考えます。しかし標準より足りていないというのも一つの個性ともとれるんですね。もちろん長所もそうですが。必死で欠点を埋めていき標準化することはどうなんだろう?と考えることもあります。欠点を個性と捉えた時に、ではその欠点を生かして使いこなしていこうという発想があってもいいような気がするんですね。欠点と捉えればそれはマイナス要因になりますが、長所とまでは思えなくても個性と捉えていけば生かして逆にそれを使いこなしていくこともできるような気がします。標準化したとしても今度は標準的な生き方しかしていけませんよね。もし標準的なラインというものがあるなら、長所も短所も標準からは飛び出していたり凹んでいたりするんですから、どちらも僕は個性になり得るんだと思います。欠点を最大限に使いこなす場所を見つけてそこでそれを最大限に生かせば、短所が長所と言われるかもしれませんよね。
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2011年07月18日

愛情を大切に

人が生まれ、生き、死を迎える。こんな一生の中で最も大切なもの、それは愛情なんだろうと思います。愛情を育んでいくこと。そして愛情を注いでいくこと。人は孤独で生まれ、孤独に死んでいきます。生きていく中で人はたくさんの人との関わりの中で愛情を学んで育んでいくのかもしれません。愛情は深い海の底のような深く安定した、そしてものすごく静かな包み込むようなもののような感じもします。愛情は人に注げば注ぐだけ、減っていくどころか逆に自分の心の中で大きく深く育まれていくような気がします。愛情は人だけではありませんよね、動物にも自然にも注げます。究極は地球を宇宙を愛する力なのかもしれませんね。愛情の深さも広さも無限大。まさしく宇宙そのものです。愛情には人の心や体の傷を癒していけるエネルギーがあります。愛情は目では見えません。でも見えないからこそ一番大切なものなのでしょう。自分を大切にすること、そして自分の周りを大切にしていくこと。そんな生き方をしていきたいと思うんですね。
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2011年07月17日

変化への予測と準備

状況が動の時は、心の静を見る。状況が静の時は、心の動を見る。そこでバランスを保つことで、次に変化する状況に備えて準備をしておくのです。どちらかに偏り過ぎていると、変化に素早く対応していけません。目では目の前の状況を見て把握し、心では対局にある状況を想定し、見て起こり得ることを予測しておくようにしています。特に静から動、動から静のような急激な変化に対してはなかなか状況と心とが適応できないので、心の準備が必要なんですね。また動の状況の中にも静はあるし、静の状況の中にも動があります。動だから全部が動でもなければ、静だから全部が静でもないんですね。その小さな部分が変化を生み出す種になりますからそこを見落としてはいけないんです。その状況が変化する種を見れていれば、ある程度の状況の変化は予測していけるものなんですね。心での変化の予測をすること、変化に備えた準備をしておくこと。これはとても大切なことだと思います。
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2011年07月16日

月明かり

2011071521280001.jpg夜空の月を眺める。この月を悠久の昔からいくつもの時代を超えて、世界の国々を越えていったいどれだけの数の人々が眺めてきたのだろうか…と想う。様々な想いを月に重ね合わせながら。時代は変わり、人も変わり、世の中のほとんど全てが変わり果てても変わらずに夜空に静かに浮かんでいる。人は様々な悩みや苦しみを抱えながら生きていく。月はそんな人達を優しくやわらかく包み込んできたのだろう。太陽のような激しさではなく静かな穏やかさで。悠久の時を経ても普遍的に変わらないもの。暗闇を仄かに照らし出す。人の心も四方八方を暗闇に覆われて目の前さえも見えなくなる時もあるだろう…そんな時に仄かな月明かりで心を照らし出せる心の月。そんな普遍的な物事を伝えて残していける自分自身でありたいと常に思っています。僕という存在がこの世から消えても、たくさんの人の心を照らし出していけるような普遍的な哲学を残してみたい。まだまだこれから。でも月を眺めながら想う。何だか本当に温かで心に染み入る月明かりだなぁ、と。まだまだ自分自身を磨いて
いかなくてはいけませんね。
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2011年07月15日

歩み続けよう!!

「もう駄目だ」「もう無理だ」「もう終わった」…まだ駄目なんかじゃないでしょう。どう駄目なんでしょうか。何故駄目なんでしょうか。誰が駄目と決めたんでしょうか。駄目とは何でしょうか。最後の最後の一瞬まで決めたことならやり抜きましょう。もう終わったとは…まだ生きているんでしょう。生きている限りは終わりはないんです。命ある限りはとことんまでできるんですよ。そんな言葉を口にして自らの歩みを止めないで進んでいきませんか。懸命に命と向き合い、懸命にその生を全うしようとしている方々がたくさんいます。大切なのは自分から線引きをしないこと。どこまでも挑み続けていくこと。逃げたくても逃げられない方々もたくさんいます。目を背けたくても直視するしかない方々もたくさんいます。それでも前を向いて生きる。心で線引きしてしまえば前には進んでいけません。駄目でも、無理でも終わりでもない。人生の道が続く限りは人は歩み続けていくだけなんです。
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2011年07月14日

四つの『かんさつ』

四つの『かんさつ』観察と感察と考察(こうさつではなくかんさつ)と勘察。これは僕が大切にしていることです。観察は目で見て察する。感察は心で感じて察する。考察は頭で考えて察する。勘察は勘を頼りに察する。これらを別々に察することもあれば、一つの事象や状況をこれらを全て活用して察して総合的に判断する場合もあります。この場合は勘察して、感察して、考察して、最後は観察します。全てがピタッと揃う時は何の迷いもなく突き進むようにしています。感察と考察で意見が食い違うことはよくあります。感性と理論とがぶつかり合った場合は最終的にはしっかりと物事を観察して判断をしていきます。これだけのフィルターを通して物事を察していくと色々なことが見えてきて本当に面白いんですね。全ての基本は物事を歪めて察しないといいうことです。素直に勘が働き、素直に感じて、素直に考えて、素直に見る。ありのままの自分がありのままの物事に対峙する感覚です。
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2011年07月13日

社会を生き抜く勉強

学生時代の優秀さとは、とりわけどの教科もまんべんなく得意でいい点数を取れるということだったような気がします。しかし、社会に出ると平均的に何でもできることは武器にはならないような気がします。何でもいい、とことんまでズバ抜けたものをとことんまで突き抜けさせていきます。それを他のことが補完していくような感じなんだと思っています。『何か一つだけしかできません』でも『何でもできます』でもないんですよね。何か一つのことを成就させていくためにはやはり他のことも補完的にはできなくてはならないんですよね。感覚的には(笑)何か一つは常に百点。それ以外は平均点あたり。どんなにできなくても赤点にならない程度。くらいな感じかもしれません(笑)学生の頃の教科とは違い、社会に出るといろいろなことが関連し繋がっていきますから切り分けては考えられないんです。一つ事を貫いていくある意味での不器用さと、そこそこは理解しそこそこはできるくらいの器用さとのバランス感覚が大切なのではないかと思っています。
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2011年07月12日

ほんのりとした温かさを

ふと突然思い出した…昔、子どもの頃に読んだ『マッチ売りの少女』や『フランダースの犬』を読み終えた時の突き刺さるような悲しみを。人が人に無関心であることの悲しみ。小さな少女が健気に雪の中でマッチを売っているのに誰も見向きもしないのだろう。マッチは必要だし、高いものでもない訳だし、何で買って「こんな雪の中で大丈夫?寒いでしょ」くらいの優しい言葉をかけてあげられないのだろう…体も冷えますが、それ以上に無関心でいられることの心の悲しみから来る冷えがさらに辛さを増します。ほんのちょっとの人への関心、ちょっとの思い遣りがあれば…と。子どもの頃に絵本を読みながら、僕は大人になったらそのマッチかごの中のマッチを全部買ってあげるからと絵本の主人公の少女に心の中で語りながら読んだのを思い出しました。その小さな雪の中で寒さに凍えている少女は、もし産まれるところが違えば小さな頃の僕自身だったかもしれないのですから。人の心にも自分の心にもほんのりとした優しい温かさを持てる大人でありたいと常に思うのです。
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2011年07月11日

加点と減点

人助けをしている人が泥棒をしていたと聞くと何だかガッカリしませんか?(減点)でも泥棒をした人が人助けをしていたと聞くとどうでしょうか?(加点)少しホッとしませんか?同じことでも違う印象を受けますよね。最初に良いことを聞かされた後に、後で悪いことを言われるのか。逆に最初に悪いことを聞かされて後で良いことを聞かされるのか。善悪の逆転なんですが、最初に期待したことが裏切られるのは辛いんでしょうね。嫌な奴と思っていた人の中に好きな部分を見出だした時は、99%は嫌で1%の好きであってもその1%は大きな喜びだったりします。反対にいい奴と思っていた人の中に嫌な部分を見出だした時は99%は好きで1%の嫌でしかないのにガッカリしたりしませんか。前者は加点の思考が働き、後者は減点の思考が働くのでしょうね。そんなことを考えたりしてみると人間はとても不思議な生き物だなと感じます。人は人に勝手に幻想的な期待をかけて、期待通りのその人でなければ勝手に期待を裏切られたと感じてしまうのかもしれませんね。
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2011年07月10日

泥水を飲んで花咲く蓮の花

泥水を飲んで花咲く蓮の花。人生にもたくさんの泥水がありますよね。泥水は見方によっては汚い水。しかし別の見方をすれば栄養に満ち溢れた水。蓮の花は本当に澄んだ綺麗な蒸留水ではあれほどの美しい花は咲かせないのかもしれないですね。人生の泥水を飲んで汚い人になる人もあれば、その泥水を飲んで美しくなる人もある。泥水を飲んで枯れてしまう人もあれば、美しい花を咲かせる人もある。要は一つの経験から何を自分が吸収し、何を学ぶのかなんでしょうね。泥水の表面的な汚さを吸収するのか、その中にある深い真の栄養を吸収するのか。表面的な生き方を生き方をしているのか、深い生き方をできているのか。きっと同じ経験をしても学べることが違ってくるのだと思います。僕も含めてですが、泥水を栄養にして個人個人の自分らしい花を開かせていきたいですよね。
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2011年07月09日

表現の難しさ…

被災地で瓦礫の撤去と言われますが…僕はその言葉に少し違和感を覚えます。その場所にあるのは本当に瓦礫なのか…と。たくさんの家族の宝の山なのではないか…と。無数のかけがえのない思い出の数々なのではないかと。小さな茶碗一つに子どもの思い出があるかもしれません。木の柱に身長をつけたキズがあるかもしれません。化粧道具に母親の面影が、ジョッキに父親の面影が、杖におじいちゃん、おばあちゃんの面影が…それらは本当に瓦礫とひとくくりにしてもよいものなのか、と。そこにあるのは形は変わってしまってはいるけど、やはり日々の生きてきた証なのではないかと感じます。形見となってしまった方々も大勢いらっしゃることでしょう。僕も何と呼んでいいのかは分かりません。ですが、ニュースから流れる瓦礫という言葉がいつも心に突き刺さります。撤去という言葉もそうですが、確かにその作業そのものを客観的に表現すれば瓦礫の撤去なのかもしれません。でも、ふともう少し人の心にふれあう日本語の表現はないものなのだろうか、と考えてしまいます。ある
人には瓦礫でもある人にはとても価値のあるかけがえのない思い出の詰まった宝物なんですから。
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2011年07月08日

経験してみる

雪を経験しなければ、本当の冷たさや寒さは分かりません。プルメリアの花をかがなければ、その花から放たれる香りは分かりません。写真や人の話から、人はある程度の想像はできます。分からないこと、知らないことを知ることはできます。しかし、想像は現実のものにはかないません。知ることはできても、真に感じることはできません。ふと思います。人は自分の人生を通してどれほどたくさんの事を知るのか。しかし知る以上にどれほどたくさんの事を本当に感じることなく終わってしまうのか、と。想像はとても大切な力です。しかしそれで終わるとやはり想像は想像でしかないのもそうなんですよね…想像したものに対して行動を起こしてみて実体験してみる。雪を見聞きして興味を持てば、雪国に。プルメリアの香りをかいでみたいと思えばハワイに。全てが叶う訳ではありませんが、一つでも二つでも感じる。目で見て触れて五感で強く感じてみること。それも人生を豊かにしてくれるものなのでしょうね。
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2011年07月07日

自分の人生を自分が生きる

他人からどう見られるかとか、他人からどう評価されるかとか、他人から好かれるかとか、そんなことにいちいち振り回されながら生きていたいとは思わないんですね。僕は自分が自分自身と静かに向き合った時に自分が自分自身をしっかりと認められるような生き方を積み重ねていきたいんですね。他人の目は表面的な部分や肩書き、知名度なんかでコロコロ変わります。しかし、自分の目は等身大の自分自身を、本質的な自分自身を冷静に見つめることができます。ですから自分が自分自身を評価でき好きでいたいんですね。そのための人生を生きる。いくら他人が評価しようが、自分が自分を評価できないような生き方はしたくはないんですね。裏を返せば自分が自分自身を評価できていれば、他人からどう思われようがさほど気にならない。そのためには、自分が自分自身ととことんまで向き合うしかないんです。そして自分自身を評価できる生き方を自分が積み重ねていくしかないんですよね。
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2011年07月06日

遠くへ♪♪

浜田省吾さんの歌に『遠くへ』という歌があります。一番最初の歌詞。「やっと試験に受かったと喜び勇んで歩く並木道。肩にセーターとおろしたてのバスケットシューズ。髪をひるがえし駆け上がる校舎」僕も二年の浪人の末に大学に合格をした時のことを鮮明に思い出します。二十歳の新入生。初めての一人暮らしの東京生活。あの時計台のある大講堂に足を踏み入れる喜び。絶対にその大学にしか行きたくなかった。その夢を叶えた誇らしさ。人より二年も遠回りしたような気がしたけど、遠回りしてもその瞬間は遠回りした事にさえ満足できた。でも、何より大きかった感情は、浜田さんの書かれている歌詞の「やっと試験に受かった」その想いだったような気がする。受験勉強から逃げてきた僕が浪人して気づいた当たり前のこと。それは自分が何もせずに指をくわえて待っていても、大学合格というゴールからは自分には近づいて来てはくれないということ。一歩一歩自らがゴールへと進んでいかなくてはならないということ。今になって思うのは、合格して一番得たものは人よりは遅
れはしたがそれに気づき、一歩ずつでも地道に進めていけば夢を実現できるという自分への自信かもしれない。
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2011年07月05日

己との戦い

今日でこのブログも四年四ヶ月四日目です。毎日の小さな一歩でも欠かさなければ、四年四ヶ月四日という続く道になるんですね。休みたい日も、歩みを忘れそうになる日も、どうしても歩みたくないと思う日も、歩みの意味を失いそうになる日もありました。あるいは、今日はいいじゃない、明日にすれば…という葛藤の日も。やっても、やらなくてもいい事。別に歩みを止めたから誰かに迷惑をかける訳でもない事。このブログの日々の継続的な歩みは自分が自分自身に課した約束事。自分は自分自身に言い訳をしたくない。できない理由、やらない理由を作って自分自身を甘やかしたくはないんですね。やる!と決めたことは一切の妥協を切り捨ててとことんまでやり抜く。誰のためでもなく絶対に諦めない自分自身のために。そのことが誰かの役に立ったり力になっていたりしたら幸せなことなんですね。人は何かをやること、何かになることは簡単です。一番難しいのはやり続ける、なり続ける、その事なんだと思うんですね。誰にも負けない強く固い意志が必要です。自分自身との心の
中での戦い。まだまだ続けていける限りは挑んでみたいと思います。
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2011年07月04日

二度とない今の自分

雲を見上げる。もう二度と今見た雲を見ることはない。でも雲はなくなることはない。消えても、また形を変えて姿を見せてくれる。雨を降らせ、その雨が蒸発して空に上り雲になる。それを繰り返していく。人も同じ自分も同じ他の人も二度とないのだと思う。心の中で涙を流したり、笑顔になったり、元気を失ったり…そんな心の空模様で変わっていく。でもどんなに変化しようが、雲と同じく自分という存在は生きている限りは存在し続ける。雲が雨を降らせたり、太陽が照りつけたりして自然界に潤いを与えるように、人も心の空模様の中で自分自身にも、他の人にも潤いを与えているのかもしれない。喜怒哀楽、考えてみたら心の空模様のようですね。穏やかなお天気の日もあれば、大荒れの日、しとしと雨の日、雲ひとつない太陽が照りつける日。でもどんな時でも雲は空にあったり、雨として降ったり、例え空になくても水分として地上に変わらず普遍的に存在する。まるで自分自身の存在も同じように。同じ今日、同じ瞬間が二度とないように、二度とない今という一瞬の自分自身
を存分に感じながら生きていきたいと思いますね。
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2011年07月03日

友情

友、やはりそれはかけがえのない存在だと感じます。僕たちが学生時代、友とは本気で付き合った。情熱を共有し汗を流し、思い切り熱く語り合い、本気でお互いにぶつかり合った。思いっきりバカなこともした。思いっきり真剣にも生きた。青春時代を共に過ごした大学時代の友と昨日、今日と仕事をした。昨日は高校の先生をしている友の学校で講演。今日は群馬でテニスクラブを経営している友のクラブの選手たちへの講演。大学を卒業して20年。別々の道を歩んできた。この年月、その道を歩み進んでいくためにいろいろな想いをしてきたことだろう。黙してお互いが理解し合える。立場は変われど、学生時代と変わらない呼吸感がたまらない。時を経ても変わらないもの。今でも語り合えば、あの頃のようにお互いが情熱を本気でぶつけ合える。そんな些細な学生時代の面影がたまらなく嬉しく感じる。目の前の友の笑顔の表情に、大学のキャンパスで交わした笑顔の表情の記憶が重なり合う。友よ、ありがとう。いつまでも変わらずにいたいね。
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2011年07月02日

美しさ

アンチエイジングなんて言われてますが・・・立派な老木を目にすると、木には節がデコボコし、樹皮はひび割れ、苔がむして。決して美しくはありませんが、見る人に風格や安心感を与えてくれます。若木は全てがツヤツヤしていて美しさはあります。僕はふと、表面的な美しさって何なんだろう?と感じます。木が年輪を重ねていくように、人も年輪を重ねていきます。男女問わず、年を重ねた時に次第にその生き方、生きざまが全てに表れてきますよね。僕は表面的な美しさではなく、その内面にある美しさこそアンチエイジング以上に大切な気がします。顔中シワシワのおばあちゃん、おじいちゃんだってそこに内面的な美しさがあればとても素敵ですよね。自分もこれからそんな年の重ね方をしていけるよう生きていきたいですよね。幸い僕は若い頃よりも、今の自分の顔の方が好きになれます。まあ、老けてはきましたが自分の生きてきた顔になってきたような気がします。美しさの価値観も年齢を重ねる度に変化しますね。面白いものです。
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2011年07月01日

もの悲しさ

小さな頃から、お客さんの入っていないお店とか見ていると、何だか泣きたくなるような何とも言えない悲しみというか淋しさというかやりきれない気持ちになったのを思い出します。自分とは全く関係のないお店。関係のない店主さん。でも小さな頃から、あの店主さんはどんな気持ちなんだろう…何かがっかり淋しい気持ちじゃないかなぁ…一人もお店に来てくれなかったらすごく悲しい想いをするんじゃないかなぁ…なんて色々と考えて自分が悲しくなるような子どもでした。僕が入ってあげたくても子どもの僕が一人では入れないし…何の力にもなれない自分がもどかしくて。お店の中でおじいちゃんとかおばあちゃんのポツンとした姿を見ると、何だか自分の祖父母と重なり合ったりして。そっと心の中で「どうかこの後に誰かお客さんが来ますように」「お店の人が喜べますように」って祈るような気持ちでお店の前を通り過ぎていました。大人になった今でも、そんな感じがあるんですよね…
posted by Takahata at 00:05| Comment(15) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする