2022年05月29日
哲学
哲学なんて聞くと、何だか重々しくて難解な感覚があるかと思いますが、自分の人生という航路を進んでいく上での指針と思えば、それがいかに大切なものかわかってくる。どんな時にもブレることなくその指針に照らし合わせながら進んでいく。上辺だけの指針なんかでは簡単にブレてしまうだろう。だからこそ、とことんまで掘り下げていかなくてはならない。それこそが哲学。時に自分の中で自問自答し、禅問答のようなことを繰り返し。また時には誰かと徹底的に話をする中で、それが一つの媒体になり掘り下げられていく。深く根幹にあるものは揺るぎない。揺るがないからこそブレることもない。掘り下げていく中で哲学が変わっていくこともあるかもしれない。もがきにもがいた先に、深堀りした先に変わるのであれば大丈夫。簡単にコロコロ変わってしまうのは考えたのではなく、単に時代や環境や人に影響されただけのこと。恐れずに面倒臭がらずに自分ととことん向き合っていく時間というものを、こんな時間や時流が早く流れる時代だからこそ、逆にじっくりと持てるといいのではないかと思う。人生哲学しかり、勝負哲学しかり。
2022年05月28日
時には自己を主張
三方良しというが、いざ!という時には全ての意見に耳を傾けて全てに応えていこうとしてしまうと、目指す方向性に一貫性が見られなくなるし、判断がことごとく遅れてしまい、さらには行動力が鈍くなってしまう。今回のコロナに対しての政府の対応はどうしても後手後手に回ってしまったように感じる。平時の取り急ぎの案件がない時であればそれでもいいのだろうが。。。いざ!至急!を要する際には、やはり全てに良しとはならないだろうし、全てから納得を得られることも賛同を得ることもできないかもしれない。それでも、責任を全うして一貫性を保ちながら、素早く決断して行動に移していくことも大切なのだろう。これは国という大きな単位だけではなく、会社やスポーツチームなどの組織でも同様のことが言えるだろう。時には八方美人ではなく、明確な自己主張も求められることもあるように思う。
2022年05月27日
準備の質
『長袖善舞』前もってしっかりと準備してことに臨めば成功しやすいということ。または、元手や資質があれば成功しやすいということ。袖が長い服のほうが、袖の短い服よりも舞う時に美しく見えるということから。準備の大切さはよく言われることだが、この準備は人によって度合いも、精度も、期間もまるで違う。誰もが、準備をしてきたか?と問われれば、はい!と答えるだろう。しかし、準備の質によって結果は違ってくるだろうと思う。付け焼き刃的な準備ではすぐにボロが出てしまうだろう。長袖というところに本来の意味とは違うが、自分なりの意味を見出だしてみた。半袖の準備では暑ければいいが……仮に寒かった時には大変な思いをすることになる。しかし、長袖であれば暑ければ袖を捲ればいいし、寒ければそのまま長袖でいい。長袖ならいかなる状況にも対応可能な準備と言える。本来の準備というのは、あることだけにしか対応できないというものではなく、どんなことにも応用して対応できる準備なのだろうと考えさせられた。
2022年05月26日
やる!
やると決めたからには、やるしかない。前途が不透明なら、できることからやるしかない。ごちゃごちゃ混線してるなら、一つ一つ解きほぐしてやるしかない。一気に大きなことをしようとするのではなく、地道に一歩一歩を積み重ねてやるしかない。やらなくてもいい理由もあるが、やらなければならない理由もある。どちらも理由があるなら、自分は最後までやる方を選択する。逃げる楽な選択はしたくはない。苦しくても辛くても立ち向かう選択をしたい。その先にたくさんの人の笑顔や喜びがあるなら。誰よりも考え抜き、誰よりも汗を流して、ひたすらに前を先を見据えて進んでやり抜いていくしかない。それこそが、大人としての責任なのではないかと思う。それを背負えるだけの自分であると信じている。
2022年05月25日
事実
事実は事実として結果だけを見れば、それが事実になる。しかし、その事実が生じるに至るまでの背景にある経緯によって、事実の見え方は変わってくる。表面的に見ると、見えなかった世界が、裏面的に見ると違って見えてきたりする。どちらが事実なのか?と問われれば、ある側面ではどちらも事実と言えるだろう。本当の事実というのは、そのように多面的に肉づけされたものなのではないだろうか。だからこそ、事実はあらゆるものが絡み合ってできているとも言える。時に絡まりすぎて分かりづらくなるからこそ、肉を削ぎ落としていくことも必要なのだろうが…事実の捉え方を自分自身ももっとより深めていきたいなと感じる。
2022年05月24日
動機と結果との間に
動機と結果があまりにも短絡的すぎてしまうと、そこに決定的な何かが欠けてしまう。動機と結果との間に葛藤や逡巡や洞察といったものが欠けていると、一時的には物事は上手くいくことはあっても、長続きしたり、上手くいく確率を上げていくことはできないだろう。その繋ぎの部分を大切にしていかなければ、何事も物凄くイージーでライトなものになってしまう。ここをどれだけ考え抜いていけるのか、どれだけもがけるのかで同じ動機で同じ結果でも、そのどちらに対しても深みが全然違ってくる。その深みこそが結果を出し続けていくための安定感のようなものに繋がっていくように感じる。
2022年05月23日
自分に気づく
人間には様々な側面がある。時に自分がそれまでに自覚していなかった側面に気づいた時などは、自分自身に違和感を覚えると同時に新発見の楽しさも感じる。自分がある場面に直面したら〜になるだろうと想定していても、実際には想定外の〜になったりすると、おっ!自分どうしちゃった??となる。こんな自分が自分の中にいたんだ、と。誰もが自分のことはよく分かっているようで、よく分からなかったり。だからこそ人間というのは面白いし、人生も面白いのだろうと思う。そんな自分も否定せずに素直に認めてあげたいなと思う。それも含めての自分なのだから。
2022年05月22日
チャンスの扱い
小さな田んぼで、小さいから、それを補ってたくさん米を収穫したいからと欲張って、キュウキュウに稲を植えても、どの稲も充分な実りをせずに結果として収穫が普通に植えるよりも減ってしまうということはある。与えられたチャンスの大きさを冷静に判断することが大切になる。チャンスの大きさ以上の欲を出してしまうと、下手をするとチャンスすら台無しにしてしまうことになりかねない。チャンスを見極めるのも大事だがチャンスをどう生かし切るかというのも大切。チャンスにも分相応というものがある。余計なことをし過ぎてしまうとチャンスは逆にピンチに変わってしまう。それくらいチャンスというものは、扱いの難しいものだと感じる。
2022年05月21日
時代を超えて大切なこと
醒めた気持ちで何かをやっても情熱さえ湧いてこないだろう。愛情を注がないで人と接していても何の心の絆も深まらないだろう。真剣にやらないで、どうして物事の奥深さに気づけるのだろうか。簡単なことにすぐに流れてしまって、どうやって物事を積み上げていけるというのだろうか。上澄み液のような情報ばかりを集めていて、どうして物事の本質に辿り着けるというのか。いつから、社会はこのように変容してしまったのだろうか。どれだけ時代が変わっても、生活スタイルが変わっても、根本的な人が生きる上で大切なことは何一つとして変わるはずがないと思うのだが。人はどれだけ時代が変わっても、人は人だと思うのだが。今の社会は人として大切な多くのことを見失っているような気がしないこともない。
2022年05月20日
自分を持つことは
自分を持つことはとても大切なこと。でも、それも強くなりすぎてしまうと自分の世界に入り込んでしまい他人の言葉が耳に入らなくなったり、心に届かなくなったりしてしまいがち。そうすると、自分以上にはなれない可能性が出てくる。他人の言葉を全て受け入れるということではない。しかし、他人の言葉を跳ね返していては自分の世界に広がりが生まれてこない。本当に真の自分を持てている人というのは、他人の言葉に対しても耳を傾けられるし、心で聞くこともできる。それは、そのくらいでは簡単に崩れない自分をしっかり持てているから。だからこそ、他人の言葉に対しても敵視ではなく、可能性の一つとして受け止めることができるのだろう。真の自分を持とう!!それは自分という核を持ちながらも無限の広がりを持てるということを意味している。
2022年05月19日
競う
争うことと競うこととは少し意味合いが違うのでないかと感じる。相手に打ち勝つのが争いなら、競うというのは相手を生かしながら切磋琢磨していく印象がある。争うというのが結果としての勝ちを念頭に置いているのに対して、競うというのは過程としての切磋琢磨を念頭に置いているような。人と人、組織と組織は争うのではなく、競うと良いのではないかと感じる。一人勝ちした先に、なかなか進歩は望めないが、競り合った先には両者ともに進歩をしていけるように感じる。相手を潰すのではなく、相手を生かして自分と競わせることで自分も共に生かされていくような感じ。こんな関係こそがライバルなのだろうと思う。争走ではなく、競争でもなく、競走。勝ち負け以上に最後まで競り合った過程は自分の中に残るものは大きいように感じる。
2022年05月17日
院内学級の子ども達
7年くらい前から病院の院内学級に訪問させていただいているんです。院内学級は大病している子ども達の通う病院に併設されています。大病で数年にも渡る長期入院していて外の学校に通うことのできない子ども達のために何か力になれないかと。
一度も普通の学校に通ったことのない子どもだけでなく、産まれてから一度も病院の外に出たこともない子どももいます。
メンタルの話をさせていただいているのですが、その際に子ども達にプロ野球選手達が使用しているグラブやバットをプレゼントしています。子ども達のためにそれが子ども達の役に立つのであればという心優しき選手達。
子ども達に手渡す時に伝える言葉があります。「選手達はこのグラブで飛びついてでも何とかしてボールを捕ろうとしてきたんだよ。もう駄目だと諦めた瞬間にボールはグラブには絶対に入ってくれない。だからこそ捕れるか捕れないかは分からないけど、最後のギリギリまで絶対に諦めないんだよ」と。
決して病気を治せる薬ではない。しかし、ほんの僅かでも子ども達の心の薬になるのではないかと。心の薬、それは諦めない心、勇気や希望。命という大切なボールを諦めることなく追いかけてほしいという願い。子ども達がグラブやバットを手にした時に目の輝かせ「ぼくも絶対に諦めずに退院するね!」という言葉によって胸に込み上げてくるものがあります。。。
自分は子ども達の病名を何となく理解しているからです。この写真はご両親から返却されたものです。この数だけの子ども達が天国に。。。ある子のお母さんから「息子は亡くなる直前まで絶対に命のボールをキャッチするんだ!といって諦めませんでしたよ」と仰られていました。
時に命とは。。。何なのだろう?生きるとは何なのだろう?と深く考えさせられます。答えが見つかりません。
何故?こんな純粋な心の子ども達の命が、透き通った瞳が、無垢な笑顔が。。。と。自分には明確な答えはわかりません。。。あんなに小さくて細い身体で、まだまだ未熟な心で命と向き合う子ども達。上手く言えませんが、子ども達の命が失われることが悔しくてたまりません。
自分にできることなど本当に小さな小さなことでしかありませんが、それでも自分が子ども達に伝えていける話と、プロ選手達の思いやりのあるプレゼントという心の薬をこれからも届けていきたいと感じています。
一度も普通の学校に通ったことのない子どもだけでなく、産まれてから一度も病院の外に出たこともない子どももいます。
メンタルの話をさせていただいているのですが、その際に子ども達にプロ野球選手達が使用しているグラブやバットをプレゼントしています。子ども達のためにそれが子ども達の役に立つのであればという心優しき選手達。
子ども達に手渡す時に伝える言葉があります。「選手達はこのグラブで飛びついてでも何とかしてボールを捕ろうとしてきたんだよ。もう駄目だと諦めた瞬間にボールはグラブには絶対に入ってくれない。だからこそ捕れるか捕れないかは分からないけど、最後のギリギリまで絶対に諦めないんだよ」と。
決して病気を治せる薬ではない。しかし、ほんの僅かでも子ども達の心の薬になるのではないかと。心の薬、それは諦めない心、勇気や希望。命という大切なボールを諦めることなく追いかけてほしいという願い。子ども達がグラブやバットを手にした時に目の輝かせ「ぼくも絶対に諦めずに退院するね!」という言葉によって胸に込み上げてくるものがあります。。。
自分は子ども達の病名を何となく理解しているからです。この写真はご両親から返却されたものです。この数だけの子ども達が天国に。。。ある子のお母さんから「息子は亡くなる直前まで絶対に命のボールをキャッチするんだ!といって諦めませんでしたよ」と仰られていました。
時に命とは。。。何なのだろう?生きるとは何なのだろう?と深く考えさせられます。答えが見つかりません。
何故?こんな純粋な心の子ども達の命が、透き通った瞳が、無垢な笑顔が。。。と。自分には明確な答えはわかりません。。。あんなに小さくて細い身体で、まだまだ未熟な心で命と向き合う子ども達。上手く言えませんが、子ども達の命が失われることが悔しくてたまりません。
自分にできることなど本当に小さな小さなことでしかありませんが、それでも自分が子ども達に伝えていける話と、プロ選手達の思いやりのあるプレゼントという心の薬をこれからも届けていきたいと感じています。
2022年05月15日
頭の体操
四文字熟語。これの意味と読み方だけで、漢字を四つ入れていく。いつもと違う頭の使い方ができる。熟語の意味からイメージを膨らませて、読み方から様々な漢字を頭の中で当てはめてみる。これがなかなか難しい。。。頭の中が固定化されているのにも気づかされる。どこまで、その熟語の意味をイメージでどこまで広げられるか。意味を様々なものに置き換えていけるか。そして一文字ずつの漢字の持つ意味やニュアンスを嵌め込んでいく。そしてこの四文字熟語を作り出した人の気持ちを考えてみる。様々な面で頭の中に今までにない刺激が入る。まるで頭の体操のようだ。そしてそれがとても楽しい。さらには、こうして覚えた四文字熟語は記憶しやすい。この年になって改めて楽しい勉強方法に出会えたようでとても嬉しかったりする。
2022年05月14日
発想を変えれば
逆転の発想をどれだけ持てるかで、自分自身の行動も変わっていくように感じる。行き詰まった時に人は進むのを躊躇する。しかし、行き詰まっているように感じるだけで、発想を変えれば大きく開けて見えることもある。ピンチに見えていることが大きなチャンスに見えてくることもある。行動していくためには、やはり視界良好にしておかなくてはならない。見ている世界と現実の世界は違っていたりする。見方の問題だったりする。見方を変えていくためにも今までとは逆転の発想を持つことがとても大切になってくる。
2022年05月12日
言葉の裏側には
忙しいと口にする裏側の心の中には充実した心がある。暇だと言える心の内にある余裕の心。悲しいと口にする裏側には素直な心がある。もうダメだと言う裏側には潔い心がある。ネガティブに見える言葉の裏側には、また別のポジティブな感情や心があるかもしれない。もちろん、忙しいと言う代わりに充実していると言葉にすればいいし、暇だという代わりに余裕を持ってると言葉にすればいいのだが。あるいは、その逆も然りで、ポジティブな言葉の裏側にネガティブな感情がある場合もあるだろう。人間というのは言葉と心とが裏腹だったりすることも多い。本音と建前とで違ったりもする。だからこそ、人の言葉面に単純に惑わされることなく、その心の内を感じ取る感性のようなものが大切になっていくような気がする。本当の心を知らなければ、あるいは気づけなければ、その相手の真に求めるものに応えていくこともできないのではないだろうか。
2022年05月11日
こんな時だからこそ
時間というのは不思議なものだ。同じ時間でも嫌なことに関してはとても長く感じるし、好きなことや楽しいことは、それこそあっ!という間に感じるものだ。客観的な時間と主観的な時間とがあり、人間はどちらの時間も並行して生きていることになる。自粛の期間も気持ちの持ち方一つなんだろうと思ったりもする。ただ嫌だ嫌だと思っていれば、その期間は長く感じるはずだし、好きなことをやれる時間と考えれば短く感じたりするものなのだろう。夏休みの一ヶ月半なんて、それこそあっ!という間だった気がする。本当に気持ちの持ち方で様々なことが変わる。ついつい暗く辛く感じがちになる出来事ではあるが、それでも前向きに時間を生きていかなくてはならないなと痛感させられる。
2022年05月10日
小さな勇気
周りの空気に流されることは簡単なことだ。しかし、流されることで誰かが傷ついたり、大切な自分を見失ってしまうくらいなら、周りの空気を止めるくらいの勇気は持っていたいと思う。周りの空気というのは、時として周りの全員で一人の人間を追い込んでしまうことがある。大した考えもなかったり、何となく調子を合わせたり、大した悪気がなかったとしても、その空気に流された時点でその群衆の中の一人に加味したことになるのだという意識を忘れたくはない。空気を止めるのは勇気のいることだろう。でも、誰かが深く傷つけてしまうことに比べれば、それを持てることもとても大切だと感じる。誰かを追い込んでしまうときっと自分自身の心の中に消えない後悔が残るはず。群衆の中の一人だったでは済まなかったりするのだから。その時には勇気のいることかもしれないが。でも、何よりも大切な勇気なんだと思う。
2022年05月09日
怖い存在こそ
自分が怖いと思う人こそ大切にするようにと子どもの頃から親に教えられた。今の時代は怖い存在というのは悪人のように受け取られがちな世の中の風潮がある。怖いは、優しいなんだと思う。自分に興味があるからこそ本気で叱ってくれるし、自分を何とかモノにしてやりたいと思うからこそ情熱的に向き合ってくれるのだから。それはとてもエネルギーの要することでもあるのだ。逆に『いいんじゃない? 気にしなくてもいいよ』なんて優しいことを言っている人の方が、実は別の意味で怖かったりもする。当たり障りのない言葉はそのまま相手にとって自分が当たり障りのない存在でしかないということ。自分のことに興味がないから、いざとなったら黙ってバッサリ切られて見捨てられる可能性があるからだ。だから子どもの頃から誰かに本気で怒られたら『ごめんなさい』と『ありがとうございます』が習慣化している。人生を通して本気で向き合ってくれる相手なんてそんなに多くはないのだから。
2022年05月06日
化ける
スポーツ選手などに対して、よく、あの選手は化けたという言葉を使う。化けるというと、一瞬のうちに忍法のようなもので化けるみたいなイメージがある。しかし、化けるその裏には誰よりも汗を流して懸命に打ち込んできた時間がある。化けると言われるくらいまで大きく変わるためには、ともするとスポーツの技術だけではなく、心の部分も大きく変えていかなくてはならないようなこともある。時には、勇気を出してこれまでの自分を、自分のやってきたことを一旦、端に置いたり、捨てたりしなくてはならない場合もあるだろう。自分自身の中途半端なリフォームをするくらいなら、一回スクラップして、ゼロから再構築していく方が早くて、進化も著しいこともある。化けるためには、選手は多くのことを根本から変えていかなければならない。何事も簡単にはいかないものだ。
2022年05月04日
大胆かつ繊細に
心の風船を膨らませると、やがて破裂する。破裂することを恐れていては、まだまだ余力を残してしまう。調子に乗ってまだまだ大丈夫だと思っていると限界を超えて破裂してしまう。風船の弾力性によっても限界は変わっていく。心の柔軟性がなければ早く限界を迎えてしまう。周りの環境によっても変わってくる。周りが温かく応援してくれていれば、心の風船は柔軟性が生まれるし、冷たくされれば心の柔軟性が失われていく。限界が近づいてきているのを気づかずに無理をすると破裂してしまう。だからこそ、限界が近づいてきたと感じた時には、より繊細に自分の心の風船の様子を見て、感じて、意識していかなくてはならない。少し時間を置けば、風船がだんだん萎んでいくように、限界ギリギリまで自分を追い込んでも少し休みを入れれば、また挑んでいけるだろう。無理をしなければ、限界に近づいていけないが、無理をし続けると破裂してしまう。心は大胆かつ繊細に取り組んでいかなくてはならない。
2022年05月02日
広く深い世界観
勝つ喜びがあるからスポーツを続けていける。負ける悔しさがあるから練習を続けていける。できないプレーをできるようになるから向上心を持ち続けていける。どれだけいってもできないプレーがあるから精進し続けていける。完璧もない変わりに完敗もない。だからこそ、自分が自分自身であり続けていける。これはスポーツに限らず全てのことに言えるように感じる。何かを続けていけばいくほど、何かを学べば学ぶほど、何かを経験すれば経験するほど…人はできる自分とできない自分を痛感させられる。知っている世界の狭さを知り無限に広がる世界の広さを知る。だからこそ物事に向き合い、自分自身に向き合うことができるのだろうと思う。成功したり失敗したりを繰り返しながら。だからこそ物事に真摯に真剣に取り組んでいけるのだろうとも思う。どこまで行っても完璧なんて終わりもなければ、全くダメなんて完敗なんて終わりもない。どこまでやっても、やればやるだけその世界の広さや深さを感じる
2022年05月01日
どこまでも……
どんなことも、永遠に分かることはないのだろう……自分が分かったと決めた瞬間が、ある意味で終わりとも言える。分かるということは、同時に分からないことも分かるということなのだと思う。分かるということは追い求めていけば、終わりがないこと。人はどこかで分かったつもりというキリをつけて生きているのかもしれない。人に対しても知識などにしても。そのキリのつけ方が浅いのか深いのかの違いはあるだろうが。全てに深くはいけないだろう。でも、せめて人でも知識でも、一つくらいは永遠に追い求めるものがあってもいいような気はする。終わりなき探求。分からないことの面白さ、分からないことの苦しさ。。。それこそが人生そのものなのかもしれない。