2022年02月28日
ストーリー
人生というのはそれぞれの人にそれぞれのストーリーがある。どのストーリーが正解かではなく、自分が自分自身に対して納得できたらそれこそが正解なのだろうと思う。その自分の人生のストーリーの中では誰もが自分が主役であり、そのストーリーの脚本を書き上げていくのも自分。長いようできっと校了する時には短かかったような気もするのだろうと想像する。この世の中には価値観も違えば、目指すものも違う様々なストーリーが交錯している。そんな中で人は、そしてその人が書いていくストーリーは、誰かとその誰かが書くストーリーと接したり離れていったりを繰り返していく。誰もが自分の正解を求めて。ストーリーって素晴らしいと思う。受け身ではなく、自らが能動的に書き上げていくものなのだから。そんな風に考えたら人生がより心豊かなものに思えてくる。
2022年02月27日
手離さないで
説明するまでもないのだが、ある重いモノを手に持ち、それを持ち上げようとするとなかなか持ち上がらないし、持ち上げても腕がしんどくなってくる。そして、そのしんどさや苦しさからそのモノを手から離すと一瞬のうちに落下していく。手や腕は楽になるが、手にしていたものは地面の上。自分が自分自身をあるステージにまで運び上げていったり、何かを成し遂げようとするというのは、まさにそれに似たような感覚がある。途中、苦しくてしんどくて、何度も手離せば楽になるのが分かっていても、手を離さない。それは手を離せば一瞬のうちに自分が堕落していくのが分かるから。あれだけ持ち上げるのは大変なのに落ちる時はいとも簡単に一瞬のこと。そんな自分の姿を自分自身が見たくはないだろう。だからこそ、人は懸命に踏ん張り抜くのだろう。
2022年02月26日
自署名簿
高校卒業の時に伝統の儀式として自署名簿提出の儀というのがあった。卒業生がこれからの人生をどう生きていくのかを紙に毛筆で記して提出するというもの。18才の自分が何を記したかは34年を経た今でも鮮明に記憶している。
『人生の長い旅路を己に負けることなく果てしない夢を追い求めていきたい 高畑好秀』
18才の頃の自分が自分自身に向けた言葉。あの頃の自分には明確な将来の夢があった訳でもなかった。それどころか、浪人生活も決まり目指す大学に向けて勉強することすら嫌で仕方なかった。。。
でも、思い出せるのは「人生はここからが長い。今の自分はつまずいているけど。。。ここが人生のゴールじゃない。ここまでは自分に負けて嫌いな勉強から逃げて不様な結果を抱えてしまった。ここからの人生は絶対にどんなことがあっても自分に負けないように生きていこう」とは考えたということ。
人生の夢が見つかった時には、今度こそは今回のような不様な浪人なんていう結果にならないように、とことんまでやり抜いて夢を実現させてみせる!と固く自分自身に誓った瞬間でもあった。どんなに苦しくても辛くても、どんなに嫌いなことが待ち受けていても、絶対に今までみたいに逃げたり投げ出したりしないぞ!と。
その時に自分自身に誓った言葉を裏切ることなく今日まで突き進んできたように思う。生きていれば様々なことがある。夢を実現させていくのは決して容易い道でもなかった。困難なことをたくさん乗り越えてきたようにも思う。
夢は叶えたのだろうが、自分は果てしない夢を追い求めていきたいと記した。叶えて終わりではない。だから、ここからも自分のやっていることを探求し続けていくのだろう。。。終わりなき探求を。。。
18才の頃の自分に。君の未来の君はあの時の自署名簿に覚悟を決めて記した通りの生き方を積み重ねているよと伝えてあげたい。あの頃にできなかった地道な積み重ねをしっかりして生きているよ。
『人生の長い旅路を己に負けることなく果てしない夢を追い求めていきたい 高畑好秀』
18才の頃の自分が自分自身に向けた言葉。あの頃の自分には明確な将来の夢があった訳でもなかった。それどころか、浪人生活も決まり目指す大学に向けて勉強することすら嫌で仕方なかった。。。
でも、思い出せるのは「人生はここからが長い。今の自分はつまずいているけど。。。ここが人生のゴールじゃない。ここまでは自分に負けて嫌いな勉強から逃げて不様な結果を抱えてしまった。ここからの人生は絶対にどんなことがあっても自分に負けないように生きていこう」とは考えたということ。
人生の夢が見つかった時には、今度こそは今回のような不様な浪人なんていう結果にならないように、とことんまでやり抜いて夢を実現させてみせる!と固く自分自身に誓った瞬間でもあった。どんなに苦しくても辛くても、どんなに嫌いなことが待ち受けていても、絶対に今までみたいに逃げたり投げ出したりしないぞ!と。
その時に自分自身に誓った言葉を裏切ることなく今日まで突き進んできたように思う。生きていれば様々なことがある。夢を実現させていくのは決して容易い道でもなかった。困難なことをたくさん乗り越えてきたようにも思う。
夢は叶えたのだろうが、自分は果てしない夢を追い求めていきたいと記した。叶えて終わりではない。だから、ここからも自分のやっていることを探求し続けていくのだろう。。。終わりなき探求を。。。
18才の頃の自分に。君の未来の君はあの時の自署名簿に覚悟を決めて記した通りの生き方を積み重ねているよと伝えてあげたい。あの頃にできなかった地道な積み重ねをしっかりして生きているよ。
2022年02月25日
継続していく
生け花の花。その花の色は花瓶の中にあっても、大地に根差して咲いていても色そのものはそう変わらないだろう。そしてやがてはどちらの花もいずれは散ってしまう。花瓶の花はそこで終わり。しかし大地に根差した花は結実して新しく芽吹く。今だけの成功なのか、未来に繋がる成功なのか。目先だけを見れば同じように見える物事でも、それが未来にしっかりと続いていく形なのか、ほんの一時の形なのか。。。仕事というのは、一時的なブームとかではなくしっかりと未来に続いていく形を模索していかなくてはならないと感じる。
2022年02月24日
『もし』の先に
人生に『もし』はないのかもしれませんが。。。でも時々、もし、あの時にあの選択をしていたらと考えることはよくあります。その都度、その瞬間の点で判断して選択しているようでいて、振り返ってみると過去からの線で繋がっていて、その選択がその線の延長線上にあるということを感じたりすることがあります。人生は一度きり。最近はそれを単なる言葉ではなく実感をもって感じます。だからこそ、時には過去からの線にとらわれずに点で選択してみるのも楽しいのかな。。。と感じるのです。自分の中にあるまだまだ未開拓の可能性を『もし』の中に見出だしていくのも新鮮だったりします。皆さん!今回はお忙しい中、ご質問にお答えいただき、ありがとうございました!驚いたのはサラリーマンという答えがなかったことです。。。『もし』の先にあったであろう様々なイメージをかなり膨らませてみてはどうでしょうか。人生どこが折り返しなのかは分かりませんが、ここから新たな自分作りを楽しんでいきたいと思っています。今のままでいい。。。という現状維持をし始めると自分の進化も止まってしまいますよね。今から10年後、20年後にどんな自分になっているのか、自分で自分自身を楽しみながら精進を重ねていこうと思います。
2022年02月23日
心の余裕を
心の余裕というのは本当に大切だなと感じる。心の余裕とは生き方の幅にも関係しているように思う。線の上をギリギリに歩いていると神経を磨り減らしていくし、周りを見渡したり、何かを感じたりできなくなる。
しかし、ある程度の道幅があれば、多少ははみ出しても問題ないし、周りをゆっくりと眺めながらでも大丈夫。生き方も、自分自身の生き方の幅が狭いとキュウキュウになり生きづらくなるだろう。そうすると心の余裕もなくなっていく。
では、広ければいいのか?広いとはみ出すことがない分、余裕は生まれるが、それが油断に繋がることが多いような気がする。余裕を持って周りをよそ見し過ぎてノロノロのスピードになったり、周りを見すぎて足下の障害物に気づかずにつまずいてしまったり。。。
ある程度の緊張感も保ちながらの余裕が持てる生き方が丁度いいのではないだろうか。人にはそれぞれの生き方の幅と心の幅がある。時には自分自身の幅を立ち止まって確認してみるのもいいかもしれないなと思う。
しかし、ある程度の道幅があれば、多少ははみ出しても問題ないし、周りをゆっくりと眺めながらでも大丈夫。生き方も、自分自身の生き方の幅が狭いとキュウキュウになり生きづらくなるだろう。そうすると心の余裕もなくなっていく。
では、広ければいいのか?広いとはみ出すことがない分、余裕は生まれるが、それが油断に繋がることが多いような気がする。余裕を持って周りをよそ見し過ぎてノロノロのスピードになったり、周りを見すぎて足下の障害物に気づかずにつまずいてしまったり。。。
ある程度の緊張感も保ちながらの余裕が持てる生き方が丁度いいのではないだろうか。人にはそれぞれの生き方の幅と心の幅がある。時には自分自身の幅を立ち止まって確認してみるのもいいかもしれないなと思う。
2022年02月21日
危機に際して
危機に際して簡単に逃げ出してしまう人間がいる一方で、自分の力で何とかしてやろうとむしろ張り切る人間もいるものだ。前者は危機を引き金にどんどん落ちていく。後者は下げ止まりを作りそれ以上に落ちることなく回復していく。逃げ出すのは楽だし、一瞬は危機を避けることができたように感じるが、それは見かけだけでその人間の内面は完全に逃げグセができてしまいどんどん弱い人間になっていってしまう。危機と向き合うのはしんどいことだし、辛いことでもある。しかしそこを踏ん張り抜いていくことで内面にはタフさが身についていくものだ。何とかしてやろうという気持ちはとても大切だと感じる。危機は何ともならないように見えても諦めずに何とかしてやろうと思って取り組んでいけば、案外乗り越えていけるものだから。そんな気持ちだけは絶対に失いたくはないと思う。
2022年02月20日
自分を生きる
自分を貫いて生きるというのは時として大変なこともあるだろう。自分に正直に生きようとすると誰かとぶつかってしまうこともあるだろう。楽な生き方ではないだろうと思う。自分を誤魔化して適度に周りに合わせて生きる方が楽かもしれない。でも、そうすると自分が社会や人の流れの中で迷子になってしまうかもしれない。自分が自分自身という唯一無二の存在を見失ってしまうかもしれない。本当は目の前にいるはずの自分を自覚できないのは寂しいし、途方に暮れてしまうかもしれない。だからこそ自分自身を生きたらいいんだと思う。何も大変なこと、ぶつかることを選ぶのではない。誰かを傷つけようとするのでもない。自分が自分自身を生きていく中でそうした経験も積み重ねていくことにもなるかもしれない。心は穏やかでいるはずもない。いっそのこと自分を消してしまいたくなることもあるだろう。その心の中の葛藤の中で自分が何を大切にしていきていきたいのか、それを道標にして生きていくしかないのだろう。
2022年02月19日
夢を
今は現実的な子が多いと言われるが、ある年齢くらいまでは純粋に夢を見てもいいのではないかと思ってしまう。監督と選手とが一緒になって本気で夢を追いかける時間。仮にその夢が実現せずに夢で終わったとしても…人生の中でそんな夢を見る時間も必要なのではないかと。現実を見据えることは大切だ。しかし、現実ばかりを見て、できるだろうと自分で決めた範疇でしか生きられないのも寂しいような気もする。大人になれば嫌でも現実を重視しなくてはならない部分も大きくなる。夢を見るということは、自分の考える範疇を遥かに超えた壮大な自分の姿を想像することでもある。でも、それを夢見てそこに向かい無我夢中になる時間がせめて学生時代くらいはあってもいいのではないか…と。周りからどう思われようが、何を言われようがアホみたいにその夢に情熱を注ぐ時間。結果として夢破れる。いいではないか!とも思ったりする。夢を描けなかったより、夢を描いてそこに近づこうと懸命に打ち込んだその過程の時間こそが重要なのではないかと思う。
2022年02月18日
愛情の大切さ
人の全力の気持ちに対して自分の全力で応える。人の精一杯に対して自分の精一杯で応える。そうすることでそこに情熱という熱感が生まれる。素直に感じて素直に行動する。その根底を支えているのが愛情なのだろうと思う。相手に対して「〜した方がいいかな」という頭の損得計算ではなく、「〜してあげたい」「〜したい」という心から自然に湧き上がってくるのが愛情。そのような関係の中で生まれる何気ない心のふれあいによって、人は心が温かく包まれたり、お互いに同じものを共有でき幸せを感じるのではないかと思う。そのような関係の一瞬、一瞬が積み重ねられていくことで、結果として心の絆は深く繋がっていき、大切な思い出の時間として心に深く刻まれていくのだろう。そのような関係の中で濃い素晴らしい時を過ごすことができる。それは、結果以上に大切な時間のようにも感じる。教育というのは、勉強だけを教える場ならAIでも十分かもしれない。しかし、教育というのは人を育てていく場でもあることを忘れてはいけない。AIでは人は育てられないだろう…人を育てるためには、愛情に包まれる中で人と人とが本気で向き合い、人と人とがお互いに全力を注がなければ成り立たない。
2022年02月17日
生かすも殺すも
火というものがあるから火事になる。火というものがあるから人は温かい食事を食べられる。火というものそのものは、あくまでも火でしかない。世の中、全てのものがその存在としてあるだけなのかもしれない。その存在をプラスに活用するかマイナスに活用するのか。その存在を丁寧に扱うのか粗雑に扱うのか。要はその取り扱い一つでその人にとっての価値が変わっているだけのことだろう。その存在そのものに何の罪もない。もし罪を生み出しているとしたら、それは存在の罪ではなく使い手の罪なのだということを理解しておかなければならないと感じる。存在に対して責任転嫁をしている限りは使い手の意識の変化は生まれてこないだろう。生かすも殺すも自分次第。
2022年02月16日
指導者
指導者とは太陽や月のような存在なのかもしれない。選手とのある一定の距離を保ちつつも、いつも変わらずに選手を見守り続ける。そしていかなる時も寄り添い続ける。
時に太陽のようにその熱で選手のことを照らし、選手を温かく包み込む。そして時に月のように暗闇に迷った選手を一条の光で導いていく。
どんなに選手の心が迷い、悩み、雲が広がっていようが、時にその存在が選手の方から見えなかったとしても、変わらずにそこに居て選手を照らし続けていく。雲があろうが、その熱や光は選手の元に僅かでも届き、選手を優しく包み込んでいく。
選手には春の木漏れ日のような優しさで、夏の燃え盛る情熱で、秋の愁いのある落ち着きで、冬の北風のような厳しさで。その時々で形は変えても決して選手を見離すことなく、いつもその根底には愛情がある。そして熱と光を送り続けていく。
時に太陽のようにその熱で選手のことを照らし、選手を温かく包み込む。そして時に月のように暗闇に迷った選手を一条の光で導いていく。
どんなに選手の心が迷い、悩み、雲が広がっていようが、時にその存在が選手の方から見えなかったとしても、変わらずにそこに居て選手を照らし続けていく。雲があろうが、その熱や光は選手の元に僅かでも届き、選手を優しく包み込んでいく。
選手には春の木漏れ日のような優しさで、夏の燃え盛る情熱で、秋の愁いのある落ち着きで、冬の北風のような厳しさで。その時々で形は変えても決して選手を見離すことなく、いつもその根底には愛情がある。そして熱と光を送り続けていく。
2022年02月15日
リーダーとは
極論だが人に好かれるのが真のリーダーか、求められている結果を叩き出していけるのが真のリーダーか。もちろん、両方を兼ね備えているのが一番いいのだろうが。。。時として、相手に好かれようとしすぎる余り、伝えなければならないことすら伝えられない場合もあるだろう。それでは相手の言いなりになってしまい求めれていることすら達成できないかもしれない。リーダーたるものは、その立ち位置に立たされた時には人から嫌われる覚悟も必要だと感じる。言わなければならないことは例え嫌われたとしても言い続けていかなくてはならない。それは相手と共に目標を達成した時に喜びを分かち合うために。
安易や諦めからの卒業を
今までの経験の中で学ばされたこと。「まっ!いっか!」という安易な考えと選択。「まあ、こんなもんだろう」という諦めと選択。この二つから絶対に良い結果は生まれない。
何かを選択する際には、「何が何でもこうしたい」「何が何でも何かを掴みたい」という何かに対するこだわりと、何が何でもという諦めない気持ちが大切になる。
ボクシングで相手に倒された時には、一瞬意識も朦朧となり、恐怖心は大きくなり、戦意も一瞬喪失しそうになるそうだ。ここで立つか、そのまま倒れるか。。。
目の前にどうしても手にしたいものがあるならば、どれだけ打ち砕かれようが、それを手にするために立ち上がる。諦めずに挑戦していくことが大切になる。
絶対に妥協できない自分が大切に思うものがあるなら、立ち上がってもうひと踏ん張りしてみるといい。諦めの先には諦めの未来しかない。その未来は他の誰でもない自分が作り上げたもの。
格好悪くてもいい、不器用でもいい、諦めないことはできる。自分にとって絶対に譲れない大切なものであるならば、立ち上がって掴み取ろうとする気持ちが必要だと感じる。
何かを選択する際には、「何が何でもこうしたい」「何が何でも何かを掴みたい」という何かに対するこだわりと、何が何でもという諦めない気持ちが大切になる。
ボクシングで相手に倒された時には、一瞬意識も朦朧となり、恐怖心は大きくなり、戦意も一瞬喪失しそうになるそうだ。ここで立つか、そのまま倒れるか。。。
目の前にどうしても手にしたいものがあるならば、どれだけ打ち砕かれようが、それを手にするために立ち上がる。諦めずに挑戦していくことが大切になる。
絶対に妥協できない自分が大切に思うものがあるなら、立ち上がってもうひと踏ん張りしてみるといい。諦めの先には諦めの未来しかない。その未来は他の誰でもない自分が作り上げたもの。
格好悪くてもいい、不器用でもいい、諦めないことはできる。自分にとって絶対に譲れない大切なものであるならば、立ち上がって掴み取ろうとする気持ちが必要だと感じる。
2022年02月14日
引率か自律か
自分が率先して人にカツを入れて相手を引っ張っていくことも大切な時もある。同時にいかにして相手が自らの意志で動きたくなるかを考えて自律を促していくことが大切な時もある。前者が他力なのに対して後者は自力。しかし、そこに共通しているのは相手が心の中で発奮するということ。その発奮に火を着けるのが他人によるものか、自力によるものかという違いがあるだけ。相手の心の中に発奮の火種があるのかどうなのかの見極め。あるいは同じ人間であっても心の中は変化していく。今の心の中に発奮の火種があるタイミングなのかの見極め。火種があるのに引っ張っていこうとするとそれは邪魔になるし、火種がないのに相手の自主性に任せても少しも燃えてこなかったりする。見極めと適切な手段があってこそ、相手の発奮を促していくことが可能になるように感じる。
2022年02月13日
自分の置き所
山があれば、そこには谷がある。平地というのはどこを基準にしているのだろうか。本来なら山の高さと谷の深さを足して2で割ったところのような気もするが、谷底の平地を平地としてしまっている。すると、山はどこまでも高いものになってしまう。平均値にすればそれほど高い山もないかもしれないのに。。。ふとそんなことを考えてみた。物事の見方は自分自身をどこの位置に置いて見るかでも大きく変わっていくように感じる。
2022年02月12日
大人の挑戦
子どもの頃は七転び八起き。失敗を恐れず立ち向かい、失敗してもすぐに挑戦する。悔し涙を流しながらもひたむきに立ち向かっていく。失敗する怖さより、成功する喜びが勝っている。というより、失敗なんて恐れてなかったはず。そんな子どもの頃の思いをいくつになっても大切にしていたい。大人になるというのは怖さを知ることだとよく言われるが…怖さばかりが先立ち身動き一つ取れなくなるような寂しい大人にはなりたくはないと感じる。子どもの頃のように失敗しようが次にまた平然と挑んでいけるような大人でいたいと思う。これは意識しておかなければ日常での様々な失敗から人はどんどん小さくなっていってしまう。身体ばかり大きくなるが、心はどんどん小さくなっていってしまう。それでは大人になることはつまらないことではないだろうか。大人になった今こそ、どんどん挑戦していけるのだから。
2022年02月11日
どこまでも
人はどこまでいっても完成形なんてないですもんね。だからこそ生きている限りは自分の完成を目指していくものなんでしょう。。。その目指すための一歩一歩がその人の生きざまになっていくのだと思います。人は何かを極めていこうとその一本道を進めば進むだけ、よりゴールは遠いことを自覚させられます。だからこそ自分はこの道を生きている限りは探求していこうと思うのです。自分の選んだ道は中途半端に満足して極めたつもりにはなりたくないと思っています。何事も気づいた時がチャンスです。人はいつからでも自分の取り組み方で自分自身も人生も変えていけます。そしていくらでも進化をしていけるものです。生きている限りは更なる進化を目指していきたいと思います。
2022年02月10日
真っ直ぐに想いを込めて
好きなことがあるならとことんまでそれにのめり込んで、とことんまで探求していけばいいのではないかと思います。そのことに対してのの想いは真摯で真剣なものだと感じます。それは決して他人に見せるためのアピールなんかではないですよね。自分がやっていること、そして自分自身を信じ抜いていけばいいんですよ。他人の評価なんか気にせず真っ直ぐにそれに打ち込んでください。自分の中の気持ちが中途半端になると、そんな時には他人の目や評価が気になる時だと思うので。。。気持ちが中途半端だと自分にも自信が持てなくなって他人の評価に一喜一憂してしまう自分になってしまいます。本気に一本道に打ち込んでいれば、一生懸命にアピールして自分が求めて探そうとしなくても周りに自然にそんな仲間が増えていくはずですよ。
2022年02月09日
能動的に
今まで普通の当たり前のことを与えられていたものが時を経て、それらを獲得していくものに変化してきてます。まさしく、今までは当たり前に与えられて受動的でいたものを、自分が意識して能動的に獲得していかなければ、待っていても手にするのが難しくなっています。様々な感情、経験、人間関係は待っているだけではどんどん薄まっていくように感じます。自分自身が生きていく上で何を大切に生きていきたいのか、必要なものは何なのか、などを自問自答してそれらを能動的に獲得していく姿勢がなければ、時が流れていくだけになってしまいます。自分の人生を再構築していく大きなチャンスでもあるんでしょうね。
2022年02月08日
精一杯の言葉
昔、戦時中に学校の先生をされていた方のお話を聞いたことがある。世の中は戦時中。学校でも「お国のために命を国に捧げよう」と教えなくてはならなかったそうだ。その先生も国の命令に逆らうことはできなかったそうだ。「兵隊になっても生き残れ」と言いたくても言えない風潮の中で、せめてもの言葉は「国のために大切な命を大事に使うように」という言葉だったそうだ。この言葉はそれこそ受け止め側の子ども達次第になる。その先生の精一杯の想いが込められた言葉だと感じた。国に逆らわない範囲での「絶対に死んではいけないよ!」という先生の心の中を表した言葉だったのだと思う。ふとした拍子にこの話を思い出したので書き留めておこう。真実を口にすることが厳しい時代に自分の中にある子ども達への愛情をその時にその先生の苦しみながらも懸命に紡ぎだしたその言葉を。
2022年02月07日
責任とは
やった事に責任を持つというのは、やったことをどれだけ論理的に考えて明確にその事を論理的に理論的に説明できるかということでもあるような気がする。スポーツであれ、人生であれ一瞬先の結果なんて誰一人分からない。要は分からないことに対して選択して采配を振るわなければ試合は何一つ進んでいかない。結果が悪ければ、結果論で監督を責めるというのは違うと思う。監督が結果はどうであれ、その時に何故その選択をしたのかを明確に論理的に理論的に説明ができれば、賛否両論あれど良いのではないかと思う。何となく采配したとか、あまり考えずに選択をしたというのは、仮に結果が良かったとしてもそれは単に運が良かっただけのこと。人は誰も一瞬先は未知。未知に対して選択して責任を持つというのは、そういうことのような気もする。今の日本は未知なるものに怯えて選択をできずにズルズル試合の流れを先延ばししているような気がする。それか結果が失敗に終わった場合のことを考えすぎて誰もが責任回避の準備をしているかのようにも感じてしまう。責任を持つというのは考え抜いた先に失敗した時のことも含めて覚悟を決めることなのだろう。
2022年02月06日
モヤモヤな部分を明確に
『やる』と『やらない』とは雲泥の差がある。しかし、この両者の間には実に広い幅がある。『やる』に近い『やらない』もあるし、『やらない』に近い『やる』もある。要はその幅の中のどこに自分の最終的な考え方を落とし込んでいくかなのだろう。『やる』か『やらない』と一言で言えばどちらかになってしまう。しかし、人間にはこの一言では片づけられないモヤモヤがある。だからこその心の中にある説明が必要だし、それを相手に伝えていかなくてはならないのだと思う。そして『やる』にしても『やらない』にしてもいかに??が重要になってくる。何でも楽観的にやればいい!というのも違うと思うし、何でも悲観的にやらなければいい!というのも違うと思う。人間には考える脳がある。やるならやるでいかにしてやるかを考えるべきだし、やらないならいかにやらないかを考えるべきだと思う。単なる二元法ではないのだと思う。そこがあってこそ、初めて人と人とは話し合えるし、そこで新たな方法を探っていけるのではないかと思う
2022年02月05日
人生の豊かさとは
今回の広島では、修道大学の準硬式野球部や中学や高校の野球部のzoomによるメンタル講習会。
アクサ生命の広島支社の営業マン向けのzoomによる講演なども行わせていただきました。コロナになって仕事のほとんどがzoomばかりになりました。
コロナが落ち着いたら、皆さんとはやはり対面で是非ともお会いしたいなと感じます。zoomなどのツールは単なるビジネス的に見ればとても効率の良いツールだと思います。
しかし。。。効率の良さがイコール人生の豊かさとは違うような気がします。効率を求めて無駄を全て排除していけば世の中のほぼ全てのことが不要不急になってしまいます。
豊かな心で生きるとは何なのか?本当に考えさせられます。無駄に見える多くの物事の中にたくさんの心の豊かさがあるのではないかと思うのです。どんな美味しい料理も家の中で一人で食べれば味気ないものです。お店の雰囲気の中で誰と談笑しながら食べるから味は同じでも味覚以上の豊かな気持ちになれます。
それは音楽だって同じです。コンサートで聴くのかデジタル音源で聴くのか?絵だって美術館で観るのかパソコンの画像でみるのか?効率を考えれば仕事だろうが日常生活だろうが様々なツールを用いれば家の中に一人で事足りてしまいます。
家の中にずっといると五感が鈍っていくような気がしませんか?心が枯れていくような気がしませんか?生きてはいるけど、リアルに生きているぞ!という実感が失われてきているような気がしませんか?
人は人として生まれてきたからには、人とのふれあいの中で生きる活力が生まれてくるように感じます。人と人は面倒臭かったり大変なこともたくさんあります。それでもそれらも含めて人と人とを大切に思えるからこその人生なのだと感じます。早くコロナ禍が終息して、無駄に見えることを当たり前にできることを願っています。
アクサ生命の広島支社の営業マン向けのzoomによる講演なども行わせていただきました。コロナになって仕事のほとんどがzoomばかりになりました。
コロナが落ち着いたら、皆さんとはやはり対面で是非ともお会いしたいなと感じます。zoomなどのツールは単なるビジネス的に見ればとても効率の良いツールだと思います。
しかし。。。効率の良さがイコール人生の豊かさとは違うような気がします。効率を求めて無駄を全て排除していけば世の中のほぼ全てのことが不要不急になってしまいます。
豊かな心で生きるとは何なのか?本当に考えさせられます。無駄に見える多くの物事の中にたくさんの心の豊かさがあるのではないかと思うのです。どんな美味しい料理も家の中で一人で食べれば味気ないものです。お店の雰囲気の中で誰と談笑しながら食べるから味は同じでも味覚以上の豊かな気持ちになれます。
それは音楽だって同じです。コンサートで聴くのかデジタル音源で聴くのか?絵だって美術館で観るのかパソコンの画像でみるのか?効率を考えれば仕事だろうが日常生活だろうが様々なツールを用いれば家の中に一人で事足りてしまいます。
家の中にずっといると五感が鈍っていくような気がしませんか?心が枯れていくような気がしませんか?生きてはいるけど、リアルに生きているぞ!という実感が失われてきているような気がしませんか?
人は人として生まれてきたからには、人とのふれあいの中で生きる活力が生まれてくるように感じます。人と人は面倒臭かったり大変なこともたくさんあります。それでもそれらも含めて人と人とを大切に思えるからこその人生なのだと感じます。早くコロナ禍が終息して、無駄に見えることを当たり前にできることを願っています。
2022年02月04日
熟考する
コロナの問題だけではなく、人生のあらゆる局面で人は選択を求められます。その選択に対して賛否両論、様々な評価があることでしょう。そんな中で『何となく』『周りがみんなそうだから』『多数の意見の方が正解だと思うから』などなど大して考えることもなく、何となく周りや世の中に合わせるだけの選択をし続けていると、自分が考えるのではなく、周りの人に決めてもらおうという自分になってしまいます。自分が何らかの選択をする際には、何度もじっくりと熟考して問われた時に論理的にしっかりと自分で説明をできるようにしていかなくてはならないと思うのです。ただ何となく賛成や反対ではなく、相互が熟考しての意見の相違であれば感情のぶつけ合いではない、冷静な論理的な議論をしていけるからです。そんな中でより良い形が作られていくかもしれませんよね。コロナの問題にしても根拠を積み重ねての理論的な議論ではなく感情論や印象論に政治や社会が流されてしまっているような気がします。コロナ禍の昨今、ふとそんなことを考えました。
2022年02月03日
熟考する
コロナの問題だけではなく、人生のあらゆる局面で人は選択を求められます。その選択に対して賛否両論、様々な評価があることでしょう。そんな中で『何となく』『周りがみんなそうだから』『多数の意見の方が正解だと思うから』などなど大して考えることもなく、何となく周りや世の中に合わせるだけの選択をし続けていると、自分が考えるのではなく、周りの人に決めてもらおうという自分になってしまいます。自分が何らかの選択をする際には、何度もじっくりと熟考して問われた時に論理的にしっかりと自分で説明をできるようにしていかなくてはならないと思うのです。ただ何となく賛成や反対ではなく、相互が熟考しての意見の相違であれば感情のぶつけ合いではない、冷静な論理的な議論をしていけるからです。そんな中でより良い形が作られていくかもしれませんよね。コロナの問題にしても根拠を積み重ねての理論的な議論ではなく感情論や印象論に政治や社会が流されてしまっているような気がします。コロナ禍の昨今、ふとそんなことを考えました。
究極の戦い
投げ出せば全て楽になるかもしれない…逃げ出せば全ての責任を回避できるかもしれない…自分には無理と言えば全てから解放されるかもしれない…そんなことを感じる時は誰にでもあるだろう。そんなギリギリの時に諦めて逃げてしまう人間もいれば、踏ん張り抜く人間もいる。苦しくても耐えて何とかしてやる!と喰らいつく人間。そんな人間は苦しさを越えた先に、さらなる強さを身につけた人間になる。自分に負けない自分。自分を乗り越えていける自分。傷つき窒息しそうなくらい苦しくても立ち向かえる自分。投げ出したい思いと、実際に投げ出す行動とは違う。その瀬戸際での究極の自分との戦いにに打ち克つ。
2022年02月02日
ほんのちょっとの
Jリーガーのガンバ大阪の福岡選手から連絡があり、新天地のガンバ大阪の沖縄キャンプで良い汗を流せているとのこと。日本代表を目指して頑張ります!と張り切っていました。
昨年には広島の呉市にある県大会3位の横路中学の引退した中学3年生のみんなからお礼の寄せ書きをいただきました。自分にとって大事な宝物になりました。
選手たちから「お陰さまでありがとうございます」と言ってもらったり、書いてもらったりするのですが、素直に彼らの役に立つことができたことが心から嬉しいし幸せを感じます。
しかし。。。「それは自分の実力で掴み取ったんだよ!」と言葉で返し、自分の心の中ではすぐに『ほんのちょっとのお陰さま』と変換するようにしています。それは本当にたゆまぬ練習を積み重ねてきたのは彼らだし、一生懸命に汗を流してきたのも彼らだからです。
そんな彼らにメンタルという一部分において自分の全力でサポートしてきただけのこと。だから『ほんのちょっとのお陰さま』なんです。ここを勘違いしてはいけないとこの仕事を始めた当初から自分に言い聞かせてきました。
「この選手は自分が育て上げた」などという勘違いをしてはいけないと。あくまでも選手のこれまでの精進の賜物なんです。そして選手からのありがとうという言葉に対しては、自分も「こんな幸せな気持ちにしてくれてありがとう」と伝えるようにしています。
昨年には広島の呉市にある県大会3位の横路中学の引退した中学3年生のみんなからお礼の寄せ書きをいただきました。自分にとって大事な宝物になりました。
選手たちから「お陰さまでありがとうございます」と言ってもらったり、書いてもらったりするのですが、素直に彼らの役に立つことができたことが心から嬉しいし幸せを感じます。
しかし。。。「それは自分の実力で掴み取ったんだよ!」と言葉で返し、自分の心の中ではすぐに『ほんのちょっとのお陰さま』と変換するようにしています。それは本当にたゆまぬ練習を積み重ねてきたのは彼らだし、一生懸命に汗を流してきたのも彼らだからです。
そんな彼らにメンタルという一部分において自分の全力でサポートしてきただけのこと。だから『ほんのちょっとのお陰さま』なんです。ここを勘違いしてはいけないとこの仕事を始めた当初から自分に言い聞かせてきました。
「この選手は自分が育て上げた」などという勘違いをしてはいけないと。あくまでも選手のこれまでの精進の賜物なんです。そして選手からのありがとうという言葉に対しては、自分も「こんな幸せな気持ちにしてくれてありがとう」と伝えるようにしています。
2022年02月01日
できる工夫を最大限に
広島にて第4回の高畑メンタル塾を開催しました。コロナの状況も鑑みて感染対策を考慮して32名の皆様方にご参加いただきました。医師、教師、税理士、整体師、ビジネスマン、経営者、飲食店の店長、スポーツ指導者、などなど業種を問わず様々な方々のご参加でした。
会の最後にはシンガー・ソングライターの平尾さんによるギター片手に一曲をお願いしました。素晴らしい歌声にコロナによって疲労している皆さんの心にも温かな想いが届いたのではないかと思います。
コロナ禍の中で故郷の広島でスタートした高畑メンタル塾ですが、隔月開催で4回積み重ねてきました。本当に自分とご参加いただいた皆様とで作る手作り感のある会です。
皆さんと共に作り上げる楽しさやワクワク感。そして皆さんの温かさに溢れた和やかな空間の中でお互いに学び合う感じがとても心地いいんです。
故郷の広島の皆さんに元気になっていただき、広島の街がそうした皆さん一人一人の力で活気を取り戻してほしいと願ってメンタルという切り口から自分にできることを全力でやっていこう!と続けてきました。
故郷というのは自分自身の原点の場所。広島のあちこちに自分の懐かしい思い出が刻まれています。様々な人々の顔に懐かしい記憶が刻まれています。やはり離れて生活をしているからこそ、故郷への想いが募るのかもしれませんね。。。
広島のあらゆる場所が人々がコロナに負けずに少しでも元気に前向きに輝く続けていてほしいと思うんです。自分にとって大切な場所で人々だからこそ、自分にできることで精一杯やっていきたいと思います。
会の最後にはシンガー・ソングライターの平尾さんによるギター片手に一曲をお願いしました。素晴らしい歌声にコロナによって疲労している皆さんの心にも温かな想いが届いたのではないかと思います。
コロナ禍の中で故郷の広島でスタートした高畑メンタル塾ですが、隔月開催で4回積み重ねてきました。本当に自分とご参加いただいた皆様とで作る手作り感のある会です。
皆さんと共に作り上げる楽しさやワクワク感。そして皆さんの温かさに溢れた和やかな空間の中でお互いに学び合う感じがとても心地いいんです。
故郷の広島の皆さんに元気になっていただき、広島の街がそうした皆さん一人一人の力で活気を取り戻してほしいと願ってメンタルという切り口から自分にできることを全力でやっていこう!と続けてきました。
故郷というのは自分自身の原点の場所。広島のあちこちに自分の懐かしい思い出が刻まれています。様々な人々の顔に懐かしい記憶が刻まれています。やはり離れて生活をしているからこそ、故郷への想いが募るのかもしれませんね。。。
広島のあらゆる場所が人々がコロナに負けずに少しでも元気に前向きに輝く続けていてほしいと思うんです。自分にとって大切な場所で人々だからこそ、自分にできることで精一杯やっていきたいと思います。