2022年09月30日
チョコチョコ勉強法を取り入れてみる
人間誰しも新しい環境に置かれて新しい事を一気に頭に詰め込もうとすると頭が痛くなるような時があると思います。それはきっと頭が新しい刺激を入れることで疲労してるのです。脳というのは常に新しい刺激を求めるのですが、刺激が強すぎたり多すぎると拒否反応を起こして吸収力が逆に低下するのです。そうした拒否反応を起こさないためのちょっとした工夫をご紹介します。例えば勉強で言えば、単一刺激の一教科を大量に一気に詰め込むのではなく、一回に少しずつ学習するようにしていくのです。仮に英語と数学と社会だとすると、英語を一時間、数学を一時間、社会を一時間ほど勉強するとしたら、180分を10分単位に区切り、英語10分、数学10分、社会10分、そしてまた英語10分、数学10分……を順番に回しながら、頭を常に新鮮にしつつも、一回に頭の中に入れる刺激を少な目にするというやり方をしていくのです。このようなチョコチョコ勉強法をしていくと脳をパンクするのを防ぎながら効率良く勉強を進めていけて、結果的に当初の予定通りの勉強をしていけるのです。それに加えてそのローテーションの順番として好きな(得意な)学習内容嫌いな(苦手な)学習内容好きな(得意な)学習内容という順番が良いと思います。最初に好きなことで勉強の波に乗り、その波に乗って嫌いなことを乗り切り、最後に終わり良ければ全て良しではありませんが、好きなことで全体の印象をプラスに持っていくのです。すると勉強後もスッキリ感が残り、勉強後の頭のクールダウンにも移行させやすくなります。
2022年09月29日
打たれ強さ
勝ち抜く粘り強さも大事だが、負けて立ち直る強さはもっと大事。勝負は勝ったり負けたりの繰り返し…その中で負けて立ち直れなければ負けが続いてしまう。打たれ強さ。踏まれても踏まれても葉を伸ばして花を咲かせる雑草のような強さ。負けてなお、なにくそ!と更なる高みを目指せる強さ。そもそも、勝負事というのは互角の実力を持った者同士であれば大きな連敗や連勝なんてないものだ。基本は勝ったり負けたりの繰り返し…負けて凹んで次も負けてさらに凹んで…を繰り返していては勝負にはならなくなる。負けてなお、自分自身の中に揺るぎない自信を持って立ち向かっていける強さは本当に大切だなと感じる。負けても負けても次には胸を張って立ち向かっていける強さ。そんな強さを心の根幹に作り上げていく。負けたから終わりでもなければ、勝っても終わりではない。生きている限りは勝負の連続なのだから。
2022年09月28日
どちらの手でも
最善の手を尽くして勝つべきだと。対して人間は必ず過ちを犯す動物だから、良い手を指さなくても相手の悪手を待っていればいい、自分が悪手さえ指さなければ勝てるものなんだと。どちらも真実のような気はする。要は生き方の問題、自分自身の勝負哲学の問題なのだろうと思う。それによって勝負の仕方が変わってくるだけのような気がする。そこに人間対人間の勝負の面白さがあるのではないかと感じる。テニスや卓球だって常に攻撃的に攻める選手もいれば、ひたすらボールを拾いまくって相手がミスをするのを丁寧に待つ選手もいる。どちらが強いとも言えない。ただ中途半端な者は結局は途中で迷い、とっちつかずになり、中途半端な手しか打てずに破れてしまう確率は高いのではないかと思う。自分が決めた道を信じ抜いてひたすら貫いていくことの強さのようなものが、勝負所で強さとなって表れてくるのではないだろうか。
2022年09月27日
伝統との付き合い
伝統を大切にすることと、伝統に縛られることとは別の問題。過去にこだわって変化を拒絶していると、弊害ばかりが際立って時代から取り残されていく。伝統を守るために大切なのは、まさしく温故知新。伝統の本質は大切にしながらも時代に合わせて伝統も進化していかなくてはいけないだろう。伝統は重いものだが、過去にだけ縛られてしまうとその重さに押し潰されてしまいかねない。常にブラッシュアップして余計なものは削ぎ落としたり磨き上げたりしていかなくてはいけない。
2022年09月26日
無言の応援
頑張れ!頑張れ!と励ましや応援の意味を込めて人は口にするのだが…時にその言葉が積み重なると、本人には無意識のうちに大きな重石になることがある。誰よりも本人は頑張ろうとしている。頑張ります!と答えながら、その言葉がどんどん自分を追い詰めているような苦しみを感じることもある。じわりじわり息苦しさを感じる。応援してもらえることに感謝をしながらも、これ以上に自分を追い詰めないでくれ!と叫び出したくなることもあるだろう。自分は自分にできる限り精一杯にやるからそっとしておいて欲しいと感じることもあるだろう。頑張れ!頑張れ!と伝えた側も無意識のうちに相手が頑張ります!と返答することを想定しているだろう。それを分かるからこそ本人も頑張ります!としか答えようのない循環。辛くても苦しくても笑顔で無理してでも頑張ります!としか答えようのないさらなる辛さ。時には無言の応援というのもありなのかもしれない。笑顔を向けるだけの応援もありかもしれない。言葉が伝え手の意思とは違う方向にいかないためにも。
2022年09月25日
人との絆
株式会社ウーブルとの第5回目の『年中夢求プロジェクト』を元中日ドラゴンズの矢地健人さんにお願いして祇園中学で行いました。(牛田中学と祇園の小学生ソフトボールチームの高学年の参加もあり、総勢60名)
人との深い絆。野球の試合では勝ったり負けたり。。。チームのレギュラー争いにも勝ったり負けたり。。。そんな結果は時が過ぎてしまえば過去になるのです。でもその根底にあるのは野球が好きだという強い想い。同じ想いを強くするライバルも対戦相手は時が過ぎても大切な仲間でいつづけることができます。
試合をする時には敵になる相手も試合を離れれば同じ野球を愛する仲間。そんな仲間を心から大切にしていける人間に育てていきたいというのもこのプロジェクトの一つの狙いなのです。
そんな観点からも相手校の選手とペアを組んでもらったり、監督の先生方にも相手校の選手も自校の選手同様に指導していただいたりしています。そして誰が素晴らしいプレーをしたら敵味方関係なく声をかけたり、拍手をするようにしているのです。
今後公式戦で対戦しても、試合は全力で戦っても、試合が終われば心から讃え合える人間を育てていきたい。自分だけでなく相手も大切に愛情を注いでいける人間になってもらいたいと思っています。
人との深い絆。野球の試合では勝ったり負けたり。。。チームのレギュラー争いにも勝ったり負けたり。。。そんな結果は時が過ぎてしまえば過去になるのです。でもその根底にあるのは野球が好きだという強い想い。同じ想いを強くするライバルも対戦相手は時が過ぎても大切な仲間でいつづけることができます。
試合をする時には敵になる相手も試合を離れれば同じ野球を愛する仲間。そんな仲間を心から大切にしていける人間に育てていきたいというのもこのプロジェクトの一つの狙いなのです。
そんな観点からも相手校の選手とペアを組んでもらったり、監督の先生方にも相手校の選手も自校の選手同様に指導していただいたりしています。そして誰が素晴らしいプレーをしたら敵味方関係なく声をかけたり、拍手をするようにしているのです。
今後公式戦で対戦しても、試合は全力で戦っても、試合が終われば心から讃え合える人間を育てていきたい。自分だけでなく相手も大切に愛情を注いでいける人間になってもらいたいと思っています。
2022年09月24日
愛情を大切に
誰かが苦しい思いをしていたらそっとさりげなく手を貸して。辛い思いをしていたら温かな笑顔を向けて。悲しい思いをしていたら、共に涙して。人間の心は自分だけのものじゃない。誰かの心を癒し助けることだってできる。誰かが元気になって笑顔に戻れば、自分の心も幸せの笑顔で包まれる。人間には二つの手がある。一つは自分のために、もう一つは自分以外の人のために。こういう詩がある。それは心にも言えるはずだ。自分自身の小さな勇気が相手を思いやる行動を生み出すことができる。自分自身の幸せも大切。でも自分だけの幸せよりも周りに幸せの輪が広がる方がもっと幸せに感じるだろう。周りに笑顔が広がればこんな喜びはないだろう。人間の心の中には愛情というかけがえのない大切なものがある。愛情を大切にして生きていけば人間は一番幸せに生きていけるように感じる。ほんの少しでいい、周りを見渡してみる余裕を持ってみよう。きっと心の中で声にならない叫び声で助けを求めている人がいるはずだ。一人の力は小さい、でも同時に一人の力はとてつもなく大きい。
2022年09月22日
やるからには
不平不満を口にしているとますます練習が嫌になっていく。嫌な顔になり気持ちも凹んでいく。どうせやらなきゃいけないなら、明るく楽しい雰囲気にしていきたい。空元気でも大きな元気なポジティブな言葉を口にして笑顔でやっていれば気持ちもそれに引っ張られて高まっていく。やらないならやらない。やらなきゃいけないなら最大限にやらなければそれこそ時間やエネルギーのロスになってしまうだろう。グダグダやっていたらそれこそ気持ちも身体もだらけていってしまい効率が悪くなってしまう。そのために何をするかはしっかりと考えて臨んでいきたいものだ。
2022年09月21日
役割は変わる
例えば高級和紙であっても、ゴミになり再利用されてトイレットペーパーになるかもしれない。これは人間でも一生何か一つの役割とは限らない。人の役割に優劣なんて本来はない訳だが、高級和紙の役割からトイレットペーパーの役割になったら多くの人は格落ちしたような感覚にとらわれたりする。それは他人の評価によるものかもしれないし、自分の価値観かもしれないし…今の自分に与えられた役割にベストを尽くしていけばたくさんの人に役立つことだってある。役割に不平不満をできる限り持たずに誰かの役に立てることに喜びを感じながら全うしていける人生を送りたいと思う。
2022年09月20日
目的地まで泳ぎ切る
人生には時々、流されないと生きていかれないような時もある。そういう時は流されてもいい。しかし、流れが緩やかになって自力で泳げるようになったら、とにかく自力で泳ぐこと。できるだけ早く自力で泳ぐことを始めて、自分が目指している場所に向かって泳ぐ。そうしなければ、いつまでも流されていってしまい、どんどん自分が本来目指していた場所から遠ざかっていってしまう。自力で泳いでいる間に本気で目指している場所を自分の意志で変更するのはいい。しかし、ただ流れるままに流されているだけなのに安易に手短な場所でいいや!と妥協してはいけない。しっかりと自分の意志で自分が行きたい場所まで泳ぎ切るのはしんどいことかもしれない。。。でも、そうできた時にこそ自分の人生を生きたと言い切れるのかもしれない。
2022年09月19日
ポイントとバランス
石工が固い石を割るときは、力ではなく石の目に力を加えて割る。石の目に力を加えるとどんな固い石でも簡単に割ることができる。ただし、バランスを崩して石が割れると大怪我に繋がる。大切なのは物事のポイントとバランスということになる。物事を進めていく上で常にバランスを考えながら適切なポイントと押さえていく感覚をしっかりと持てるかどうかが大切になる。物事を進めたり解決するために焦りすぎてポイントばかりを探しているとバランスを崩してしまいもともこもなくなってしまうことはある。反対にバランスばかりに目を奪われていると慎重になりすぎてポイントと押さえることができなくなる。この二つの要素を同時に素早く見つけて、同時に進めていくことはとても重要なことのような気がする。
2022年09月18日
一人旅
人生の一人旅。何か最近この言葉がよく心に浮かびます。その旅路の中でたくさんの方々と出会い、ふれあいを重ねてきました。そんな皆さんには心から感謝しています。大学を卒業して、この道を選択した遥か30年くらい前に自分の中に最初に浮かんだのが『ここからは人生の一人旅』という言葉でした。大学を卒業したばかりの社会が何たるものかすら分からない若者が、誰も知り合いすらいない東京で、訳の分からないことをいきなり始める。企業人という団体旅行の旅を自ら断って、一人旅を選んだものの……希望を抱える一方で、ここからは一人の力で人生の旅路を一人ぼっちで旅を続けていかなくてはならない……という漠然とした途方もない寂しさを感じたのを思い出します。元来みんなとワイワイしているのが好きな自分の中での決断と覚悟。何か社会から一人切り離されたような孤独感、途中でのたれ死んでしまうのではないかという恐怖感、初めて感じた生きるということのプレッシャー、自分で選んだことに対しての様々な苦悩……誰かに頼ることも、誰かに甘えることもできずに来た一人旅。いつしか自分の中で、もがきながら自分一人で考え抜き一人で解決する自己完結の自分が出来上がりました。それは強さでありながらも、同時に寂しさでもあるのかもしれません……そんな寂しさも一人旅の中で出会う様々な方々のお陰で多くの楽しく濃い時間を過ごさせていただいて心より感謝の気持ちで一杯です。その時々で一期一会の出会いもたくさんありました。そんな中で出会うことのできた皆さんにありがとうございましたとお伝えできればと思います。
2022年09月16日
希望の光
どんなに絶望的な状況にあっても希望の光を失ってはいけない。希望の光は外にあるのではなく、自分自身の内にある。もう全てダメだ…と考えた瞬間に光は消えてしまう。何とかしていける!と考えて諦めない限りは僅かな光であっても輝いて見える。光を眺めているのではなく、光に一歩ずつでも意志して歩み寄っていこうとする姿勢を大切にすること。希望の光を外に求めているうちは本当の希望の光は見えないだろう。自分が自分の心を真っ暗闇にしてしまったら先に何の希望も見えなくなってしまう。僅かな光でもいい、絶対に自らが吹き消すような真似はやめよう。僅かな光が灯っているから安心して何の行動も起こさないでいると希望の光はしばらくしたら消えてしまう。見えているうちにどんどん近づいていくことが大切になる。絶望の状態を打ち破っていけるのは自分の心と行動力に他ならない。諦めないというのは自分が思う以上に大事なこと。
2022年09月15日
人間て…
いつも、やる気に充ち溢れて練習できる訳はない。いつも万全で全力を出し切って練習できる訳でもない。それが人間。でも…どんな状態でも、今の自分にできることはしっかりやっていこう。完璧にはできなくても、やることは欠かさない。それができるのも人間。自分を許し、同時に自分を叱咤激励する。いつもいつも同じならもはや人間ではなくロボットだろう。その日その日によって違うからこそ、それが人間の面白味でもあるだろう。いかなる時でも自分が自分自身をコントロールしていけるように精進するからこそ、それが日々を生きる醍醐味でもあるような気がする。
2022年09月14日
人間て…
いつも、やる気に充ち溢れて練習できる訳はない。いつも万全で全力を出し切って練習できる訳でもない。それが人間。でも…どんな状態でも、今の自分にできることはしっかりやっていこう。完璧にはできなくても、やることは欠かさない。それができるのも人間。自分を許し、同時に自分を叱咤激励する。いつもいつも同じならもはや人間ではなくロボットだろう。その日その日によって違うからこそ、それが人間の面白味でもあるだろう。いかなる時でも自分が自分自身をコントロールしていけるように精進するからこそ、それが日々を生きる醍醐味でもあるような気がする。
一人じゃなければ
人としても心から尊敬できる方から大切な言葉を気づかされた。一人じゃないという言葉。人は時に孤独になる。人は時に孤独に人生の中で頑張り続けなくてはならない。人は一人としか思えない時に、自分自身を本当には大切にできなくなるかもしれない。一人で全てが完結する世界の中に生きていると何を成しても、何を手にしても虚しいように感じる。そうなると、自分の心の叫び、自分の心の涙、そうしたものを心の奥に封じ込めて、それを無いものにしようとしてしまうかもしれない。それは自分を大切にできていることなのだろうか。。。もし、自分が一人じゃなければ、自分のことを本気で解ろうとしてくれる人がいれば、時に心の叫びを口にしてもいいのだろうし、心の涙を瞳から流してもいいのだろうと思う。どんな自分でも受け止めて包み込んでもらえるという心の底からの安心感。一人ではないというだけで誰かと喜びも悲しみも分かち合える。それは生きている実感を強く持てることなのかもしれない。その誰かだけは普遍的に変わらずに自分を見続けてくれるという安心感。そうすると人はもっとありのままの自分を認めていけるし、安心して物事に向かっていけるように感じる。
2022年09月13日
子ども達の未来に
子ども達が未来を生きていく中で、彼らの心の中に一つでも二つでも生かされていく何かを残していけるといいですよね。そうした心の中に撒いた種が彼らの積み重ねていく未来の経験の中で大きく育っていってくれると心から嬉しくなります。子ども達との信頼関係は一朝一夕ではできるものではありません。だからこそ、日々子ども達と真剣に向き合うことなのでしょうね。大人も子どもも共に進化していけるのが教育現場なのだと感じます。血の通った関係。それがとても大切だと感じます。上っ面な表面的にだけ上手くいっているような関係からは真の教育はできないはずです。どんな時でも、どんな子でも最後の最後まで愛情をもって包んであげることで、子ども達の心にも安定感が生まれて伸びていけるのではないかと思います。指導とは子どもの進むべき方向を指し示し、その場所へと導いてあげることなのかもしれませんね。そのためには指導者の側にも明確な意図をもって指導していくことが求められるのでしょうね。指導者側の意図のない放置では指導とは言えないのだと思います。子ども達の目を輝かせるためにもこれからも全力を傾けていきたいと思います。
2022年09月12日
どんな先にも
雨降って地固まるということはある。雨降って虹が出ることもある。でも、それは同時に晴れて太陽に照されるからでもある。太陽に照されなければ、地は水たまりのままだし、虹も出てこない。どんな悲しい気持ちになったとしても、どこかで心の太陽を持っていられれば、最後は幸せな気持ちで締めくくれるかもしれない。悲しさを人は持っているからこそ、幸せも感じられるのかもしれないとも思う。悲しさというのは乗り越えるものではないのかもしれない。悲しみの雨が降りやむのを静かに待つ。一瞬の雨もあれば、長く続く雨もある。パラパラ雨も土砂降りの雨もある。でも止まない雨はない。その先は心の太陽を照らしていけばいい。地固まり大切なことがより大切に思えたり、空に広がる虹のように心の中に美しさを感じられたりするだろう。それを信じて静かに雨を見つめる時間というのも人生の中ではとても大切な時間なのだろう。
2022年09月11日
団結力
チームはほんのちょっとのことで乱れる。でもちょっとのことでまとまってもいける。そんなこんなを繰り返し、少しずつ団結力がついていく。仲良しごっこの集団より、ぶつかり合ってその中でお互いを解り合った集団の方が最終的には強固な団結力を発揮することが多い。雨降って地を固めていける強さ。言いたいことも言わず、表面的に争いをさけて当たり障りなく付き合っていても相互に本当の意味では理解し合ってはいけない。仲良い振りをしながらも逆にストレスを抱えていく。当然チームの中で主張をし合っていけば、相互にぶつかり合いは生まれる。しかしお互いが腹の底から話し合えば、解り合える部分も出てくる。そんなことを繰り返していく中でだんだんとまとまりが生まれ、それが団結力へと繋がっていく。そんな過程を踏んで生まれた団結力はそうそう簡単には壊れたりはしないだろう。団結力は個々がかなりのエネルギーを注いでいかなければ作られるものではない。
2022年09月10日
いい指導者??
選手達や子ども達がその時に感じる『いい』指導者とは自分にとって都合のいい指導者であることが多い。何でも言うことを聞いてくれる甘い指導者。目先では好かれる指導者になるのかもしれない。目先ではそれでもいいのかもしれないが、それは本当に選手達や子ども達の未来を真剣に考えていることなのだろうか。。。未来を真剣に考えたら時に、伝えなければならないことを嫌われようが注意したり叱ったりすることも必要なのではないかと思う。教育とは人の未来を作り上げていく大切なこと。指導者が、政治家のように八方美人になって票集めをしていてはいけないような気がする。選手達や子ども達は言われたその時には分からないかもしれない。時には反発したり、面倒くさがったり、嫌ったりするかもしれない。しかし。。。教育とは未来を作るもの。その瞬間は理解できなかったとしても、将来的にその意味を分かってくれればいいのではないだろうか。
2022年09月09日
尊重と放任
選手を尊重するということは現場の指導者としてはなかなか難しいことと思われるのではないでしょうか。選手の自主性に任せてしまって失敗された経験も多いのではないかと思います。
尊重と似て非なるのが放任。尊重とはあくまでも相手が明確な意見を持てていることを理解した上で、その意見を実行させてあげることだ。反対に放任は相手の意見もさほど聞くこともなく全て丸投げで任せてしまうことです。
指導者の中にはこの区別がしっかりとついていない方もいらっしゃるのかもしれません。そうなると自分では選手を尊重しているつもりでも、結果としては放任になっている可能性もあるということです。
尊重ということは、選手と指導者との考え方に違いがあり、そのどちらの考え方を実行に移していこうかということがあるから出てくるのです。違いがなければ尊重ではなく、同意見だよねとなる訳です。
尊重をするための第一歩としては、まずはお互いの考え方の〃違いの部分〃をしっかりと認識することから始まります。ここが曖昧だと放任に向かっていきやすくなります。
次にその違いを生み出している考え方の要因を炙り出していくのです。例えば打率を上げたいという目的のために選手の側はフルスイングしたいという意見だったとします。それに対して指導者の側はミートバッティングをさせようという意見だったとします。
違いの部分は明確になりました。選手の側は「空振りしても思いきり振らないと迷いが生まれてしまう。」という考え方だとします。指導者の側は「空振りの数を減らすためにはコンパクトに振った方がボールをとらえやすい。」という考え方だとします。
こうなると意見の違いを生み出している要因は空振りに対する認識の違いによるものなんだと両者が理解できることでしょう。さらにここで話を深めます。選手は空振りしてもいいと考えるのは何故か?指導者の自分は空振りが嫌だと考えるのは何故か?と考えてみることです。
選手は「例え空振りしても思いきり振れることで自信を持って打席に立てる。」という考え方だとします。指導者の自分は「自分は空振りすることで打席で負けたような気がする。」という考え方だとします。ここまで話すと、これは個人の空振りに対してのメンタリティーの問題だと気づけることでしょう。
そこで初めて、実際に打席に立つのは指導者の自分ではなく、選手なのだから選手のメンタリティーが良い方向に向かう方を優先させて尊重してあげようという考え方になるということです。
こうした話し合いのない選手任せが放任なのです。選手がやりたいようにやらせてあげるというスタンスになってしまいます。尊重とは、あくまでも話し合って両者でしっかりと合意した上で選手を優先させてあげることなのです。
尊重と似て非なるのが放任。尊重とはあくまでも相手が明確な意見を持てていることを理解した上で、その意見を実行させてあげることだ。反対に放任は相手の意見もさほど聞くこともなく全て丸投げで任せてしまうことです。
指導者の中にはこの区別がしっかりとついていない方もいらっしゃるのかもしれません。そうなると自分では選手を尊重しているつもりでも、結果としては放任になっている可能性もあるということです。
尊重ということは、選手と指導者との考え方に違いがあり、そのどちらの考え方を実行に移していこうかということがあるから出てくるのです。違いがなければ尊重ではなく、同意見だよねとなる訳です。
尊重をするための第一歩としては、まずはお互いの考え方の〃違いの部分〃をしっかりと認識することから始まります。ここが曖昧だと放任に向かっていきやすくなります。
次にその違いを生み出している考え方の要因を炙り出していくのです。例えば打率を上げたいという目的のために選手の側はフルスイングしたいという意見だったとします。それに対して指導者の側はミートバッティングをさせようという意見だったとします。
違いの部分は明確になりました。選手の側は「空振りしても思いきり振らないと迷いが生まれてしまう。」という考え方だとします。指導者の側は「空振りの数を減らすためにはコンパクトに振った方がボールをとらえやすい。」という考え方だとします。
こうなると意見の違いを生み出している要因は空振りに対する認識の違いによるものなんだと両者が理解できることでしょう。さらにここで話を深めます。選手は空振りしてもいいと考えるのは何故か?指導者の自分は空振りが嫌だと考えるのは何故か?と考えてみることです。
選手は「例え空振りしても思いきり振れることで自信を持って打席に立てる。」という考え方だとします。指導者の自分は「自分は空振りすることで打席で負けたような気がする。」という考え方だとします。ここまで話すと、これは個人の空振りに対してのメンタリティーの問題だと気づけることでしょう。
そこで初めて、実際に打席に立つのは指導者の自分ではなく、選手なのだから選手のメンタリティーが良い方向に向かう方を優先させて尊重してあげようという考え方になるということです。
こうした話し合いのない選手任せが放任なのです。選手がやりたいようにやらせてあげるというスタンスになってしまいます。尊重とは、あくまでも話し合って両者でしっかりと合意した上で選手を優先させてあげることなのです。
2022年09月08日
こだわりを持つ
頑固さは粘り強さに繋がるが、時として臨機応変に変化に対応することができなくなる場合もある。頑固さはこだわりを強くしてしまう。固執し過ぎてしまうとそれが駄目になった時に方向転換して引き返すのも難しくなってしまう。頑固さではなく、こだわりを持てるといいのではないかと感じる。ブレることのない柔軟性、これこそが真のこだわりではないかと思うのだ。軸がなければブレまくる。頑なになりすぎると周りが見えなくなる。どちらも危険なものだ。どんな物事に向き合う時にもこのこだわりを持てれば間違った方向に向かうことはないのではないかと思う。
2022年09月07日
自分力
成功も失敗も、今の自分が身一つで生み出すもの。だから楽しくもあり、苦しくもある。でも、それ以上に自由なもの。全ては自分の身一つで受け止めていけばいい。誰にも干渉を受けない変わりに、誰にも頼ることはできない。だから自由でありながら怖さもある。道がなければ、棘の道を自分の身を傷つけながらも切り拓き、突き進んでいかなくてはいけない。進みたい方向に自由に進めるが、激しい痛みに耐え抜いていかなくてはならない。自分にのしかかる大きな決断と責任を誰かに背負わせることはできない。だからこそ背負うべき重さを背負い切る覚悟が求められる。でも…だからこそそれはこの上もなく自分の中を充実感を充たしてくれるものでもある。
2022年09月06日
内容は同じでも
卵5個を生で食べようとすると食べることが難しいだろう。しかし、5個を使って玉子焼きにするとペロリと食べられてしまう。内容は同じ卵5個なのだが、調理法によって食べられたり食べられなかったりする。何でもそうなのだろうが、ある物事をやるにしても、そのやり方をどうすれば楽しくなるかを考えてみると違ってくるのかもしれない。何かを伝えるにもある伝え方では伝わらないようなことでも、伝え方を工夫すれば伝わるかもしれない。内容は同じでも調理法を変えていく工夫が大切になるのではないかと思う。
2022年09月05日
年中夢求プロジェクト
株式会社ウーブルとの年中夢求プロジェクトの第4回目を開催しました。今回は元埼玉西武ライオンズの投手の三井浩二さんにお願いして、80名の中学生の野球部員(府中中学、海田西中学、牛田中学、早稲田中学)を対象に行いました。
1回目は元広島カープの長谷川昌之さん、2回目は元千葉ロッテマリーンズの植松優友さん、3回目は元広島カープの森跳二さんでした。
好きなことをもっともっと好きになるためには、何よりも上達すること。逆に好きなことでもどれだけやっても上達しなければ嫌いになっていくかもしれない。。。
才覚と才能の違いを分かりやすく言うと、才覚とは素早く頭を働かせて物事に対応する能力、才能とは生まれつきの優れた能力という違い。
上達するのに才能がないんだと簡単に自分自身を諦めるのではなく、頭を使っていかに自分の才を覚醒させていくのかを考えていける子ども達を育てていきたいと思う。
「あの人は自分とは違う才能の持ち主だ」「別次元の人だ」と簡単に決めつけるのではなく、『あの人の上達の秘訣はどこにあるのだろう?』『あの人はどのようにしているのだろう?』と考え抜ける子ども達を育てていきたい。
それは夢に向かうための階段になるのではないかと思う。一つ一つは小さな段差でも積み重なれば一歩一歩近づいていく。結果としての夢が叶うか叶わないかは誰にも分からないが、そうして積み上げた過程は必ず一人の人間としての生きる力にはなっていくのではないかと感じる。
1回目は元広島カープの長谷川昌之さん、2回目は元千葉ロッテマリーンズの植松優友さん、3回目は元広島カープの森跳二さんでした。
好きなことをもっともっと好きになるためには、何よりも上達すること。逆に好きなことでもどれだけやっても上達しなければ嫌いになっていくかもしれない。。。
才覚と才能の違いを分かりやすく言うと、才覚とは素早く頭を働かせて物事に対応する能力、才能とは生まれつきの優れた能力という違い。
上達するのに才能がないんだと簡単に自分自身を諦めるのではなく、頭を使っていかに自分の才を覚醒させていくのかを考えていける子ども達を育てていきたいと思う。
「あの人は自分とは違う才能の持ち主だ」「別次元の人だ」と簡単に決めつけるのではなく、『あの人の上達の秘訣はどこにあるのだろう?』『あの人はどのようにしているのだろう?』と考え抜ける子ども達を育てていきたい。
それは夢に向かうための階段になるのではないかと思う。一つ一つは小さな段差でも積み重なれば一歩一歩近づいていく。結果としての夢が叶うか叶わないかは誰にも分からないが、そうして積み上げた過程は必ず一人の人間としての生きる力にはなっていくのではないかと感じる。
2022年09月03日
見る
もし、自分がしっかりと人なり物事なりを見ているつもりなら、その瞬間からその10倍の時間をかけて見てみよう。これくらい見れば充分だろうというという自分の基準を自らが打ち破っていくようにする。見極めるというのは、決して簡単なことではない。人はついつい自分では分かったつもりになる。そしてそれが自分の基準になっていく。自分で基準に達したなと感じた時に、今一度立ち止まりさらにそこからじっくりと見ていくようにしてみるのもいいような気がする。人や物事に向き合うというのはそういうことなのかもしれない。
2022年09月01日
言葉の捉え方のズレが
例えば「頑張る」という言葉によって、皆さんはどのようなイメージを持たれるだろうか。恐らく人の数だけ、そのイメージは様々なのではないだろうか。人の数だけの頑張るがあるということ。指導者が選手に「頑張れ!」と言ったとします。選手は「頑張ります!」と答えたとしましょう。この瞬間、一見するとお互いに気持ちが通い合っているように感じるだろう。しかし、指導者がイメージしている頑張ると選手のイメージしている頑張るのイメージが違っていたとすると、指導者は「頑張ると口にしたのに何故頑張らないんだ!」というイライラ感が生まれます。選手は「自分は頑張っているのに何故認めてもらえないんだ!」と不安になります。このように言葉の捉え方のズレが両者の気持ちのズレを大きくしていくことがあるので気をつけていきたいものです。