東京の国立市にある桐朋高校の硬式野球部の広島遠征をサポートしました。(過去には広島商業高校、尾道商業高校、尾道高校にもお力をいただきました)
今回は初日に広島にある武田高校の硬式野球部の岡嵜雄介監督と次の日に高陽東高校の硬式野球部の沖元茂雄監督にお願いをして練習試合と試合後の合同練習を快諾していただきました。
両校の選手達共にとても思いやりと温かさのある子ども達で、すぐにお互いが打ち解け合って練習の合間や練習後に色々話していてとても楽しく充実した時間のようでした。そのような光景を見ているとほのぼのとしていて温かで幸せな気持ちにさせてもらえます。
共通する好きな野球を通して育った場所が全く違う高校生達が、それぞれの野球観や考えや取り組みなどを本気で語り合うことで、その距離が一気に縮まっていく。真剣勝負の先にある勝敗を超えた相手を大切に想う気持ち。感謝の気持ち。こうした体験を通して心で感じてほしいと願っています。
平和記念資料館にも行ってもらいました。夜には同じ戦うといっても戦争とスポーツとは何が違うのかを選手達に問いかけてみました。今は東京で生活をしているとは言え、それは被爆地の広島で育った大人としての自分の役割なのではないかと思います。
野球を通して単に野球をするということ以上の何を学ばせ、何を経験させていくのか、何を得させていくのか、これもまた指導する側の大人としての役割のように感じます。未来の大人を大切に育てていくことも今の大人の大きな役割なのですから。
2022年03月30日
2022年03月28日
足るを知る
ふと思うことがある。もし、今が日本の戦国時代だとして自分が日本全土を手にしたとしても、所詮は住む場所というのは日本全土の点にしかならないくらいのお城だろうし、広いお城に住んだとしても気に入って時間を過ごすのはどこかのこれまたお城全体で見たら点に過ぎない一室だったりするのだろうと思う。突き詰めれば、人はどれだけのモノを手にしたところで、人が生きるというのは点くらいのささやかなモノの中で生活をするということなのかもしれないなと思う。立って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半という言葉が思い出される。『人間一人に必要なスペースは、座っている時に半畳、寝ている時に一畳だけ。いくら天下を取ったって、一日に二合半以上のお米は食べきれない』という意味。つまり、必要以上のものを欲しがったり手に入れたりしても使い切れないのだから仕方がないという言葉だ。『足るを知る』ということもとても大切なのではないかと考えさせられる。
2022年03月25日
一人旅
人生の一人旅。何か最近この言葉がよく心に浮かびます。その旅路の中でたくさんの方々と出会い、ふれあいを重ねてきました。そんな皆さんには心から感謝しています。大学を卒業して、この道を選択した遥か30年くらい前に自分の中に最初に浮かんだのが『ここからは人生の一人旅』という言葉でした。大学を卒業したばかりの社会が何たるものかすら分からない若者が、誰も知り合いすらいない東京で、訳の分からないことをいきなり始める。企業人という団体旅行の旅を自ら断って、一人旅を選んだものの……希望を抱える一方で、ここからは一人の力で人生の旅路を一人ぼっちで旅を続けていかなくてはならない……という漠然とした途方もない寂しさを感じたのを思い出します。元来みんなとワイワイしているのが好きな自分の中での決断と覚悟。何か社会から一人切り離されたような孤独感、途中でのたれ死んでしまうのではないかという恐怖感、初めて感じた生きるということのプレッシャー、自分で選んだことに対しての様々な苦悩……誰かに頼ることも、誰かに甘えることもできずに来た一人旅。いつしか自分の中で、もがきながら自分一人で考え抜き一人で解決する自己完結の自分が出来上がりました。それは強さでありながらも、同時に寂しさでもあるのかもしれません……そんな寂しさも一人旅の中で出会う様々な方々のお陰で多くの楽しく濃い時間を過ごさせていただいて心より感謝の気持ちで一杯です。その時々で一期一会の出会いもたくさんありました。そんな中で出会うことのできた皆さんにありがとうございましたとお伝えできればと思います。
2022年03月24日
一人じゃなければ
人としても心から尊敬できる方から大切な言葉を気づかされた。一人じゃないという言葉。人は時に孤独になる。人は時に孤独に人生の中で頑張り続けなくてはならない。人は一人としか思えない時に、自分自身を本当には大切にできなくなるかもしれない。一人で全てが完結する世界の中に生きていると何を成しても、何を手にしても虚しいように感じる。そうなると、自分の心の叫び、自分の心の涙、そうしたものを心の奥に封じ込めて、それを無いものにしようとしてしまうかもしれない。それは自分を大切にできていることなのだろうか。。。もし、自分が一人じゃなければ、自分のことを本気で解ろうとしてくれる人がいれば、時に心の叫びを口にしてもいいのだろうし、心の涙を瞳から流してもいいのだろうと思う。どんな自分でも受け止めて包み込んでもらえるという心の底からの安心感。一人ではないというだけで誰かと喜びも悲しみも分かち合える。それは生きている実感を強く持てることなのかもしれない。その誰かだけは普遍的に変わらずに自分を見続けてくれるという安心感。そうすると人はもっとありのままの自分を認めていけるし、安心して物事に向かっていけるように感じる。
2022年03月23日
一つにとらわれない
『寸指測淵』考えの浅い行為。または、実際に行うことが不可能なこと。一寸の長さしかない指で、水の深い場所の深さを測ろうとするという意味から。改めて漢字の面白さと、表現力の豊かさに感服する。自分の指の長さ(自分自身のこと)と淵の深さ(相手や取り組もうとすること)を正確に理解しておかなくては、大失敗をしてしまうだろう。もし淵の深さが目で確認できないとしても、長い木の棒を突っ込んでみて底に届かないとすれば、指なんかでは到底測ることはできないことが分かる。長い紐の先に石をつけて沈めてもいい。相手のこと、取り組もうとすることを理解するのに、自分の中だけで勝手に判断をしてしまわないことが大切になる。判断をするための方法をよりたくさん発見することができれば、より正確な情報を得ていける。それがしっかりとできていれば、トンチンカンな行動をすることもなくなるだろう。指では永遠に測れない。しかし、指以外を使えば測る方法はいくらでもある。一つの方法だけにとらわれてしまうと、不可能を可能にはしていけない。
2022年03月22日
出番
自分の出番というものがどこなのかを見極められるのは素晴らしいと思う。自分の出番でもないのにシャシャリ出たり、求められてもいないのにベラベラ話したり。そんなのではなく、出番ではない時には静観してしっかりと状況を把握して、ここが自分の出番だ!ここで自分が求められている!というタイミングをしっかりと見極めていくこと。そしてその時にしっかりと自分の持てる力をフルに発揮していくこと。そこでは力の出し惜しみをせずに全てを出しきればいい。そして最大限に人の期待以上の結果を叩き出していけばいい。何でもかんでも出るのが出番ではない。自分が出るべき時に出ることこそが出番というものだ。
2022年03月21日
愛情の大切さ
人の全力の気持ちに対して自分の全力で応える。人の精一杯に対して自分の精一杯で応える。そうすることでそこに情熱という熱感が生まれる。素直に感じて素直に行動する。その根底を支えているのが愛情なのだろうと思う。相手に対して「〜した方がいいかな」という頭の損得計算ではなく、「〜してあげたい」「〜したい」という心から自然に湧き上がってくるのが愛情。そのような関係の中で生まれる何気ない心のふれあいによって、人は心が温かく包まれたり、お互いに同じものを共有でき幸せを感じるのではないかと思う。そのような関係の一瞬、一瞬が積み重ねられていくことで、結果として心の絆は深く繋がっていき、大切な思い出の時間として心に深く刻まれていくのだろう。そのような関係の中で濃い素晴らしい時を過ごすことができる。それは、結果以上に大切な時間のようにも感じる。教育というのは、勉強だけを教える場ならAIでも十分かもしれない。しかし、教育というのは人を育てていく場でもあることを忘れてはいけない。AIでは人は育てられないだろう…人を育てるためには、愛情に包まれる中で人と人とが本気で向き合い、人と人とがお互いに全力を注がなければ成り立たない。
2022年03月20日
どんな先にも
雨降って地固まるということはある。雨降って虹が出ることもある。でも、それは同時に晴れて太陽に照されるからでもある。太陽に照されなければ、地は水たまりのままだし、虹も出てこない。どんな悲しい気持ちになったとしても、どこかで心の太陽を持っていられれば、最後は幸せな気持ちで締めくくれるかもしれない。悲しさを人は持っているからこそ、幸せも感じられるのかもしれないとも思う。悲しさというのは乗り越えるものではないのかもしれない。悲しみの雨が降りやむのを静かに待つ。一瞬の雨もあれば、長く続く雨もある。パラパラ雨も土砂降りの雨もある。でも止まない雨はない。その先は心の太陽を照らしていけばいい。地固まり大切なことがより大切に思えたり、空に広がる虹のように心の中に美しさを感じられたりするだろう。それを信じて静かに雨を見つめる時間というのも人生の中ではとても大切な時間なのだろう。
2022年03月19日
ベターをよりベストに
Aがダメなら諦めるのではなく、Bでやってみる。なおBがダメならCでやってみる。方法としてAがベストであったとしても、代替のBやCを工夫次第でベストに近いベターにはしていくことはできると思う。Aに気持ちが縛られ過ぎてしまうと、BやCに気づけなかったり、仮に気づいたとしても上手くいくイメージが湧いてこないだろう。BやCを妥協と捉えてしまうとモチベーションも低下してしまうかもしれない。あくまでも、BやCは妥協ではなく、それを選択せざるを得なかったとしたら、それを工夫したりアイデアを膨らませてAに少しでも近づけていかなくてはならない。それであれば、BやCでも前向きに挑戦していけるような気がする。もし、Aを選択できても逆にそれで満足してしまっては、Aをそれ以上にはしてはいけないだろう。大切なのは何を選ぶか以上に、何であれ取り組む前に何かを進化させていくことの方が重要なのかもしれない。
2022年03月18日
頭の中の整理
頭の中を整理しようとする時に、感情的な視点でとらえた様々な事実を、時系列的に線の上に並べていくと不思議とそれらが客観的な色あいを帯びて見えてくるものだ。感情的になっている時には見えなかった事実と事実の繋がりや相関関係が明確になっていく。引き出しの中に何でもかんでも思いのままにモノを放り込んでいるとゴチャゴチャして何が入っているのか分からなくなる。そして何が必要なモノで何が不必要なモノなのかも。しかし、一度それらのモノを目に見える形で整理整頓すれば何が不必要なモノなのか?などが見えてくる。感情というのはモヤモヤグチャグチャしている。それを引き出しの中に順番に並べていくように、感情的な視点でとらえていた事実を時系列的に並べてみるということ。そうすると単発的に見えて事実が他の単発的な事実と繋がっていることが分かったり、事実と思っていたことが客観的な視点で見たら別の事実に見えたりもしてくるものだ。頭の中の整理をするというのはとても大切だと思う。
2022年03月17日
どこまでも
小手先だけで上手くやろうとするのではなく、真っ直ぐに全力を注ぎ込んでいく。その場だけ成功させようとするのではなく、成功しようが失敗しようがとことん本気で向き合っていく。ミスを隠そうと誤魔化すのではなく、ミスを晒しても真正直に取り組む。これは若い頃から仕事をする上で自分が大切にしてきたことだ。自分は自分の仕事を通して人間としての自分も鍛え上げていきたいと考えていた。若い頃は、ついついそこそこできれば、とか、何となくそれなりにできれば、とか妥協した方が楽かもしれない…と。その都度、自分が自分自身に対して厳しくしてきた。そんな中途半端な満足をするために今の仕事をしているのか??と。そんな積み重ねのお陰で、少しはマシな仕事をできるようになったのかもしれないな、と思う。まだまだ、自分自身も仕事も磨き続けていかなくてはならない。終わりのない旅のようにも感じる。
2022年03月16日
集団
おでん。小さな鍋の中で様々な具材が一緒に煮込まれている。その中で誰が一番人気ある具材なのかを競い合う。たかだか小さな鍋の中の話なのに。しかし、どの具材も実はメインになりうる。こんにゃくは味噌田楽では主役だし、卵は目玉焼きで。個々でも単独に生きていける者達が集まって鍋という組織の中にいるからこそ美味しくなるのだろう。そんな中で小さな競い合いをするくらいなら、自分の持ち味を最大限に出し切って、鍋の中全体をさらに美味しくしていけばいい。個々が出した旨味が全体に融合して全体の旨味になり、全体の旨味がさらに個々の旨味を引立てていくような循環。それこそがまさしくお互いを生かし生かされることのような気もする。ただし、人気競争でなく、自分自身の旨味を常に高めていかなくてはならない。全体の一部だからいいやっていう個が集まっても意味はないのだから。個でも主役に立てるだけの自分だからこそ。
2022年03月15日
監督
監督からの荒治療で発奮する選手もいるし、逆に荒治療によって潰れてしまう選手もいる。落として伸びる選手もいれば、使い続けることで活躍したり伸びる選手もいる。適材適所はもちろんだが、個々の選手の適材適使や適材適育もとても大切な要素になっていくはずだ。同じようには絶対にいかない。また、同じ監督と一言で言っても選手を上手に育てる役割の監督と、選手を上手に使う役割の監督とがいる。適性はやはり違いがある。前者は長期的なスパンで選手を捉えじっくりと時間をかけて育てていかなくてはいけないし、後者は目先の試合に勝つために選手の旬を見極める短期的な視点が必要になる。どちらも選手を最大限に生かしたいという想いは変わらないが、求められるものが違う。監督とは本当に難しい仕事だと感じる。それはスポーツに限らず、あらゆる場所で指導的な立場に立つ人には求められる力でもある。指導的な立場になればなるだけ自らを探求していかなくてはならない難しさがある。
2022年03月14日
常に冷静に
簡単にはいかない。なかなか思い通りにいかなかったり、うまくいきそうになったり、伸び悩んだりを繰り返していくものだ。右肩上がりに進んでいけばいいが、まずそんなことはない。折れ線グラフみたいなもの。大切なのは、全体的に見て今はどの段階にあるのかを冷静に分析すること。そして何故そうなっているのかを原因を分析していくことだろう。そうしなければ、うまくいっている時は浮かれ、うまくいかない時には凹んでしまうだけになってしまう。過去があるから今がある、今があるから未来がある。それが折れ線グラフのように途切れることなく続いているのだから。簡単にはいかない。しかし、その折れ線グラフの中には数々のヒントが隠されいる。それが分かっていれば、一喜一憂せずに冷静に更なる高見を目指して進んでいけるように思う。物事には因果があるのだから。
2022年03月13日
自分を試す
誰かが整備してくれた整った道と、誰一人として足を踏み入れたことのない未開の道があったら、自分は後者を選んでしまう。前者は行き先もなんとなくは分かるし、多くの人がそこを歩いているので安心して進むことができる。後者は怖さや不安もある。自分一人だけを頼りに悪戦苦闘しなくてはならない。では、何故に自分は後者を選んでしまうのか?心の中に強く自分の人生を生きたいという想いがあるからかもしれない。一度きりの人生をやはり自分の人生にしていきたいという気持ちは昔から強かった。人の歩んだ道筋が自分も同じように歩く道筋とは素直に思えなかった。自分のしたいことが世の中に存在しなければ、自分が作り上げて存在させていけばいいと考えたし、道がなければ自らが開拓していけばいいと考えてきた。その道が楽とはほど遠い険しい道であったとしても、その道の先に大きな落とし穴や崖があったとしても、自分の力で進んでみたかった。自分という一人の人間をその道の中で試してみたかったし、追い込んでもみたかった。自分が人生の中で何者でどれだけのことができるのか?それはやはり未開の道を選ばせてしまう。
2022年03月12日
坂道を乗り切る
坂道は上りも下りも別の意味でしんどいものだ。上りは前に体重をかけていないと転げ落ちる。下りは後ろに体重をかけていないと転げ落ちる。上りは足を蹴り上げなければならないし、下りは足にブレーキをかけなければならない。同じ人生の坂道でも、どのような心持ちで進んでいくかは変わっていく。上りは頂上という希望を目指す坂。下りは崖下という絶望を避けていく坂。人生には様々な坂道がある。希望がモチベーションになる場合もあれば、絶望がいい意味でモチベーションになる場合もある。そのためにも、今の自分が上りなのか、下りなのかを見極める必要がある。漠然と坂道は辛いなぁ〜では進み方を誤る危険性がある。
2022年03月10日
心の文明開化
『後生可畏』若者は、今は未熟でも来るべき時代の息吹を敏感に感じ取り、将来の大きな可能性を秘めているから、侮ってはならず、むしろ畏れ敬うべきであるということ。本当に若者には大きな可能性を感じる。自分などは昭和の典型的なアナログ人間だが、若者はデジタルにも長けていて、それをベースに新たな感性で新たな文化を作り上げていく。若い子達は分からない…若い子達は俺達とは違うから…なんて言ってたらダメだなぁ〜なんて感じる。新たなものを自分の中に受け入れた上で、自分の中に築き上げてきた大切なものと融合させていくことは大切だなと感じる。若い子達を心の中で受け入れない心の鎖国状態では自分自身の感覚も完全に時代に取り残されていってしまう。心の中を解放して謙虚な姿勢で好奇心を持って若者を受け入れていきたいと思う。そうすることで心の文明開化も起こるのではないだろうか。新たなものを恐れるのではなく、楽しめる自分でいられたらなと思う。
2022年03月09日
安易や諦めからの卒業を
今までの経験の中で学ばされたこと。「まっ!いっか!」という安易な考えと選択。「まあ、こんなもんだろう」という諦めと選択。この二つから絶対に良い結果は生まれない。
何かを選択する際には、「何が何でもこうしたい」「何が何でも何かを掴みたい」という何かに対するこだわりと、何が何でもという諦めない気持ちが大切になる。
ボクシングで相手に倒された時には、一瞬意識も朦朧となり、恐怖心は大きくなり、戦意も一瞬喪失しそうになるそうだ。ここで立つか、そのまま倒れるか。。。
目の前にどうしても手にしたいものがあるならば、どれだけ打ち砕かれようが、それを手にするために立ち上がる。諦めずに挑戦していくことが大切になる。
絶対に妥協できない自分が大切に思うものがあるなら、立ち上がってもうひと踏ん張りしてみるといい。諦めの先には諦めの未来しかない。その未来は他の誰でもない自分が作り上げたもの。
格好悪くてもいい、不器用でもいい、諦めないことはできる。自分にとって絶対に譲れない大切なものであるならば、立ち上がって掴み取ろうとする気持ちが必要だと感じる。
何かを選択する際には、「何が何でもこうしたい」「何が何でも何かを掴みたい」という何かに対するこだわりと、何が何でもという諦めない気持ちが大切になる。
ボクシングで相手に倒された時には、一瞬意識も朦朧となり、恐怖心は大きくなり、戦意も一瞬喪失しそうになるそうだ。ここで立つか、そのまま倒れるか。。。
目の前にどうしても手にしたいものがあるならば、どれだけ打ち砕かれようが、それを手にするために立ち上がる。諦めずに挑戦していくことが大切になる。
絶対に妥協できない自分が大切に思うものがあるなら、立ち上がってもうひと踏ん張りしてみるといい。諦めの先には諦めの未来しかない。その未来は他の誰でもない自分が作り上げたもの。
格好悪くてもいい、不器用でもいい、諦めないことはできる。自分にとって絶対に譲れない大切なものであるならば、立ち上がって掴み取ろうとする気持ちが必要だと感じる。
2022年03月08日
ちょっとの
ちょっとした思いやり、ちょっとした気配り、ちょっとした優しさ……でも、このちょっとを誰もが持てたら、みんな幸せで豊かな時間になるのになぁ〜と思う。すごく多くなくてもいい、ちょっとでも充分。誰かと話す時に、誰かと接する時に、ほんの少し立ち止まって、ほんのちょっとの心の中に余裕を持って、相手にちょっとの何かを届けようと思えれば、届ける方も届けられた方も、ささやかな心のふれあいの時間が持てるのになぁ〜と思う。凄く大袈裟なものでなくてもいい、お互いがささやかな心の温まる時間を過ごせることこそ、幸せな時間なんだと思う。お互いがお互いを感じ合える大切なコミュニケーションの時間なんだと思う。お互いのそんなちょっとの積み重ねがお互いの絆を強めていくのかな、なんて思ったりもする。
2022年03月07日
自己開発
自己開発。自分の可能性を信じて自分の実力を切り拓いていく。そのためにはチャレンジが大切なのだが……しかし、「チョロっと新たなことでもかじってみるか!」と中途半端に新たなチャレンジを始めるのは良くないような気がする。。そんな発想でいると好調の時には甘えが出て自分が調子いいからやらない、不調の時には、切羽詰まって自分が大変だからやらない、となり、いつまでたってもやらないことになってしまう。それでも、やろうとなった時には自分が良いからその余力でやるだろうし、あるいは自分が悪いからやむなくリスキーなものに手を出してしまうだろう。自己開発はやってもやらなくてもいいものではないし、中途半端にやるものでもないだろう。やるなら地道に本気で全力で取り組んでいかなくてはならない。自己として将来に向けて更なる発展していくために本気で取り組んでいかなくてはならないのが自己開発なのだと思う。
2022年03月06日
心の窓を
窓にカーテンを引いたままであれば、太陽の光も届かないし、外の景色も見ることができない。
窓が曇っていては太陽の光も雲って届くし、外の景色も雲って見える。
窓が歪んでいると太陽の光も歪んで届くし、外の景色も歪んで見える。
心の窓はどのような状態なのか。心を閉ざしているのか、心が曇っているのか、心が歪んでいるのか。それによって人からの愛情の受け止め方や、人や社会の見方が変わっていくのではないかと思う。
同じものでも、どのような心の窓を通して見るのかで全く違ったものになってしまう。見え方や捉え方が変わってしまえば当然、感じ方も変わっていく。
心の窓が小さければ、そこから見える景色は全体の一部でしかなくなる。心の窓が大きければ全体を見渡すことができる。
素直でいられるためには、いつも心の窓を拭いて透明感を保っていなくてはならない。そして、人や社会を正確に見るためには心の窓を大きくしていかなくてはならない。
窓が曇っていては太陽の光も雲って届くし、外の景色も雲って見える。
窓が歪んでいると太陽の光も歪んで届くし、外の景色も歪んで見える。
心の窓はどのような状態なのか。心を閉ざしているのか、心が曇っているのか、心が歪んでいるのか。それによって人からの愛情の受け止め方や、人や社会の見方が変わっていくのではないかと思う。
同じものでも、どのような心の窓を通して見るのかで全く違ったものになってしまう。見え方や捉え方が変わってしまえば当然、感じ方も変わっていく。
心の窓が小さければ、そこから見える景色は全体の一部でしかなくなる。心の窓が大きければ全体を見渡すことができる。
素直でいられるためには、いつも心の窓を拭いて透明感を保っていなくてはならない。そして、人や社会を正確に見るためには心の窓を大きくしていかなくてはならない。
2022年03月05日
何を成し遂げていくか
成し遂げてきたことよりも、これから何を成し遂げていけるのかに。成し遂げてきたことなど過去に過ぎない。人は過去に向かっては生きていけない。未来に向かって生きている。その未来に何を成し遂げていけるのか。そこに自分の力をどれだけ発揮していけるのか。力試し。何を成し遂げようがそれは全てが過去に流れていく。そうだとするなら、未来に繋がる今という時間の力試し。通用すればまだまだ力に余力があり、通用しなければ力が足りないということ。それを知りまた力を蓄えていく。人生はその繰り返しかもしれない。いつも、だからこそギリギリの力試しをしていきたい。それによって何を成し遂げていくかの何が変わっていく。
2022年03月04日
自分自身の戦い
運命…そんな言葉があるなら、それを呪いたくなるような時もあるだろう。でも、そんな状況下にあっても投げやりになる者もあれば、それを受け止めながらも前向きに今目の前にあることに全力を注いでいける者もある。前向きに!なんて言葉にすれば簡単な言葉。でも、そこに行動を伴わせていくとなると決して簡単なことではないはずだ。人間なんて強いようで弱いもの。心は常に揺れ動く。そこからは自分自身との戦いになる。弱い自分自身との戦い。それは他の誰にも見えない自分の心の中での戦い。勝ったのか、負けたのかは、スポーツの試合のようには誰にも分からない。分かるのは自分だけ。そんな戦いに一つ一つ勝って積み重ねていくことでしか得ることができないものもあるだろう。
2022年03月03日
大人の一言で
元広島カープの投手の長谷川昌幸さんとの動画の対談仕事。長谷川さんとは約3年ぶりの再会。『人材育成について』語り合いました。
そして廿日市ジュニアという少年野球チームでのメンタル講習会。小学校2年生から6年生の子ども達に向けてメンタルのお話をさせていただきました。
長谷川さんとの対談でも出てきた『指導者の言葉の重み』。小さな子ども達と接する時に自分も細心の注意を払う点です。
5年くらい前にこんな出来事がありました。地元の国立市で知人達と飲んでいました。その時に近くの席にいらっしゃった大学生の息子さんとそのご両親らしき三人組がチラチラと何度もこちらの方を見られていました。
しばらくしておもむろに「失礼ですが、もしかして高畑先生ですか?」とお声をかけていただきました。「はい、そうです。」と答えると、息子さんが実は自分が小学生で国立市のサッカーチームに在籍していた時にメンタル講習会を受けたんです、とのこと。十数年前のことです。
その時にその息子さんが最後に質問をしてくれたそうなんです。「僕は勉強とサッカーとどちらを頑張ればいいか?悩んでるんです。親は勉強、僕はサッカーなんです。。。」という質問だったようです。
その時に自分はその質問に対して「目の前のことに常に全力を注ぐように。目の前にサッカーボールがある時にはサッカーに全力を注げばいいし、目の前に参考書がある時には勉強に全力を注いでいこう」と伝えたとのことでした。
その時の僕の言葉が凄く印象に残ったようで、そこからその言葉を常に大切にして中学でもサッカーと勉強を頑張り都立の難関高校の国立高校に進み、そこでもサッカーと勉強を頑張り、京都大学に見事合格して大学でも体育会のサッカー部に所属して学問とサッカーを両方頑張っています!!と話してくれました。
十数年前のことなのにこうして顔を覚えていて声をかけてもらえたことも嬉しかったし、息子さんの心にその時に自分が伝えた言葉が残っていて、その後にその言葉通りの生き方を積み重ねてきてくれたことも嬉しかったです。
大人である僕たちは、子ども達と接する時に、だからこそ子ども達の未来も見据えて熟慮して言葉をかけていかなくてはならないと思います。何気ない一言が時にその子どもの心に深く刻まれていくこともあるのですから。
そして廿日市ジュニアという少年野球チームでのメンタル講習会。小学校2年生から6年生の子ども達に向けてメンタルのお話をさせていただきました。
長谷川さんとの対談でも出てきた『指導者の言葉の重み』。小さな子ども達と接する時に自分も細心の注意を払う点です。
5年くらい前にこんな出来事がありました。地元の国立市で知人達と飲んでいました。その時に近くの席にいらっしゃった大学生の息子さんとそのご両親らしき三人組がチラチラと何度もこちらの方を見られていました。
しばらくしておもむろに「失礼ですが、もしかして高畑先生ですか?」とお声をかけていただきました。「はい、そうです。」と答えると、息子さんが実は自分が小学生で国立市のサッカーチームに在籍していた時にメンタル講習会を受けたんです、とのこと。十数年前のことです。
その時にその息子さんが最後に質問をしてくれたそうなんです。「僕は勉強とサッカーとどちらを頑張ればいいか?悩んでるんです。親は勉強、僕はサッカーなんです。。。」という質問だったようです。
その時に自分はその質問に対して「目の前のことに常に全力を注ぐように。目の前にサッカーボールがある時にはサッカーに全力を注げばいいし、目の前に参考書がある時には勉強に全力を注いでいこう」と伝えたとのことでした。
その時の僕の言葉が凄く印象に残ったようで、そこからその言葉を常に大切にして中学でもサッカーと勉強を頑張り都立の難関高校の国立高校に進み、そこでもサッカーと勉強を頑張り、京都大学に見事合格して大学でも体育会のサッカー部に所属して学問とサッカーを両方頑張っています!!と話してくれました。
十数年前のことなのにこうして顔を覚えていて声をかけてもらえたことも嬉しかったし、息子さんの心にその時に自分が伝えた言葉が残っていて、その後にその言葉通りの生き方を積み重ねてきてくれたことも嬉しかったです。
大人である僕たちは、子ども達と接する時に、だからこそ子ども達の未来も見据えて熟慮して言葉をかけていかなくてはならないと思います。何気ない一言が時にその子どもの心に深く刻まれていくこともあるのですから。
2022年03月01日
遊び心を
僕は本やプロジェクトの企画などを考える時は、誰かと飲んでいたり、外の空間で自然を感じながら頭の中を遊ばせながら考えていたりする。誰かとバカ話をしながら頭の中を柔軟にしていく。周りの動きを楽しく観察しながら頭を楽しい方向に持っていく。会議室のような狭い空間で真面目ぶって考えるのが好きではない。周りが壁で仕切られているのも、さあ!考えるぞ!と改まるのも好きになれない。僕にとっての仕事の基本は『大人が本気で遊べばそれが仕事になる』というもの。まずは企画というのは、自分にとって本気で情熱を傾けて遊べるものでなくてはならない。子どもの頃に無我夢中で遊んでいたように。どれだけ本気で没頭できるのか。遊びだって中途半端な遊びなんて心底から楽しめない。今と違って、僕の子どもの頃には色々遊び場所や道具があった訳ではない。近所の空き地や山や川…遊び道具はそこら辺に転がっているものだったり。そんな中でどうやってみんなで楽しく遊びを創り出せるかを考えたものだ。目一杯、想像力を働かせて遊びを創造していた。何かなくても、自分の頭の中で何かを作り出して楽しい時間を過ごした。大人になった今もどこかそんな感覚を自分の中で大切にしている。何もないところから何か新しい企画を創造する楽しさ。頭の中で想像力を膨らませて遊ばせていく。自分が本気になってワクワクして遊べることを本気で探求していけば、そこには新たな企画が生まれていたりする。子どもの頃と違うのは、大人になると楽しい時間に+αを付加させていけること。