2022年11月30日
心と頭の狭間で
人は純粋な気持ちで生きていけたらいいんだろうが、大人になるにつれてそれだけでは生きていけなくなるのだろうか?そこで人は迷ったり悩んだりしてしまうのかもしれない。時に苦しみ、時に自信を失っていくのかもしれない。頭の自分と心の自分。頭の中は生き抜いていくための知恵が蓄積されていく。心が純粋なものを追い求める時に、そこにズレが生じてくる。そのズレがもしかすると人によってはどんどん大きくなっていくこともあるだろう。美しい花を目にする時に、心は純粋に美しいと感じいつまでもその場所で美しく咲いていて欲しいと感じ、頭はいかにこの花を切り取って売っていくのかと考えたとする。この心と頭のズレ。生きるというのは、この戦いなのかもしれない。心の感受性に従うのか、頭の思考性に従うのか……器用な人は計算をして得を選べるのかもしれない。不器用な人はどうしてもそこで立ち止まってもがいてしまうのだろう。どちらがいいとか悪いとかではないと思う。ただ不器用でも、もがいても大丈夫と伝えてあげたいと思う。それだけ心に純粋で真っ直ぐな想いがあるなら、それも大切にしてあげたらいいと。僕はそんな人も応援してあげたいと思う。
2022年11月29日
時間の流れ
ネットやテレビで言葉や写真で見るものと、実際に見て体験するものとでは大違いなものだ。それらで知ることができるのは、物事の表面的かつ断片的なだけの世界。そこには時間の流れというものが欠如している。時間の流れの中で物事と一緒に過ごさなければ、本当の何たるかは見えてこないのではないだろうか。それこそが経験するということ。時間の流れということこそが、人間が生きている一つの証明でもあるのだから。時間の流れが止まるということはそこが最期ということにもなる。ネット社会になって、知ってるつもりが増えていくような気がする。知ってるつもりと知っているとは大違いだと改めて実感する。時間をかけて体験してきたものに優るものはないように感じる。生きるというのは時間を共にすること。その共にする物事は何なのか?その共にしながら感じたり考えたりすることは何なのか?そんなことで人生の豊かさも変わっていくような気もしてくる。
2022年11月28日
意識と無意識
バランスを敢えて崩すことで、逆にバランスを保てるということがある。意識的にバランスを保とうとすると手動化した動きになり、こぢんまりとしてしまうが故に逆にバランスを取りづらくなったりすることもある。そんな時に敢えて意識的に大きくバランスを崩すことで無意識下でその崩れを補正しようという自動化された働きが生まれてバランスが保たれたりする。意識するというのが手動であるとすれば、無意識は自動化。意識すると行動になるが、無意識は反応を引き出す。意識的にバランスを崩せば、無意識にバランスは保たれる。この相反する働き。この辺りのことが心身ともに自分の研究テーマにもなっていたりする。人間の面白さでもある。
2022年11月27日
遊び心を
僕は本やプロジェクトの企画などを考える時は、誰かと飲んでいたり、外の空間で自然を感じながら頭の中を遊ばせながら考えていたりする。誰かとバカ話をしながら頭の中を柔軟にしていく。周りの動きを楽しく観察しながら頭を楽しい方向に持っていく。会議室のような狭い空間で真面目ぶって考えるのが好きではない。周りが壁で仕切られているのも、さあ!考えるぞ!と改まるのも好きになれない。僕にとっての仕事の基本は『大人が本気で遊べばそれが仕事になる』というもの。まずは企画というのは、自分にとって本気で情熱を傾けて遊べるものでなくてはならない。子どもの頃に無我夢中で遊んでいたように。どれだけ本気で没頭できるのか。遊びだって中途半端な遊びなんて心底から楽しめない。今と違って、僕の子どもの頃には色々遊び場所や道具があった訳ではない。近所の空き地や山や川…遊び道具はそこら辺に転がっているものだったり。そんな中でどうやってみんなで楽しく遊びを創り出せるかを考えたものだ。目一杯、想像力を働かせて遊びを創造していた。何かなくても、自分の頭の中で何かを作り出して楽しい時間を過ごした。大人になった今もどこかそんな感覚を自分の中で大切にしている。何もないところから何か新しい企画を創造する楽しさ。頭の中で想像力を膨らませて遊ばせていく。自分が本気になってワクワクして遊べることを本気で探求していけば、そこには新たな企画が生まれていたりする。子どもの頃と違うのは、大人になると楽しい時間に+αを付加させていけること。
2022年11月26日
スタートライン
できないことをできるようにするための第一歩はできない自分を認め自覚すること。これは簡単そうで難しい。できない自分を見たくはないし、認めたくはない。しかし目をそらせて自分に言い訳して誤魔化していても、本当に先には進んでいけない。大切なのはできる振りをすることではなく、できるようになる一歩を踏み出すこと。できない自分が格好悪い、できない自分が惨めで情けないと思っている限りはなかなか認めてはいけないだろう。できないならできるようにすればいいんだ、シンプルだがそのように思っていればできない自分を認めていけることだろう。それを認めた時点でそこができるゴールへのスタートラインになる。スタートを引けなければゴールも生まれない。できないことが恥ずかしいことじゃない、できない自分を誤魔化していることの方が遥かに恥ずかしいこと。
2022年11月25日
潔さ
空振り三振をして、バッターボックスで、いくらもう一球打ちたいと要求しても無理なものは無理。いくら諦めきれなくても諦めるしかない。どれだけ打てなかったことを悔いても仕方がないし、どうにもできない。せめて、三回は自分らしく全力を出し切ってバットをフルスイングできたことを自分が自分自身に認めるしかないだろう。同じ三振でも迷いや不安や、あらゆるネガティブな要因で躊躇して三球見逃しの三振をするよりはいいのだろう。想いを込めて自分らしいスイングができたのなら。潔く諦めるのも、場合によっては前向きなことなのかもしれない。きっとそうなのだろう。目の前の相手の投手と真剣勝負をして敗れたなら、それはそれで潔く受け入れる。中途半端に当てにいって中途半端なスイングになってアウトになるより、自分らしいフルスイングができたのならそれでいいのだろう。ふと、昔考えたことを思い出した。
2022年11月24日
情熱を燃やす
情熱というのは、生きる熱感。情熱を傾ければ人生が熱を帯びてくる。生きている実感を強く感じられる。時間を消費して生きるのではなく、時間を燃やして生きていきたいものだ。損得なんて関係ない。自分の中の何かに思い切り情熱を傾けてみる。生きてるぞ!!と叫びたくなるような時間を刻みたい。今の時代は社会に熱感を感じない。それは社会を構成する一人一人の熱感の問題でもある。夢なんて描くより、現実を見ろみたいな。もちろん、現実は大切だ。しかし夢の一つも描けない、夢をバカにされるような社会であってはいけないように感じる。漠然と生きる、のではなく、自分自身を生かし切って生きていく。自分に自分がやろうとしている何かに全力で情熱を傾けて、情熱を燃やしていきていきたいものだ。その積み重ねの時間こそが夢への真っ直ぐな道のりのように思う。情熱とは生きる心のエネルギー。誰の心の中にも情熱は秘められているはずだ。それを燃やすか、燻らせるか、消してしまうかはまさしく自分次第。
2022年11月23日
どこまでも……
どんなことも、永遠に分かることはないのだろう……自分が分かったと決めた瞬間が、ある意味で終わりとも言える。分かるということは、同時に分からないことも分かるということなのだと思う。分かるということは追い求めていけば、終わりがないこと。人はどこかで分かったつもりというキリをつけて生きているのかもしれない。人に対しても知識などにしても。そのキリのつけ方が浅いのか深いのかの違いはあるだろうが。全てに深くはいけないだろう。でも、せめて人でも知識でも、一つくらいは永遠に追い求めるものがあってもいいような気はする。終わりなき探求。分からないことの面白さ、分からないことの苦しさ。。。それこそが人生そのものなのかもしれない。
2022年11月22日
感じる力を
見えないものを見ようとする。伝えたいことを理解しようとする。これをできるのは、もはや目でもなければ、耳でもない。目では見えるものしか見れないし、耳では入ってくる言葉しかとらえられない。心でいかに感じ取れるか。感受性の豊かさによるものが大きいように感じる。そしてそれが何よりも大切なことなんだと感じる。表面的な見えるものだけで見ようとするのか、目には見えないもっと深い部分を感じるのか。表面的に耳に入る言葉を額面通りに聞くのか、その言葉の奥にある想いをどれだけ感じるのか。感じる力を大切にしていきたいものだ。
2022年11月21日
怖い存在こそ
自分が怖いと思う人こそ大切にするようにと子どもの頃から親に教えられた。今の時代は怖い存在というのは悪人のように受け取られがちな世の中の風潮がある。怖いは、優しいなんだと思う。自分に興味があるからこそ本気で叱ってくれるし、自分を何とかモノにしてやりたいと思うからこそ情熱的に向き合ってくれるのだから。それはとてもエネルギーの要することでもあるのだ。逆に『いいんじゃない? 気にしなくてもいいよ』なんて優しいことを言っている人の方が、実は別の意味で怖かったりもする。当たり障りのない言葉はそのまま相手にとって自分が当たり障りのない存在でしかないということ。自分のことに興味がないから、いざとなったら黙ってバッサリ切られて見捨てられる可能性があるからだ。だから子どもの頃から誰かに本気で怒られたら『ごめんなさい』と『ありがとうございます』が習慣化している。人生を通して本気で向き合ってくれる相手なんてそんなに多くはないのだから。
2022年11月20日
手離さないで
説明するまでもないのだが、ある重いモノを手に持ち、それを持ち上げようとするとなかなか持ち上がらないし、持ち上げても腕がしんどくなってくる。そして、そのしんどさや苦しさからそのモノを手から離すと一瞬のうちに落下していく。手や腕は楽になるが、手にしていたものは地面の上。自分が自分自身をあるステージにまで運び上げていったり、何かを成し遂げようとするというのは、まさにそれに似たような感覚がある。途中、苦しくてしんどくて、何度も手離せば楽になるのが分かっていても、手を離さない。それは手を離せば一瞬のうちに自分が堕落していくのが分かるから。あれだけ持ち上げるのは大変なのに落ちる時はいとも簡単に一瞬のこと。そんな自分の姿を自分自身が見たくはないだろう。だからこそ、人は懸命に踏ん張り抜くのだろう。
2022年11月19日
継続していく
生け花の花。その花の色は花瓶の中にあっても、大地に根差して咲いていても色そのものはそう変わらないだろう。そしてやがてはどちらの花もいずれは散ってしまう。花瓶の花はそこで終わり。しかし大地に根差した花は結実して新しく芽吹く。今だけの成功なのか、未来に繋がる成功なのか。目先だけを見れば同じように見える物事でも、それが未来にしっかりと続いていく形なのか、ほんの一時の形なのか。。。仕事というのは、一時的なブームとかではなくしっかりと未来に続いていく形を模索していかなくてはならないと感じる。
2022年11月18日
引率か自律か
自分が率先して人にカツを入れて相手を引っ張っていくことも大切な時もある。同時にいかにして相手が自らの意志で動きたくなるかを考えて自律を促していくことが大切な時もある。前者が他力なのに対して後者は自力。しかし、そこに共通しているのは相手が心の中で発奮するということ。その発奮に火を着けるのが他人によるものか、自力によるものかという違いがあるだけ。相手の心の中に発奮の火種があるのかどうなのかの見極め。あるいは同じ人間であっても心の中は変化していく。今の心の中に発奮の火種があるタイミングなのかの見極め。火種があるのに引っ張っていこうとするとそれは邪魔になるし、火種がないのに相手の自主性に任せても少しも燃えてこなかったりする。見極めと適切な手段があってこそ、相手の発奮を促していくことが可能になるように感じる。
2022年11月17日
KK
重苦しい雰囲気をぶっ壊せる君でいよう!緩んだ雰囲気を一言で引き締める君でいよう!辛い時に誰よりも明るく元気を振りまける君でいよう!チームにはそんな誰かが必要だ。空気を読めないのではなく、空気を読みながら空気を壊せる誰か。KYではなくKKな誰か。KKをさらにKTに変えていける誰か。そう新しい空気を作り出していける誰か。誰かに任せていては駄目。自分こそそんな役割を担ってやるんだという心意気が大切になる。それくらいチームの全体の雰囲気を変えていくのはしんどいことなんだから。そんな誰かがいるチームは強い。どんな場面でもチームの雰囲気をガラッと変えていけるのだから。そんな誰かになってみないか?
2022年11月16日
心の文明開化
『後生可畏』若者は、今は未熟でも来るべき時代の息吹を敏感に感じ取り、将来の大きな可能性を秘めているから、侮ってはならず、むしろ畏れ敬うべきであるということ。本当に若者には大きな可能性を感じる。自分などは昭和の典型的なアナログ人間だが、若者はデジタルにも長けていて、それをベースに新たな感性で新たな文化を作り上げていく。若い子達は分からない…若い子達は俺達とは違うから…なんて言ってたらダメだなぁ〜なんて感じる。新たなものを自分の中に受け入れた上で、自分の中に築き上げてきた大切なものと融合させていくことは大切だなと感じる。若い子達を心の中で受け入れない心の鎖国状態では自分自身の感覚も完全に時代に取り残されていってしまう。心の中を解放して謙虚な姿勢で好奇心を持って若者を受け入れていきたいと思う。そうすることで心の文明開化も起こるのではないだろうか。新たなものを恐れるのではなく、楽しめる自分でいられたらなと思う。
2022年11月15日
言葉の力
監督と選手たちとの心の繋り。その心の繋がりの根底にあるものが、きっと双方にある愛情の深さなのだろう。愛情は双方で時間をかけて深めていく。双方が相手を大切な存在として愛情を育んでいく。そうした中で心の繋りも生まれてくる。言葉とは不思議なもの。相手の心の深くに届く言葉もあれば、耳許を素通りしていく言葉もある。言葉に命を吹き込んでいけるかどうかは、その言葉に自分自身の想いや愛情をどれだけ込めていけるかなのだ。相手がどのような性格で、今どのような状況に置かれ、どのように感じているのか……言葉にする前に相手のことを少しでもいいから想像してみる。それこそが相手に思いを寄せるということ。それは相手を大切に思うからこそ。そして相手への想いを言葉の一つ一つに命として吹き込んでいく。言葉の上手い下手ではないと思う。例え拙い言葉であっても、命が込められた言葉は相手の心には届いていくのではないかと思う。例え厳しい言葉でも、そこに愛情という命が込められていればそれが子ども達には伝わっていくのではないかと思うし、いくら美辞麗句を並べたとしてもそれが単なる言葉であれば、一瞬の耳障りの良さで素通りして終わってしまうのではないかと思う。
2022年11月14日
問いかけ
君のゆく道は果てしなく遠い。なのに何故歯を食いしばり君はゆくのかそんなにしてまで。時々、子どもの頃に歌ったこの『若者たち』という歌が頭の中に甦る時がある。この歌の問いかけに対して自分は何と答えられるのだろうか?と。自分自身のこれまでの人生もそんな人生だったような気もする。では、何故投げ出すことなくそんなにしてまで進んできたのだろうか?簡単な問いのようで、簡単に答えられないような気もする。その道の果てに自分が最終的に何を思うのか?もしかして、最終的に何故こうまでして歯を食いしばりながらやってきたのだろう?と改めてこの歌の問いかけを自分自身にすることになるような気もする。若者が社会に旅立つ時の歌でもあり、年を重ねて自分の道を振り返る時の歌でもあるような気がするのだ。何だかたった数行の歌なのだが、この問いを噛み締めながら生きてみたいと思う。
2022年11月13日
安易や諦めからの卒業を
今までの経験の中で学ばされたこと。「まっ!いっか!」という安易な考えと選択。「まあ、こんなもんだろう」という諦めと選択。この二つから絶対に良い結果は生まれない。
何かを選択する際には、「何が何でもこうしたい」「何が何でも何かを掴みたい」という何かに対するこだわりと、何が何でもという諦めない気持ちが大切になる。
ボクシングで相手に倒された時には、一瞬意識も朦朧となり、恐怖心は大きくなり、戦意も一瞬喪失しそうになるそうだ。ここで立つか、そのまま倒れるか。。。
目の前にどうしても手にしたいものがあるならば、どれだけ打ち砕かれようが、それを手にするために立ち上がる。諦めずに挑戦していくことが大切になる。
絶対に妥協できない自分が大切に思うものがあるなら、立ち上がってもうひと踏ん張りしてみるといい。諦めの先には諦めの未来しかない。その未来は他の誰でもない自分が作り上げたもの。
格好悪くてもいい、不器用でもいい、諦めないことはできる。自分にとって絶対に譲れない大切なものであるならば、立ち上がって掴み取ろうとする気持ちが必要だと感じる。
何かを選択する際には、「何が何でもこうしたい」「何が何でも何かを掴みたい」という何かに対するこだわりと、何が何でもという諦めない気持ちが大切になる。
ボクシングで相手に倒された時には、一瞬意識も朦朧となり、恐怖心は大きくなり、戦意も一瞬喪失しそうになるそうだ。ここで立つか、そのまま倒れるか。。。
目の前にどうしても手にしたいものがあるならば、どれだけ打ち砕かれようが、それを手にするために立ち上がる。諦めずに挑戦していくことが大切になる。
絶対に妥協できない自分が大切に思うものがあるなら、立ち上がってもうひと踏ん張りしてみるといい。諦めの先には諦めの未来しかない。その未来は他の誰でもない自分が作り上げたもの。
格好悪くてもいい、不器用でもいい、諦めないことはできる。自分にとって絶対に譲れない大切なものであるならば、立ち上がって掴み取ろうとする気持ちが必要だと感じる。
2022年11月12日
自分自身との戦い
『このくらいで充分』から『まだまだもっとやれるはず』まで引き上げるには、並大抵のエネルギーではない。自分が漠然と引いている自己満足を壁を自分が打ち破っていかなくてはいけない。周りと比較しても自分はやっている方だ、そこそこそれなりの成果が出ている、周りはそれなりに評価してくれている…などなど、自己満足を助長させてくれる要素は身の回りに溢れていたりする。そんな中で、まだ!まだ!と自分が自分自身に鞭を打つのはしんどいことだったりする。今のままで充分じゃない?と自分を甘やかしたくなったりすることもあるだろう。満足して止まってしまったら、そこから先の自分自身の進化はない。苦しくても辛くても、まだまだな自分を信じて、まだまだやっていきたいものだ。人間はまだまだこんなもんじゃない!自分自身との戦いに勝ち抜いていこう!
2022年11月11日
言葉の裏側には
忙しいと口にする裏側の心の中には充実した心がある。暇だと言える心の内にある余裕の心。悲しいと口にする裏側には素直な心がある。もうダメだと言う裏側には潔い心がある。ネガティブに見える言葉の裏側には、また別のポジティブな感情や心があるかもしれない。もちろん、忙しいと言う代わりに充実していると言葉にすればいいし、暇だという代わりに余裕を持ってると言葉にすればいいのだが。あるいは、その逆も然りで、ポジティブな言葉の裏側にネガティブな感情がある場合もあるだろう。人間というのは言葉と心とが裏腹だったりすることも多い。本音と建前とで違ったりもする。だからこそ、人の言葉面に単純に惑わされることなく、その心の内を感じ取る感性のようなものが大切になっていくような気がする。本当の心を知らなければ、あるいは気づけなければ、その相手の真に求めるものに応えていくこともできないのではないだろうか。
2022年11月10日
想いの共有は
何か想いを伝えようとしても、相手が必ずそれを受け取らなくてはならないということもない。いくら正確に言葉にしたと思っていても、相手にそれが間違って伝わったり、相手の違った解釈になることもある。相手のあることというのは、だからこそ難しいもの。伝わってほしいというのはあくまでも一方の考えであって、相手も相手で自分の想いを分かってほしいと考えているかもしらないのだから。よく相手に裏切られたと口にする人を見かけるが……裏切られたのではなく、相手はもしかすると自分の想いのままに言動をしたに過ぎないのかな、とも思ったりする。想いを一方的に伝えて相手も同じ想いを共有したと自分で勝手に期待をして、相手が予想外の言動をしたからといって、それは裏切られたというのとは少し違うのかもしれないなと思う。そもそも、想いの共有はなかったのだとしたら、相手の言動だって自由なはずだから。それを責めても仕方がないだろう。相手とは想いや考え方が違った、想いの交流がなされなかったというだけのことかもしれない。そこが人と人との難しさでもあるが、だからこそ想いを本当に共有できた時の喜びも大きいのではないかと思う。
2022年11月09日
効率化の先に
効率化を図っていけば、確かに無駄はなくなって機能的になっていく。ただ、では効率化をどんどん進めていけばいいのか?という点については疑問も残る。味気なくなるような感じがしなくもない。無駄に見えるようなものが心の豊かさを作り出したり、無駄に見えることの中に実は何よりも大切な本質が隠されているようにも感じる。生産性そのものを直接的に考えれば効率化は良いのだろうが、その生産性だって間接的に無駄に見えるものが効果的に働いている場合もある。人間はそもそも機械ではない。心を持った生き物。その心が豊かであってこその効率化ではないかと考えたりもする。
2022年11月08日
頭脳の進化を
株式会社ウーブルとの第7回目の『年中夢求プロジェクト』を呉の横路中学で開催しました。今回は元千葉ロッテマリーンズのストッパーを務めていた荻野忠寛さんにお願いしました。
参加者は横路中学、牛田中学、横路小学校など80名。荻野さんの「野球のセンスを磨く」というテーマのもとで目から鱗の身体の使い方などを学び、子ども達も指導者も目を輝かせていました。
何事もそうだが、上達できなければそれをすぐに自分の能力が足りないからだと自分が自分自身に言い訳をして諦めたり、少しやってみてできなければ飽きてやめてしまったり。。。
能力が今足りていないと感じるなら飽きたり諦めたりするのではなく、それを開発したり、磨いたりする方向に意識を向けていけるような子ども達を育てていきたいと思います。
開発したり磨いていこうという意識さえあれば、今自分が取り組んでいることに貪欲になっていけるはずです。貪欲になれば、どんどん知識を吸収したり、上達するためにアイデアや工夫をできるようになっていきます。
そこには試行錯誤が自然に生まれます。ただ何となく取り組むのではなく、常に頭をフル回転させながら取り組んでいけるようになります。
人間の身体能力は鳥より高くは飛べないし、魚より泳げないし、野性動物ほど速くは走れない。。。しかし頭を使えば宇宙にも行けるし、潜水艦で深海まで潜れるし、スーパーカーで高速で走れます。
人間の進化はまさしく頭脳の進化であり、これこそが他の全ての生き物を凌駕しているものです。自分の進化も自分の頭脳を進化させていくことです。
いとも簡単に生まれ持った能力のせいにして諦めたりするのではなく、自分の頭脳をフル活用してより高みを目指していけるような子ども達を育てていくことも、このプロジェクトの大きな願いなのです。
参加者は横路中学、牛田中学、横路小学校など80名。荻野さんの「野球のセンスを磨く」というテーマのもとで目から鱗の身体の使い方などを学び、子ども達も指導者も目を輝かせていました。
何事もそうだが、上達できなければそれをすぐに自分の能力が足りないからだと自分が自分自身に言い訳をして諦めたり、少しやってみてできなければ飽きてやめてしまったり。。。
能力が今足りていないと感じるなら飽きたり諦めたりするのではなく、それを開発したり、磨いたりする方向に意識を向けていけるような子ども達を育てていきたいと思います。
開発したり磨いていこうという意識さえあれば、今自分が取り組んでいることに貪欲になっていけるはずです。貪欲になれば、どんどん知識を吸収したり、上達するためにアイデアや工夫をできるようになっていきます。
そこには試行錯誤が自然に生まれます。ただ何となく取り組むのではなく、常に頭をフル回転させながら取り組んでいけるようになります。
人間の身体能力は鳥より高くは飛べないし、魚より泳げないし、野性動物ほど速くは走れない。。。しかし頭を使えば宇宙にも行けるし、潜水艦で深海まで潜れるし、スーパーカーで高速で走れます。
人間の進化はまさしく頭脳の進化であり、これこそが他の全ての生き物を凌駕しているものです。自分の進化も自分の頭脳を進化させていくことです。
いとも簡単に生まれ持った能力のせいにして諦めたりするのではなく、自分の頭脳をフル活用してより高みを目指していけるような子ども達を育てていくことも、このプロジェクトの大きな願いなのです。
2022年11月07日
バランスを
人は科学から生まれたものではない。しかし、科学は人から生まれたものだ。科学の発展は様々な利便性や効率化をもたらしてきた。それによって人の生活もうわべは豊かになったようにも見えるだろう。では、それで人が本当に幸せになったのだろうか。。。生活に不可欠なものが溢れ返り、人が科学の恩恵を受ける中で、同時に人にとって本当に必要な何かが失われていった面もあるのではないかと感じる。最近それをすごく感じる。科学は人によってコントロールされるべきものであると思うのだが、人が科学に振り回されているような気がしなくもない。何かを手に入れるということは何かを失うことでもあるのかもしれない。人が生きる中でこのバランスをいかに保っていくのか。ここは今後のとても大きな課題のような気がする。
2022年11月04日
井の中の…
井の中の蛙という狭い範囲の中で、お山の大将になっていては、自分の実力はどんどん退化していく。さらには実力が落ちていっても周りがチヤホヤしていけば裸の王様になっていき、どんどん自分の実力を客観視できなくなり、一人で自惚れの自己満足に陥りやすくなってしまう。もちろん、自分を信じることは大切だ。しかし、信じるに足るだけのことを積み重ねてきているのかは自分が厳しく評価していかなくてはならない。やることもやらなかったり、手を抜いてきていつまでも高い実力を維持できるはずはない。小さく小さくまとまらないためにも、自分自身を小さな世界から時に切り離して厳しい目線で自分自身を見つめ直してみることも必要な気がする。そうすれば、少しずつでも自分自身を進化させていくことができるだろう。
2022年11月03日
日常全てに
立ってるのも練習、歩いているのも練習…練習とは意識をどれだけ持てているか。他の競技を観て様々な動きを参考にするのも練習。練習とは観察眼をどれだけ持てているか。勉強をする中で考え方を身につけて競技を考え抜くのも練習。練習とは思考力をどれだけ持てているか。練習場だけが練習の場ではない。別に片時も忘れずに…とまでは言わないが…しかし練習外で意識がまるで欠けていては上達に大きな差が出てきてしまうだろう。そのような気持ちを持っていれば、ふと日常の何気ないことと競技とが頭の中でリンクしてアイデアや発想も浮かんでくるはずだ。日常の全てが練習になれば一回り大きくなれるような気がする。
2022年11月02日
石段
よく目にする山寺などにある何百段もある石段。下から見上げると登り切る気持ちが萎えたりする。しかし、上は見ずに目の前の一段一段を見て一歩一歩登っていけば、ふと気づくと中腹くらいにはなっている。そこで頂上ではなく周りの景色を眺めてみる。すると見える世界が違っていることに気づく。そこから、また一歩一歩…何かを目指すとはそういうことなのではないかとも思う。余りにも遥か先ばかり見てばかりいると果てしない気持ちになる。石段のように、自分の目指すゴールへの道筋さえしっかりと定めれば、あとは目の前のことに一歩一歩全力で打ち込めばいいのではないかと思う。そうすれば、萎えることなく、ふと気づけば目指すべき地点に辿り着けていたりするものだ。
2022年11月01日
強さの優しさ
株式会社ウーブルとの第6回目の『年中夢求プロジェクト』を黒瀬中学校で開催しました。今回は元千葉ロッテマリーンズの香月良仁さんと元広島カープの森跳二さんのお二人にお願いしました。
黒瀬中学、早稲田中学、向陽中学、龍王小学校、黒瀬小学校からの参加で保護者も含めて80名で行いました。
野球部で培った強い心や行動を野球はもとより、野球以外にも生かしてほしいと願っています。
もし同じクラスに辛い思い、悲しい思い、寂しい思いをしている同級生がいたら、そっと声をかけたり、側に寄り添っていけるような。。。
周りに流されたり、強いものに簡単にまかれたりするのではなく、そうした同級生の思いを感じ取り、野球で培った力で守ってあげられるような。。。
スポーツができるから凄いんだ!偉いんだ!と心の中で威張ったりするのは何の強さでもありません。真の強さは周りから何を言われようが、何をされようが、凛とした姿勢で誰かを助けたり支えたりできる力。
真の強さとは上辺の優しさなんかではないと思います。自分に甘く他人にも甘い妥協の優しさなんかでもないはずです。子ども達が真の強さを野球を通して育てていき、それを未来に立派に生かしていってほしいと願っています。
黒瀬中学、早稲田中学、向陽中学、龍王小学校、黒瀬小学校からの参加で保護者も含めて80名で行いました。
野球部で培った強い心や行動を野球はもとより、野球以外にも生かしてほしいと願っています。
もし同じクラスに辛い思い、悲しい思い、寂しい思いをしている同級生がいたら、そっと声をかけたり、側に寄り添っていけるような。。。
周りに流されたり、強いものに簡単にまかれたりするのではなく、そうした同級生の思いを感じ取り、野球で培った力で守ってあげられるような。。。
スポーツができるから凄いんだ!偉いんだ!と心の中で威張ったりするのは何の強さでもありません。真の強さは周りから何を言われようが、何をされようが、凛とした姿勢で誰かを助けたり支えたりできる力。
真の強さとは上辺の優しさなんかではないと思います。自分に甘く他人にも甘い妥協の優しさなんかでもないはずです。子ども達が真の強さを野球を通して育てていき、それを未来に立派に生かしていってほしいと願っています。