2020年05月31日

一つにとらわれない

『寸指測淵』考えの浅い行為。または、実際に行うことが不可能なこと。一寸の長さしかない指で、水の深い場所の深さを測ろうとするという意味から。改めて漢字の面白さと、表現力の豊かさに感服する。自分の指の長さ(自分自身のこと)と淵の深さ(相手や取り組もうとすること)を正確に理解しておかなくては、大失敗をしてしまうだろう。もし淵の深さが目で確認できないとしても、長い木の棒を突っ込んでみて底に届かないとすれば、指なんかでは到底測ることはできないことが分かる。長い紐の先に石をつけて沈めてもいい。相手のこと、取り組もうとすることを理解するのに、自分の中だけで勝手に判断をしてしまわないことが大切になる。判断をするための方法をよりたくさん発見することができれば、より正確な情報を得ていける。それがしっかりとできていれば、トンチンカンな行動をすることもなくなるだろう。指では永遠に測れない。しかし、指以外を使えば測る方法はいくらでもある。一つの方法だけにとらわれてしまうと、不可能を可能にはしていけない。
posted by Takahata at 00:07| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月30日

勝つと成功する

勝ったか負けたかは比較事。相手と比較されて決められること。成功したか失敗したかは自分事。個人の成功失敗を誰かが決められることではない。相手がどうこうではなく自分の中で決めていくこと。例え勝ったとしても、それを成功と自分で思えれば勝ちと成功が合致する。しかし、勝っても失敗したと自分が思えば合致しなくなる。その逆の負けたとしても成功と思うか失敗と思うかも然り。勝ち負けと成功失敗は必ずしもイコールではない。自分の人生を勝つために生きるのか、成功するために生きるのか。自分の人生を誰かに他人との比較で決められていくのか、自分の中で決めていくのか。それは各自の自由。
posted by Takahata at 17:29| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月29日

素直に

白紙には何でも書ける。過去も書けるし、未来も書ける。文字も書けるし、絵も描ける。写真だってプリントできる。好きな色だってつけていける。白紙は無ではなく実は無限の可能性を秘めているものなんだろう。しかも規定されずに自由自在に自分を表現していくための。恐らく心が素直な時は自分に対しても人に対しても白紙の状態で接することができるのだろう。何にも妨げられることなく、心のノートにありのままを刻み込んでいけるのだから。そのためには常に心の中をクリアーにしておかなくてはいけないだろう。
posted by Takahata at 00:10| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月28日

未来を描く

過去は書棚、未来は映画館。過去には自分が経験した様々な知恵が大切に保存されている。未来には自分が主人公の夢の映画を観ることができる。過去の知恵を生かしながら、自分の未来を夢見て今を熱く全力で生きていかなくてはいけない。そんな本気で全力な今を過ごすからこそ、今という時間が過去になった時に、かけがえのない知恵が書棚にストックされていくのだ。筋書きを懸命に探して描いていく。上手くいかなかったり、失敗しても描き続けるからこそ、それは自分自身の知恵になっていくのだ。夢は生きていく原動力になる。夢は遥か壮大なものでなくてもいい。自分が生きたい人生の方向性のようなものだ。夢には感動が伴う。映画館を出た後にも感動が残り、映画に感化されて自分も動きたくなるように。感動とは感じて動くこと。感動すれば人は自然に動きたくなる。無理矢理やらせても人は動くがすぐに嫌になる。恐怖で人は簡単に動くがそれは長続きはしない。上手に感動を与えて自分が強くやりたくなるようにしていくこと。恐怖ではなく、強い喜びや深い楽しみを感じさせていく。やらされ感ではなく、やりたい感を大切にしていく。
posted by Takahata at 00:06| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月27日

停滞の先に

『紫電一閃』事態の急激な変化のこと。研ぎ澄まされた剣をひと振りするとき、一瞬ひらめく鋭い光の意から。「紫電」は研ぎ澄まされた剣をひと振りするときにひらめく鋭い光。「一閃」は一瞬のひらめき。さっとひらめくこと。スポーツでも何でもそうだが停滞しているような時に、ワンプレーで一気に流れが動き出すようなことはある。もしくは自分の頭の中の思考が停滞しているような時に、一瞬の閃きから思考回路が活発に動き始めるといったことはある。よく降りてきた!とかの表現が使われたりもするのではないだろうか。何かを大きく動かすための、小さなこと。しかし、小さいがそれは同時に大きくもある。この小さなワンプレーや小さな閃きというのは、それが出てくるまで何とかしようと、もがいて、もがいて、もがき抜いて最後まで諦めない者にしか降りてはこないだろう。停滞しても気持ちを切らさずに耐え抜いていく。その先に一瞬のように出てくるもの。一瞬の閃きが暗い夜空を一瞬のうちに明るくしていくようなもの。
posted by Takahata at 00:41| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月26日

競技即人生

『文質彬彬』外面の美しさと内面の質朴さが、ほどよく調和しているさま。洗練された教養や態度と、飾り気のない本性が、よく調和しているさま。仕事柄、様々な競技の超一流選手達と接することも多いが、そういう選手達と接しているとこの四文字熟語が当てはまると感じる。プレーの動きの美しさはもちろんだが、人柄の素朴さがビジネスマンではない職人気質のようなものを感じる。卵が先か鶏が先かの話ではないが、その競技への取り組む姿勢が職人気質であるために、どんどん自分のプレーに終わりなき探求を積み重ねて磨きをかけていく。そうするとプレーは美しさをその都度増していく。意識が自分の競技に集中してブレずに向けられているため、本当に飾り気がなく、自分を大きく見せようなんて気もなく、自分が積み重ねてき て表現する作品(プレー)を見てくれればいいくらいの感覚。競技によって自分が磨かれ、自分が磨かれることで競技も磨かれていく。競技即人生。人生即競技。
posted by Takahata at 00:44| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月24日

基本を

基本の先に個性が出てくる。個性は良いことだが、時にこの個性が時に間違った方向に向く時がある。自分では早く基本から卒業したいという思いから、独自の形を作り上げていく。そしてスランプになったりする。よく言われることだが、基本に常に立ち返ることは大切。一流選手ほど基本を大事にしている。基本というのは案外つまらなく感じがちだ。早く先に進みたいという気持ちも強くなる。それが時に先走らせてしまう。どんどん基本から離れていき、勝手なものを作り上げていき、途中から何が何だか分からなくなる。大事な基本が抜け落ちた個性は実体のない虚像のようになっていってしまう。困ったら基本に立ち返ろう。
posted by Takahata at 16:17| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夢に向かって

もし君の描いた夢が叶わなかったとしても…夢を追いかけて真剣に流した汗に嘘はない。仲間達と交わした夢の話が夢で終わっても…真剣に語り合った仲間達との絆はこれから先の人生でも大切にしてほしい。限られた時間の中で夢を持って情熱を注いだかけがえのない日々を、これから先の人生を生きる糧にしてほしい。夢は叶わなかったとしても、決して嘘にはならない。そこには夢に向かった明確な日々があったんだから。そんな夢なんて…と誰かが笑ったとしても、自分は描いた夢に胸を張って生きればいい。そこには恥じることなんて何一つない。
posted by Takahata at 02:23| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月22日

小よく大を制す

力の小さいものが、力の大きなものを倒すことのたとえ。または、ちょっとしたことが大きな事件や災難を引き起こすということ。蚊や虻のように小さな虫でも、数が多ければ牛は走って逃げるという意味から。ともすると、人は大きなもの、強いものには勝てないと勝手に思ってしまいがちだ。確かに王道の横綱相撲を取って戦えば、大きなもの、強いものに負けてしまうかもしれない。しかし、小さいものや弱いものの利点や強味を探して、あちらの戦い方ではなく、こちらの戦い方に引き込めば、そこに勝てる可能性は生まれてくる。そうするためにも、自分自身の、あるいは自分達の相手にはなくて、こちらにはある強味をしっかりと理解しておくことが大切になる。いくら敵を研究しても自分、自分のチームを研究できていないといけないだろう。
posted by Takahata at 00:51| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月21日

真実を

事実ではなく、真実を見つめてほしいと願う。事実は最後の夢の舞台を失ったということ。しかし、真実は自分自身の心の中にあるはずだ。真実とは自分にとって絶対的で、普遍的なもの。自分がどんな想いで日々を積み重ねてきたのか。それは事実がどうであれ、今も、そしてこれからどれだけの月日が流れようとも決して変わることのない真実。嘘偽りなく心の中に深く刻まれたもの。事実は時として時間と共に風化していくかもしれない。しかし、真実はこれから先の人生を生きていく上での心の拠り所になり指針となっていくだろう。目では事実は見えても、真実は決して見えない。でも自分の心に問えば、必ず心は真実を答えてくれる。
これから先の人生においても自分が望む結果としての事実を確実に手にできることばかりではないだろう。でも、いかにそこまでの過程に打ち込むかという自分の真実は自分次第でいかなる時でも手にしていける。人生は、自分の生き方は、真実の積み重ねでしかないのかもしれない。

打ち込んできた情熱の強さも、流してきた汗も、そして仲間達に対する想いも、誰かと比較するものでもなければ、誰かに評価されるものでもない。自分の中にこそあるもの。自分にしか分からないこと。だからこそ、これからも変わらずに真実を貫いていく人生にしていってほしいと心から願う。
posted by Takahata at 01:42| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月20日

ミスに

ミスを怖がるくらいなら、ミスをしてしまった時にいかに瞬間的に事後処理できるか、最善の対処をできるかを考えて準備しておいた方がいい。ミスをしたから結果も悪いかというと必ずしもそうとは言い切れない。ミスしても対処が良ければ結果は良くなったりする。ミスしない人間はいない。でもミスした直後に素早く対処できる人とできない人はいる。結果もまだ出ていないのに、ミスした瞬間に結果まで諦めてしまって、パニックになり対処まで考えられなくなる…それでは、ミスするのが余計に怖くなってしまうだろう。ミスはしないに越したことはないが、ミスは早めに対処すればそれほど恐ろしいものではないということも理解しておいた方が良いだろう。
posted by Takahata at 00:24| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月19日

心の文明開化

『後生可畏』若者は、今は未熟でも来るべき時代の息吹を敏感に感じ取り、将来の大きな可能性を秘めているから、侮ってはならず、むしろ畏れ敬うべきであるということ。本当に若者には大きな可能性を感じる。自分などは昭和の典型的なアナログ人間だが、若者はデジタルにも長けていて、それをベースに新たな感性で新たな文化を作り上げていく。若い子達は分からない…若い子達は俺達とは違うから…なんて言ってたらダメだなぁ〜なんて感じる。新たなものを自分の中に受け入れた上で、自分の中に築き上げてきた大切なものと融合させていくことは大切だなと感じる。若い子達を心の中で受け入れない心の鎖国状態では自分自身の感覚も完全に時代に取り残されていってしまう。心の中を解放して謙虚な姿勢で好奇心を持って若者を受け入れていきたいと思う。そうすることで心の文明開化も起こるのではないだろうか。新たなものを恐れるのではなく、楽しめる自分でいられたらなと思う。
posted by Takahata at 00:17| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月18日

いかに走るか

多くのスポーツで足が速いというのはプラスに作用するだろう。いかに速く走るか…しかし、さらに重要なのは、いかに考えて走るかのような気がする。どのタイミングで走るか?状況をどう生かして走るか?どのようなコースで走るか?どのように速く見せるか?などなど頭を使い考えて走れば、仮に足が遅くてもそれを補うことも可能になる。ただ、やみくもに走ってもスタミナは消耗するし、相手も対応しやすくなる。走り一つとってみても、いかに考えて工夫していけるか。速いに越したことはないが、それ以上に走りをどう最大限に生かすかを考えることが大切なような気がする。
posted by Takahata at 00:29| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月17日

これからの指導者は

このメンタルトレーナーという仕事を始めて、30年弱になるが、始めた当初のプロ野球選手の気質と最近の選手とでは大きく違ってきたなと肌で感じることができる。プロの世界でもそうなのだから、時代と共にスポーツに取り組む子ども達の気質も大きく変わってきているのだろう。それと同時に選手を指導するコーチ陣にも指導法やコミュニケーションの取り方など変化や工夫が見て取れるようになってきた。
指導者の側が一つのことを指摘したつもりが、選手は自分が全否定されたかのように受け取る。発破をかけたつもりが、それをそのまま受け取り帰宅したり辞めてしまったり。厳しいことを口にするとすぐに萎縮して元気をなくす…試合に出場させなければ親から苦情が来る…
昔と比べるのはどうかとは思うが、違いを挙げればキリがない。それもそうだろう。子ども達の家庭での親子関係も、子ども達の学校などでの友人関係なども時代と共に変化しているのだから。コミュニケーションの手段もラインが主体になり、家庭でも怒られた経験もなければ、逆に家族の中で最優先に扱われて育つ。辛いことも親が先回りして回避させていく。

指導者の側も昔はこうだったと嘆くのではなく、時代に適応していかなくてはならないだろう。温故知新ではないが、昔からの大切なことは今なお大切にしながらも伝え方という手段を新たに考えていく必要がある。指導者は自分のやりたいようにやって自己満足に浸るために指導をするのが目的ではない。指導の目的はあくまでも子ども達を伸ばしていくことなのだから。

今の時代の子ども達の特徴を踏まえた上で、伝えるべきことをいかなる手段を使ってより伝わるようにしていけば良いのかを熟慮していかなくてはならないだろう。大人である自分達も過ぎし日を思い出してみると、このように指導を受けていれば…と思うようなことも多いのではないかと感じる。そういう意味では表面的には昔と今の子どもは違っているように見えて本質的な部分では大きくは変わっていないのかもしれない。
posted by Takahata at 00:05| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月16日

不安に対して

人間として生まれてきた以上は全く不安を感じることなく生きている人は一人もいない。どんな動物でも不安を感じることはあるのだろうが、それは目の前の出来事に対してではないだろうか。しかし、人は唯一、未来を想像していくことができる動物だ。そのため、他の動物とは違う未来に対しても不安を生み出してしまうことになった。先々を憂い不安におそわれてしまう。逆にその不安があったからこそ、その不安を払拭するためにあらゆることを考えて準備していくこともできる。人類の進化も不安とその不安の克服の歴史と言っても過言ではないだろう。
また日々の生活の中でも不安を持つことでのメリットもある。不安を抱くから周りを周到に観察してしっかりと空気を読んでその場に適した行動を取っていけるということもある。また緊急事態時に際しても、不安があるから慎重に行動をして自分の身に危害が及ばないように対処していくことができる。こと対人関係においても、人に対して不安を感じるからこそ、今相手はどう思っているのだろうといった相手に思いやりを持てたり、相手から様々な情報を読み取り騙されたりしないようにしたりもできる。
このように考えてみると不安も日々の生活の中でも役立っていたりもするのだ。不安がなくなると、単なる行き当たりバッタリの生き方になってしまうことだろう。問題なのは不安が過剰に働き過ぎてしまい心が衰弱したり、不安に押し潰されて適切な行動を取れなくなったりすることなのだ。車で例えるなら不安というのはブレーキの役割を果たす。ブレーキは安全運転には欠かせないが、ブレーキばかりを強く踏んでいると故障したり、一向に前に進んでいけないままであるということだ。そうなってしまうと不安はマイナス要素が強くなってしまうことになる。
冒頭にもお話したように不安を感じない人はいないが、誰もが同じ強さで、同じ頻度で不安を感じる訳ではない。人によって同じ状況に置かれても不安の度合いは違うのだ。不安を頻繁に強く感じる人の大きな特徴としてマイナス思考が挙げられる。日本人はこのマイナス思考の方々が非常に多い。平常時であれば、マイナス思考の方々も自分の力を発揮できないメンタルの弱さを自覚する程度の不便さで済んでいたことと思う。しかし、今回のコロナ禍のような先行き不透明な状況下では、不安が過剰に増幅して心を病んでしまったり、無力感におそわれて投げやりになってしまったり…不安が適切に働いてくれなくなる方々も増えていくことと思う。
今回のことに限らず、自分の一生の中でいかに上手に不安と付き合い、不安を逆にチャンスに変えていけるといいと思う。これこそが逆にコロナ禍というピンチの状況にあるからこそ、真剣に不安というものを学び向き合うチャンスにしてもらえるのではないかと思う。不安とは一生付き合っていかなくてはならないのだから。
posted by Takahata at 00:10| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月15日

時には自己を主張

三方良しというが、いざ!という時には全ての意見に耳を傾けて全てに応えていこうとしてしまうと、目指す方向性に一貫性が見られなくなるし、判断がことごとく遅れてしまい、さらには行動力が鈍くなってしまう。今回のコロナに対しての政府の対応はどうしても後手後手に回ってしまったように感じる。平時の取り急ぎの案件がない時であればそれでもいいのだろうが。。。いざ!至急!を要する際には、やはり全てに良しとはならないだろうし、全てから納得を得られることも賛同を得ることもできないかもしれない。それでも、責任を全うして一貫性を保ちながら、素早く決断して行動に移していくことも大切なのだろう。これは国という大きな単位だけではなく、会社やスポーツチームなどの組織でも同様のことが言えるだろう。時には八方美人ではなく、明確な自己主張も求められることもあるように思う。
posted by Takahata at 02:07| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月14日

花のように

アスファルトに咲く花のように。

人はいかなる場所に生まれようが、自分の人生を切り拓いていく強い意志と自分の求める選択と自分が流した汗でいかようにもなれるし、いかなる場所にも行ける。国を離れて海外にだって行ける。


しかし、花は自分の意志ではない場所に種を飛ばされれば、そこがアスファルトであろうが、全く日の光を受けられない日陰であろうが、そこからは決して動くことはできない。


もっと栄養があって光を受けられる場所を求めても決して動けない。黙って自分の運命を受け入れて、黙して耐えて、懸命に根を張り、自分の花を咲かせていく。

自由であるはずの人間、自分の力で人生を作っていけるはずの人間。でも、人生の途中には自分の意志ではいかんともしがたい、自分の力ではどうにも選択できないこともある……


運命。もし、その言葉があるならそれを受け入れていくしかない時も。辛かろうが苦しかろうが、野に咲く花のように誰にも言えずに黙して耐えて自分の根を深く張らなければならない時が……


この状況の中で人々がここで咲かせることができるのは、どんな花なのか。ここは自分自身の心の種を信じるしかない。自分自身の生命力を発揮することしかできない。

どうにも辛く苦しい時は、普段は目にも止まらない道端に咲く花に目を向けて。何気ない一葉の風景が、時に心を慰め、時に心を強くしてくれることもあるだろう。運命を呪うでもなく静かに美しく咲く花のように。
posted by Takahata at 20:49| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月13日

チャンス

チャンスは焦り過ぎると掴み損ねる。チャンスはボケッとしていると気づきもしない。チャンスはのろのろとのんびりしていると通り過ぎてしまう。チャンスは時にピンチの顔をしてやってくる。時にチャンスが怖くて逃げ出したいような心境になることがある。時にチャンスは逃した後にチャンスだったんだと気づかされることがある。チャンスはラッキーとは違う。ラッキーは運かもしれないが、チャンスはしっかりと準備をして実力を高めた者にしか訪れない。チャンスは実力を備え、チャンスをチャンスだと認識して、絶妙なタイミングで掴もうとしなければモノにできない。
posted by Takahata at 00:09| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月12日

大の中の小

『則天去私』小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きて行くこと。「則天」は天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと。「去私」は私心を捨て去ること。夏目漱石が晩年に理想とした境地を表した言葉のようだ。小さなことにとらわれていると、大きなことを見失っていく。すると大きな流れをつかめなくなる。小というのは、大の中の一部。今回のコロナに限らずあらゆる自然災害は、人間のエゴが強くなりすぎてしまい、世界、地球規模の大きなものへの意識が薄れてしまったことも一因としてある。小さなエゴがどれだけ何をやろうが、大きな自然は支配することはできない。今回のことで人間という自然界の一部が大きな自然界に意識が向き、この言葉のような生き方を積み重ねていければ、大きな流れの中で順応して生きていけるのではないかと感じる。
posted by Takahata at 01:00| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月11日

僕らのスタジアム

DSC_1065.JPGDSC_1068.JPGDSC_1069.JPG僕らのスタジアム。

小学生の頃、家にランドセルを放り投げて、友達みんなで、僕たちのスタジアムに集合して手打ち野球をして遊んでいた。

大人になって見てみると何とも狭い駐車場だったり、道路だったりする。でも、小学校の低学年の僕たちには、それがとても広く感じた……僕たちには、そこは憧れの広島市民球場だった。

手で打った打球が、人の家の塀を越えたり、人の家の窓に当たったらホームラン。大人から見たら何とも狭い世界だが、子ども時代の僕たちはホームランを打てば、とても誇らしかった。


でも、その後にはその家の塀を乗り越えてホームランを打ったヤツがボールを拾いに。見つかっては怒られ……それでも、そのスリルを楽しんだり。そこには、大人とは明らかに切り離された子ども達だけの世界があった。


半ズボンでスライディングなんかして足が擦り傷。お風呂に入る時は滲みたけど、野球をやってる時は痛みすら感じることもなく夢中だった。


じゃんけんでチームを分けて、どちらがカープか?を本気で取り合った。その後も、誰が山本浩二や衣笠祥雄かを決めるのも必死だった。ギリギリのアウトかセーフかもじゃんけん。誰もが勝手にヒーローになった。小さなヒーロー。


僕たちのスタジアムには、チビの半ズボンのプロ野球選手ばかりいた。真似るのではなく、誰もが成りきっていた。子どもの世界だが、気持ちは一端のプロ野球選手。


日が暮れて一人帰り、二人帰りして何となくゲームセット。あの頃のみんなとバイバイする時の物寂しさや夕暮れ時の空や空気感は今でもリアルに思い出せる。


ついつい忘れがちになるが、子どもには子どもの世界が確かにあった。狭い空地で遊んでいながら、みんな本気になっていた。大人になると見えなくなったり、忘れてしまったりする世界。

いつからだろうか……今ではそんな僕らのスタジアムで野球をしたりする子ども達の姿を見なくなった。
posted by Takahata at 00:43| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月10日

思考力と想像力

『深謀遠慮』深く考えを巡らし、のちのちの遠い先のことまで見通した周到綿密な計画を立てること。「深謀」は奥深い見通しをもった考え。「遠慮」は、将来について考え巡らす、遠く先のことをよくよく考えること。感情的になったりして、その場でその感情を抑制できずに思いつきの行動をしてしまったり、近くの損得勘定に振り回されて目先のことしか見えなくなったりする人もいたりするだろう。近視眼的にしか物事を見れなければ、先々のことまでは見れもしないし、当然考え抜くこともできないだろう。そうなると目の前に起こることへの行き当たりバッタリの対応にしかならなくなる。先を見るためには今の目の前を見るための目ではなく、心の目、そう心の中の想像力というものが大切になっていく。この想像力を持てているのは人間しかいないのだから。深く考えるための思考力。これまた人間しか持てていない。想像力と思考力の二つの力を両輪駆動させていかなくては『深謀遠慮』を行ってはいけないだろう。
posted by Takahata at 00:24| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月09日

当たり前の

当たり前の幸せ、よく耳にしたりする言葉。でも、自分も含めて多くの方々が今回のコロナによって改めて痛感させられたのではないかと思います。普通に人と会い普通に話す。飲み会に参加する。時に人と話すのが面倒臭いと感じたり、忙しいのに飲み会やるの?みたいに感じていた方もおられるでしょう。やはり、日々の忙しい日常に追われているとそうしたことが日常化していき、当たり前のこととして傍らに置かれたり、置き忘れてしまったり。。。普通にスポーツをやれること。勝った負けたと一喜一憂していたのが、今回は戦うことすら許されず終わる方々も多い。人がいること、自由にやりたいことをやれること。そんな至ってシンプルなことこそが一番大切な幸せなんでしょうね。逆にそれを奪われてしまうと、人は人としての自分自身を時として見失ったり、強い自己喪失感を感じたりするのかもしれません。コロナだけでなく平和な社会、心豊かな社会を次世代の子ども達に残していってあげなくてはいけないと強く感じます。
posted by Takahata at 01:06| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月08日

苦もあるさ

『先憂後楽』常に民に先立って国のことを心配し、民が楽しんだ後に自分が楽しむこと。転じて、先に苦労や苦難を体験した者は、後に安楽になれるということ。もしかすると、これは指導者の理想像なのかもしれない。中には選手に心配をさせ、自分が率先して楽しもうとする人もいる。そうではなく、苦しいことは指導者が率先してやり、楽しいことは選手を優先させていく。なかなかできるようで難しいことなのかもしれない……苦しい時は指導者の立ち向かう背中を見せて、楽しい時には選手達の楽しそうな姿を微笑ましく見つめる。人生、楽ありゃ苦もあるさ。涙の後には虹も出る。苦しい時にこそ逃げ出さずに立ち向かって乗り越えていけば、その先には乗り越えた楽しい自分がまっているはずだ。一人の人間としても苦から逃げ出さずに逆に率先してでも苦にぶつかっていける自分を今後も育てていければと強く思う。
posted by Takahata at 00:30| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月07日

やる!!

やってもできない。これが表に出て、みんなに知られてしまうことを恐れて、ずっと避け続ける。できない自分を自分自身が認めたくない。できないんだとみんなに思われたくない。できそうもないことにぶつかると、できないという結果が出る前に投げ出す。そして、自分はやらなかったからできなかったんだと言い訳をする。自分は本当はやればできたんだ、と自分を誤魔化す。そのうちに投げ出すことに慣れていき、小さなハードルさえも挑むのをやめて逃げ続け、逃げることで自分自身を肯定することに慣れていく。気づけばできないことが増えて、できないことばかりに囲まれていってしまう。やれば自分はできるけど、本気でやるのは格好悪いっていう醒め切った芝居をして自分自身をかろうじて保つ。そんな薄っぺらなプライドみたいなものはいらない!
posted by Takahata at 01:11| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月06日

変化に気づく

『生生流転』すべての物は絶えず生まれては変化し、移り変わっていくこと。「生生」は物が次々と生まれ育つこと。「流転」は物事が止まることなく移り変わっていく意味。世の中の森羅万象、意識をしていないだけで、常に生生流転している。空に浮かぶ雲は毎日見ることはでけるだろう。しかし、今この瞬間に見ている雲は常に変化して二度と見ることはできない。道端の木々にしても、葉を落としたり葉をつけたりして日々刻々と変化し続けている。人間だって。。。同じ人間であっても心は常に変化したり、思考も変化している。地球上の全てが一瞬たりとも同じ状態でずっとあり続けることはない。そう考えると日々にしても、こんなコロナの状況の中にいてステイホームをしていると環境も自分自身も変化のない毎日のように感じるかもしれない。だからこそ、自分自身の中の僅かな変化を見つけ出して、それを少しでも味わえたりすると楽しい時間になるし、それが自分自身の進化のきっかけにもなるような気がする。
posted by Takahata at 00:05| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月05日

準備の質

『長袖善舞』前もってしっかりと準備してことに臨めば成功しやすいということ。または、元手や資質があれば成功しやすいということ。袖が長い服のほうが、袖の短い服よりも舞う時に美しく見えるということから。準備の大切さはよく言われることだが、この準備は人によって度合いも、精度も、期間もまるで違う。誰もが、準備をしてきたか?と問われれば、はい!と答えるだろう。しかし、準備の質によって結果は違ってくるだろうと思う。付け焼き刃的な準備ではすぐにボロが出てしまうだろう。長袖というところに本来の意味とは違うが、自分なりの意味を見出だしてみた。半袖の準備では暑ければいいが……仮に寒かった時には大変な思いをすることになる。しかし、長袖であれば暑ければ袖を捲ればいいし、寒ければそのまま長袖でいい。長袖ならいかなる状況にも対応可能な準備と言える。本来の準備というのは、あることだけにしか対応できないというものではなく、どんなことにも応用して対応できる準備なのだろうと考えさせられた。
posted by Takahata at 00:13| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月04日

こんな時期だからこそ

コロナの影響でみんながストレスが溜まり、家庭でのDVが問題になっているというニュースを耳にする。心に余裕がなくなり、苛立つ中では暴力まではいかなくても、暴言を吐いたりする方々も増えてきているのかなとも感じる。『大喝一声』長い時間をかけて説得するのではなく、怒鳴り声で短い言葉を発するという意味する言葉。感情に任せて口にすればそうなることもあるだろう。「何で分からないんだ!」と。人と人とはどんなに親しかろうが違う人間であり、価値観も考え方も感じ方も一緒なんていう人はいない。やはり、そこは長い時間をかけて説明を積み上げて理解を求めていくしかないのだろうと思う。そもそも、相手に簡単に分かってもらおうという考え方が違うのだろう。こんなストレスが溜まる時期だからこそ、誰もがそのことを肝に命じておきたいこと。
posted by Takahata at 01:03| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月03日

心と頭

『熱願冷諦』熱心に願い求めることと、冷静に本質を見極めること。諦とはここでは諦めるという意味ではなく、明らかにするという意味に使う。よく試合などでベストなのは心は燃えてて頭は冷静なのが良いと言われる。もちろん競技によっても違うが。心がビビっていては戦えるものも戦えない。臆することなく試合には自分のベストを出し切るのを願い、そして自分自身を強く信じ抜いて戦っていきたい。そんな心の状態を熱いと表現することもできる。しかし、頭の中まで興奮して熱くなってしまうと、冷静な判断ができなくなる。冷静に流れを読み取り、冷静に対処していくことが大切になる。心が熱く頭も熱くなると暴走プレーになっていくし、心が冷たく頭も冷たいと臆病プレーになっていくだろう。心は大胆かつ頭は繊細にと言い換えることもできるように思う。
posted by Takahata at 00:27| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月02日

出会いや繋がり

『傾蓋知己』という言葉。一度出会っただけで、昔からの友人のように親しくなることのたとえ。どれだけ昔から知っていようが、親しくならなかったり、離れたりする者もいれば、反対に一度会っただけなのに昔からの知人のように気持ちが通じる者もいる。親しくなるのに時間という要素もあるが、それ以上に価値観や感じ方、考え方に共通した要素がある方が、一気に人と人との距離感は縮まるのかもしれない。人と人との出会いや繋がりというのは本当に面白いものだなと改めて感じさせられる。
posted by Takahata at 02:29| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月01日

いつの日にか…

コロナで様々なスポーツの大会が中止になっています。例え、大会がなくても本来その大会があるべき時までは、報われることはなくても最後まで与えられた環境や状況の中でやれることをひたむきにやり続けてもらいたい。『意気阻喪』することなく。意気込みや元気がくじけ弱ることなく。

人生はやり直しがきく、という言葉をよく使いますが、学生時代というのは、卒業したら終わりの人生の中のやり直しができない唯一無二の時間。無償の情熱を注げる限られた時間。

スポーツに限らず、その学生時代に各々の生徒達は音楽だったり、芸術だったり様々なことに打ち込んできたことと思う。そして、その総決算である最終学年で生徒達の進む道が尻切れとんぼのようにプツリと絶たれてしまう……

その瞬間には、誰にもぶつけようのない怒りもあるだろう…何か一生懸命にやってきたことがバカバカしく感じることもあるだろう…底なし沼に引摺りこまれるような悲しみ、身も心も傷つけられるような辛さもあるだろう…

負けたら悔しい。彼らの多くは最後の大会をこの悔しさと共に歩む…はずだった。最後が悔しさで終わる。それは歓迎したいものではないだろう。しかし、その悔しささえ味わうことなくプツリと目の前で道が絶たれてしまう。

今、この時はどんな言葉も本当には届かないかもしれない。ただの慰めにしか聞こえないかもしれない。それでいいんだと思う。

今までやってきたことは無駄になんかならない。最高の仲間達と夢を真剣に追いかけた日々。流してきた汗。ひたむきに練習してきた情熱。そこに無駄や駄目なんてない。こんな終わり方をしたとしても、君が大切に絆を紡いできた仲間達、そして費やしてきた日々を決して失うことはないだろう。自分を、仲間達を否定することなく、嘘のない費やしてきた日々に胸を張っていてほしい。

バカみたいに熱い情熱を傾けた時を過ぎし日に懐かしく思い出す日があるだろう……君の心のアルバムには青春のかけがえのない思い出が深く刻まれていることだろう。
posted by Takahata at 00:11| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする