今日は亀戸で200名の企業の講演の後に駒形に移動して、大相撲の白鵬関が親方をされている宮城野部屋に。力士の宝香鵬さんと最高に美味の海鮮丼を食べながらメンタルの話。
試練を与えられた時にそれを苦しみと捉えず、今まで練習してきた事を試すんだと考える。重いものではなく、その場だけで乗り越えられるものでもなく、日々どれだけのことを積み重ねてきたのかが問われるもの。
試練は一朝一夕にその場しのぎでは太刀打ちできない。しかし必要以上に恐れるものでもない。
試練に直面して苦しくて辛くて涙を流すくらいなら我慢してその何倍も汗を流して練習しよう。
試練に対して愚痴をこぼすくらいなら黙して背中で行動して示していこう。
試練から逃げようかと迷うなら潔く決断してどうやればできるのかを頭に汗して徹底的に悩んでいこう。
試練が与える怖さに震えるなら怖さに打ち克つくらいの練習を積み上げていこう。
全ては自分との戦い。日々の積み重ね。試練に耐えうる力を日々作り上げていかなくてはいけない。これはスポーツであろうが他のことであろうが変わらない。
試練は一日にして越えられず、しかし怖いものではあらず。積み上げてきたものの真価を試される時であるだけのこと。
2022年10月31日
2022年10月30日
ダメを断ち切る
今がダメだから未来もダメとは言えない。今がもしダメなら過去にその原因は必ずある。その原因を改善すれば、明らかに未来は変わっていくだろう。問題は今がダメだから、どうせこの先の未来もダメだろう…と今を投げ出してしまうこと。そうなるとダメダメのスパイラルにはまっていってしまう。ダメはどこかの段階で踏ん切りをつけて断ち切っていきたいものだ。そのためには過去のダメな原因を徹底的に洗い出さなくてはいけない。そのためには過去の自分と良い意味で決別する覚悟が必要になるだろう。未来に繋がる今を生きるために。
2022年10月29日
追い込み&解放
自分をどんどん追い込む術と同様に、どんどん解放していく術も大切。練習では自分を追い込み、試合では解放していく。それができなければ、練習では妥協の連続になったり、試合で自分が自分自身を追い詰め過ぎて自滅してしまったりしてしまう。練習で苦しみ試合で伸びやかに。日本人は追い込むことばかりを美徳のようにして文化を育んできた。修行的な文化。だから、大切な時に自分自身を解放しようとすることに悪のような意識が働いてしまう。試合は苦しんでこそ意味があるみたいな…練習は準備。試合は本番。お祭りだって、お祭りの準備期間は忙しいし、楽しいなんて言っている余裕はない。落ち度がないように詳細に渡って準備を欠かさない。だけど本番は一気に爆発させてお祭りを誰よりも楽しむ。大変な準備があったからこそ、本気で心底から楽しむ。お祭りの本番が苦しくて辛いものなら誰も準備だってしたくなくなるだろう。追い込む時は徹底的に追い込み、解放する時はバカになれるくらい溌剌と解き放つ。この両面が大切なように感じる。
2022年10月27日
自分に負けない生き方を
最初から自分が不可能とか難しいと考えたことを、自分はそのことに興味がないと逃げ腰になるようなことのないように。少しやってみて難しいと感じたら自分には向いていないと自分を誤魔化したりしないように。言い訳ばかり並べて逃げてばかりいても、それはその後の人生に良い影響は与えないだろう。そこに真正面から向き合い、そこに向かって一生懸命に取り組む。その結果としてそこに届かなければ強い気持ちでその結果を受け止める。まだ実力の足りない自分を認めてさらなる精進を積み重ねていく。悔しさを正直に認める。無力さを素直に認める。そこを自分の弱さから目を反らして自分自身を誤魔化した先に何があるのだろうか。認めた所からが新たなスタート地点になると思う。人生なんて壁が次々に立ちはだかり、次々に打ち砕かれていく連続。その度に逃げ回っていても何にもならない。悔しいし自分が嫌になることもあるだろう。そんな自分のままでは嫌だから、苦しさや辛さがあってもそれを何とか踏ん張って乗り越えていこうとするのではないだろうか。残した結果以上に大切なのは、自分が自分自身に負けずに戦い抜いていくこと。まさにその過程こそが自分を信じていくことに繋がる。自分は真の自分自身の姿は誤魔化すことなんてできないのだから。結果はいくら負けてもいい。そこから立ち上り進んでいけばいいのだから。しかし過程で自分に負けてばかりだとその先に何があるのだろうか。
2022年10月23日
利き手と反対の手を使ってみる
右脳と左脳のことはみなさんもよくご理解いただいていると思いますが、右脳はイメージ力を、左脳は論理的思考力を担っています。そして右脳は左半身を左脳は右半身を司っています。要は頭と身体はクロスしているのです。脳と身体は相互に影響を与えています。脳から身体はいうまでもないことですが、身体からの刺激は脳にも影響を与えるのです。特に身体の末端部分の手足からの刺激は大きなものがあります。ウォーキングが脳の活性化に役立つとか、脳の損傷や萎縮に手足の運動が効果的というような話を皆さんも耳にされたことはあると思います。人間の日常生活を見てみると、利き手、利き足というものがあり身体の使い方に偏りが見られます。やはり、脳のイメージ力も思考力もどちらも大切です。このどちらも上手に活用していくことの重要性はその他の項目でもたくさん出てきますので、ここでは割愛します。どちらの力もバランスよく鍛えていくためにはどちらの脳にも身体からの刺激をバランスよく入れていきたいのです。そこで日常生活のちょっとした場面で、普段自分が使っている利き手や利き足とは反対側の手や足を意識して使ってみるということです。モノを書く際にペンを、食事をする際に箸を、モノを取る時に伸ばす腕を…そうすることで身体からの刺激で脳が活性化してくれます。足に関しては、目を閉じての片足立ちを交互に毎日3回ずつでいいので行ってみましょう。ちなみにスポーツ界ではサウスポーの選手の動きは美しいと言われます。特にスポーツではイメージ力が大切になるので、左利きの選手の右脳への刺激もそれに関連していると考えられています。
2022年10月22日
過去の再生
時間というのは不思議なものだ。あれだけ苦しかったり辛かったりした過去も思い出に変わり、いつの日にか笑って話せる時が来る。失敗や挫折も生かされて今を生きる知恵に変わる。時間は過去を熟成してくれる。どのような熟成をするかは自分の生き方次第なのかもしれない。日々を後ろ向きにネガティブに生きていくのか、前向きにポジティブに生きていくのか。過去を否定して生きていくのか、過去を受け止めた上で過去を教材にして生きていくのか。過去の涙を未来の笑顔に繋げるために今を全力で生きていきたいものだ。未来を作ることは過去の再生でもあるのかもしれない。
2022年10月21日
無言の応援
頑張れ!頑張れ!と励ましや応援の意味を込めて人は口にするのだが…時にその言葉が積み重なると、本人には無意識のうちに大きな重石になることがある。誰よりも本人は頑張ろうとしている。頑張ります!と答えながら、その言葉がどんどん自分を追い詰めているような苦しみを感じることもある。じわりじわり息苦しさを感じる。応援してもらえることに感謝をしながらも、これ以上に自分を追い詰めないでくれ!と叫び出したくなることもあるだろう。自分は自分にできる限り精一杯にやるからそっとしておいて欲しいと感じることもあるだろう。頑張れ!頑張れ!と伝えた側も無意識のうちに相手が頑張ります!と返答することを想定しているだろう。それを分かるからこそ本人も頑張ります!としか答えようのない循環。辛くても苦しくても笑顔で無理してでも頑張ります!としか答えようのないさらなる辛さ。時には無言の応援というのもありなのかもしれない。笑顔を向けるだけの応援もありかもしれない。言葉が伝え手の意思とは違う方向にいかないためにも。
2022年10月20日
ベストって?
目の前に表れる結果と、ベストを尽くしていることは必ずしもイコールではない。例えば、ランニングをさせているとする。速く走ることができている人はベストを尽くしていて、遅い人は逆にベストを尽くしていないという評価を受けがちだ。しかし、心拍数を調べてみたら、もしかすると遅い人の方が本人なりのベストを尽くしているということもあると分かるかもしれない。速い人、遅い人と分けてベストを尽くしている、いないと簡単に判断を下すのは危険だ。速い人の中にもベストを尽くしている人もいれば、手抜きをしている人もいる。遅い人の中にもその両方がいるということだ。ベストを尽くしているのに遅い人に、悪い評価を与えてしまうと、本人は嫌になり完全にやる気を失ってしまうかもしれない。その人その人の精一杯のベストがあるということ。
2022年10月19日
練習の成果
練習の成果を計るのは、苦しかったかどうかではない。与えられたメニューをこなせたかどうかではない。叱られたかどうかでもない。当たり前だが、上達したのかどうか。この当たり前を見失うと、やって満足の練習になる危険がある。自分のためではなく、他人を満足させる練習になる。練習は他ならない自分のためにやるもの。「苦しい中、与えたメニューをよくこなせたぞ!」という誉め言葉をもらうためにやるものではない。逆に他人からは評価されなくても、自分が「今日は自分の中で何かを掴んだ!」と納得できる練習をしていきたいものだ。
2022年10月18日
ポイントとバランス
石工が固い石を割るときは、力ではなく石の目に力を加えて割る。石の目に力を加えるとどんな固い石でも簡単に割ることができる。ただし、バランスを崩して石が割れると大怪我に繋がる。大切なのは物事のポイントとバランスということになる。物事を進めていく上で常にバランスを考えながら適切なポイントと押さえていく感覚をしっかりと持てるかどうかが大切になる。物事を進めたり解決するために焦りすぎてポイントばかりを探しているとバランスを崩してしまいもともこもなくなってしまうことはある。反対にバランスばかりに目を奪われていると慎重になりすぎてポイントと押さえることができなくなる。この二つの要素を同時に素早く見つけて、同時に進めていくことはとても重要なことのような気がする。
2022年10月17日
いい指導者とは
選手達や子ども達がその時に感じる『いい』指導者とは自分にとって都合のいい指導者であることが多い。何でも言うことを聞いてくれる甘い指導者。目先では好かれる指導者になるのかもしれない。目先ではそれでもいいのかもしれないが、それは本当に選手達や子ども達の未来を真剣に考えていることなのだろうか。。。未来を真剣に考えたら時に、伝えなければならないことを嫌われようが注意したり叱ったりすることも必要なのではないかと思う。教育とは人の未来を作り上げていく大切なこと。指導者が、政治家のように八方美人になって票集めをしていてはいけないような気がする。選手達や子ども達は言われたその時には分からないかもしれない。時には反発したり、面倒くさがったり、嫌ったりするかもしれない。しかし。。。教育とは未来を作るもの。その瞬間は理解できなかったとしても、将来的にその意味を分かってくれればいいのではないだろうか。
2022年10月16日
折り合いをつける
事実は決して消すことはできないのであれば、折り合いをいかにつけていくのかが重要になっていく。その事実を乗り越えようというのではなく、その事実と共に生きていく。苦難が立ちはだかった時に逃げずに立ち向かえと言われることもあるだろう。しかし時には立ち向かうことができない現実というものも世の中にはあったりするのだ。そのような時はゆっくりと時間をかけて折り合いをつけていくのも良いのではないかと思う。何もかも全て真正面から向き合って乗り越えようとしなくても大丈夫。あくまでも逃げるのではなく折り合いをつけるということ。そのためには無数の自問自答が必要となってくるのだろうが。
2022年10月15日
流した汗
流した汗が必ずしも今すぐに報われるとは言い切れないが…ただ、流すことができた汗の量の分だけは自分はやれることを知れる。やれる自分自身を自分が知ることは、ある意味で目先の結果よりも将来的には大きなことかもしれない。人はいずれにせよ、やれない限りは何も始まらないのだから。先々のことに対して無思考であることは危険であるが、かといって臆病であったらそれこそ何一つ前には進んでいけないだろう。計算ばかりしても、計算通りにはいかないのが人生。分からないのが人生。ビクビクして生きていても何も楽しくなんてない。前を向いてたくさん全力の汗を流して生きていきたいと感じる。例えすぐには結果として表れなくても、汗を流せた自分の自力だけは本物なんだから。自信を忘れずに生きていこう!!
2022年10月13日
小さな原因
スランプや上達を妨げている要因は、意外にほんの小さなこと。小さいからこそなかなか気づけない。ここが厄介な点。小さな原因は身体の動きの最終段階では大きなプレーの差を生み出す。大味な原因分析では見えてこない。緻密な原因分析が求められる。自分自身に対する細やかな観察眼が重要になる。出てきた結果としての大きな誤差だけを見ていては原因はなかなか見出だしてはいけないだろう。過程を細かく分析して一つ一つの小さな動きやその連動性を見ていかなければならない。一見すると同じように見える動きでも、ほんの少し身体の使い方が変わるとまるで違った動きになってしまう。
2022年10月10日
生きた教材
挫折したら、そこから再びスタートを切ればいい。そこが終わりではないのだから。挫折の分析をして、二度と同じ過ちを繰り返さないように決意する。足りないものを身につけていく決意をする。挫折を挫折という傷で終わらせないように超回復をさせていく。何の改善も課題もない前進は次なる挫折の種。
そう考えると中途半端な喉もと過ぎれば熱さ忘れるみたいな挫折よりは、大きくて強い痛みを感じる挫折の方が人生を切り拓いていける機会になるような気がする。みんな挫折を恐れて中途半端に逃げたりしてしまう。ダメなら徹底的にダメな方が自省も学びも気づきも多くなる。それに乗り越えた時の強さも…挫折は自分自身を真剣に見つめ直せる最大の生きた教材なのだから。
そう考えると中途半端な喉もと過ぎれば熱さ忘れるみたいな挫折よりは、大きくて強い痛みを感じる挫折の方が人生を切り拓いていける機会になるような気がする。みんな挫折を恐れて中途半端に逃げたりしてしまう。ダメなら徹底的にダメな方が自省も学びも気づきも多くなる。それに乗り越えた時の強さも…挫折は自分自身を真剣に見つめ直せる最大の生きた教材なのだから。
2022年10月09日
昔の懐かしい写真を見てみる
子どもの頃というのは、思考力よりも感受性の方が強い傾向にあります。反対に大人になって論理的な思考力が高くなってくると、感受性の方が弱まってしまいます。同じ映画を見ても子どもの頃には純粋に涙していたものが、大人になると素直に感情に響かなかったりする人も多いのではないでしょうか。プロ野球選手に時々、子どもの頃の野球小僧だった時の写真を見せてもらいます。その写真を見ながら選手は、野球を始めた当初の純粋に大好きだった感情を思い出します。そして、自分の原点と今自分が野球をあの頃のように捉えられていないことに気づけるのです。大人になるにつれて身につけていく論理的な思考力は仕事をする上ではとても大切なものです。しかし、仕事も人対人です。そこでは人の心の動きをしっかりと感じ取ることができる感受性も同じくらい大切なものになります。昔の懐かしい写真を見てみるというのは、写真を見ることで当時の感受性の強かった子ども時代を再体験することでもあります。写真を見ながら、当時のことを思い出してその頃に感じたことなどを思い出し、味わうことで自分の感受性に刺激が入り、感受性も高まってくるのです。思考と感受性とのバランスを心がけることがとても大切です。
2022年10月08日
想いを重ねて
隔月で開催しています『高畑メンタル塾』もご参加いただいている皆さんのお陰で第8回目になりました。今回も定員の30名の皆さんと楽しく有意義な学びの時間を過ごせました。参加者の皆さんは温かな方ばかりで2ヶ月振りにお会いできるのがとても楽しみです。
コラボしている元フットサルの日本代表の村上哲哉さんの運営するスポーツジムの『カラダCAMP』ではサッカーやフットサルやサッカーをしている子ども達対象、そして保護者対象のメンタル講習会を2回に分けてさせていただきました。
想いの強さは、どんな絶望の淵にあっても、そこに希望の光を与えてくれる。想いの強さは、どんなに困難な状況にあっても、踏ん張り抜く底力を与えてくれる。想いの強さは、孤独な戦いの中でも想いを共有できる大切な仲間を与えてくれる。
想いは時に打ち砕かれそうになることもあるだろう。それを建て直してくれるのも、また想い。想いは想いで乗り越えていく。決して諦めることなく、投げ出すことなく、地道に進んでいく。それを支えるものこそ想いの強さと言えるだろう。
何が何でも何とかしてやろうという想いの強さ。想いとは中途半端なものとは違う。心が根底から求めているもの。それ以外は考えられないというくらいの覚悟を伴った想い。
決して揺らぐことのない一途な想い。それがあれば大抵の物事は成し遂げていけるはずだ。想いはとてつもなく大きな力だと実感させられる。
コラボしている元フットサルの日本代表の村上哲哉さんの運営するスポーツジムの『カラダCAMP』ではサッカーやフットサルやサッカーをしている子ども達対象、そして保護者対象のメンタル講習会を2回に分けてさせていただきました。
想いの強さは、どんな絶望の淵にあっても、そこに希望の光を与えてくれる。想いの強さは、どんなに困難な状況にあっても、踏ん張り抜く底力を与えてくれる。想いの強さは、孤独な戦いの中でも想いを共有できる大切な仲間を与えてくれる。
想いは時に打ち砕かれそうになることもあるだろう。それを建て直してくれるのも、また想い。想いは想いで乗り越えていく。決して諦めることなく、投げ出すことなく、地道に進んでいく。それを支えるものこそ想いの強さと言えるだろう。
何が何でも何とかしてやろうという想いの強さ。想いとは中途半端なものとは違う。心が根底から求めているもの。それ以外は考えられないというくらいの覚悟を伴った想い。
決して揺らぐことのない一途な想い。それがあれば大抵の物事は成し遂げていけるはずだ。想いはとてつもなく大きな力だと実感させられる。
2022年10月07日
環境を越えて
地方の人って、その与えられた環境下で、人は大きな不満も口にせず、上手にその環境に適応して楽しめてる感じがする。それって素晴らしいこと。厳しい環境にあっても工夫してその厳しさを乗り越えていく。環境が恵まれている都会は、少し環境に不具合が生じてしまうと不平不満が出てきやすい感じがする。恵まれていることに慣れてしまい当たり前になり過ぎているのかもしれない…スポーツも同じ。競技環境に恵まれているチームもあれば、恵まれていないチームもある。恵まれていなくても、そこで不平不満を口にするのではなく、その環境を受け入れて創意工夫をしていけば、競技を楽しんだり、上達していくことも可能だと感じる。環境は変わらなくても、自分自身が変われば環境をより良くしていけることだろう。
2022年10月05日
もがき、あがく、
もがき苦しむ…それ以上に苦しい時間はないだろう。懸命に浮上しようともがく。何とかしようと懸命にあがく。ギリギリの気持ちの中の戦い。もがき、あがくことを諦めた瞬間に一気に沈んでしまう。でも、あがく中で掴めたものは、その後に突き進む大きな原動力になる。踏ん張って踏ん張り抜く。必死にあがき、もがくがどんどんと裏目に出る。やればやるだけ嫌になる。もう!どうでもいいや!と諦めて投げ出したくなるギリギリの所でグッと堪えながら、さらにあがいていく。藁をも掴む思いで。簡単にはいかない。やればやるだけ難しくなるような気もしていく。それでも、あがきもがくことを止めなかった人だけが掴み取れるものが必ずある。苦しみ抜いた者にしか辿り着き見ることができない世界が必ずある。それは諦めずにやり抜いた者にしか与えられない最高の勲章。耐えて耐えてとことんまで耐え抜いてみることも時にはとても大切なこと。中途半端ではなく、徹底的に本気であがきもがけば、必ず本当の答えが見つかるものだ。
2022年10月04日
辛さを越えて
怪我は辛い…辛いけれど辛い中で何を学ぶか。辛い中で何を生かせるか。辛さを乗り越えた先に何を得るか。怪我したことは悔しいだろう。悔しさの先に何を見据えるか。絶望感の中に何の希望の灯りを灯せるか。自分の殻に閉じこもっていては見えない何かがたくさんある。何か一つでもいい。自分にとっての何かを掴んでほしい。こんな時に…こんな時だからこそ、タダでは起き上がらないでほしい。今のピンチを未来のチャンスに変えていける目線を大切に過ごしてほしい。辛さや悔しさを越えて。
2022年10月03日
本質を探求する
詳しくは知らないので、例え話として。A山が火山噴火したとします。そしてさらには他のB山、C山、D山と続いたとします。多くの人は、それぞれの山が単独で爆発して別物のように感じるかもしれません。そしてそれぞれに振り回されてしまう。しかし、もしかすると地下のマグマの流れは同じものかもしれません。そこに気づけるのが本質を知ることに近いかもしれません。問題の本質に迫るというのは、それぞれ起きている別個の問題ではなく、もっと深い所では同じ問題なのかもしれないのです。いくら表面的な所で問題の対処をしてもそれは対処療法のようなものでしかないかもしれません。根本療法を目指さなければ、次々とE山、F山と噴火するかもしれないのですから。そのためにも本質を探求する姿勢はとても大切なものになるはずです。
2022年10月02日
昔の教訓
この年になっても、受験の夢を見てうなされることがある。二回も失敗した大学受験には苦悩の思い出ばかりが思い浮かぶ。だからそんな夢をしばしば見るのかもしれない。全く先の見えない暗黒の不安。何から手をつけていけばいいのかすら分からない茫然とした絶望感。何故もう少し早くからしっかり勉強をしなかったのかという取り戻せない時間に対しての果てしない後悔。みんなから大きく遅れを取ったような断絶されたような孤立感。勉強しなくてはと焦るもののそれでもなお、勉強を遠ざけようとする自分に対しての怒鳴ってやりたいくらいの情けなさ。存在価値すら見えなくなった底なしの無力感。何かこのように当時の心境を思い出して改めて書いてみると、本当に当時の自分はどうしようもない奴だなと感じる(笑)典型的なダメな奴だ。。。よくもここまで嫌いな勉強から逃げ回っていたものだと思う。自分にとっての合格というのは、唯一誇れるとしたらこうした底なしに駄目な自分自身を自分が必死に乗り越えられたことなんだと感じる。何一つ希望の欠片すら見えない中で懸命に弱い自分と戦った最後の一年だったように思う。底なしに落ちていくか、這いつくばるかのギリギリ瀬戸際の一年を何とか最後まで戦い抜けた当時の自分に、「よく踏ん張り抜いたな!でも、例え嫌いなことでもそれを与えられた時は、逃げずに地道に積み重ねていかなくてはならないよ!」と声をかけてあげたいと思う。それがその後の今の自分を作り上げたのだから。
2022年10月01日
真っ直ぐに
人生は時には、戦わなければならない時もあるだろう。それは時にひどく大きなものかもしれない。つかみどころのない社会というものかもしれない。何のために戦うのか…それは自分が自分自身であるためかもしれない。社会に上手に呑み込まれた方が楽に生きられることもあるだろう。適当に自分を誤魔化しながら生きた方が生きやすいこともあるだろう。社会や時代に逆流して進んでいくことは苦しくて辛くて孤独を感じることもあるだろう。でも自分が自分自身であるために敢えてその逆流に突っ込んでいかなくてはならない時もあるかもしれない。自分の生きる道を真っ直ぐに真っ直ぐに突き進んでいく。周りからは無器用と笑われるかもしれない。周りから批判や非難を受けるかもしれない。それでも自分自身を貫いていく生き方。自分が自分自身を裏切らない生き方。そんな生き方もあるように感じる。