2023年02月28日
どちらの手でも
最善の手を尽くして勝つべきだと。対して人間は必ず過ちを犯す動物だから、良い手を指さなくても相手の悪手を待っていればいい、自分が悪手さえ指さなければ勝てるものなんだと。どちらも真実のような気はする。要は生き方の問題、自分自身の勝負哲学の問題なのだろうと思う。それによって勝負の仕方が変わってくるだけのような気がする。そこに人間対人間の勝負の面白さがあるのではないかと感じる。テニスや卓球だって常に攻撃的に攻める選手もいれば、ひたすらボールを拾いまくって相手がミスをするのを丁寧に待つ選手もいる。どちらが強いとも言えない。ただ中途半端な者は結局は途中で迷い、とっちつかずになり、中途半端な手しか打てずに破れてしまう確率は高いのではないかと思う。自分が決めた道を信じ抜いてひたすら貫いていくことの強さのようなものが、勝負所で強さとなって表れてくるのではないだろうか。
2023年02月25日
真の実力を
富士の裾野を見て改めて感じる。誰もが高い頂上を目指すが、見せかけだけの高さはすぐに崩れてしまう。富士山はあれだけの広い裾野という土台があるからこそ、あれだけの高さを維持していける。そういう意味では高さが実力ではなく、裾野という土台こそがその人の実力なのだと思う。どれだけ安定感のある実力を兼ね備えているのか。広い裾野のような実力は一朝一夕では作られていかない。長い年月をかけて地道に実力を蓄積していくしかない。高い頂上を持つためには、それこそ、いかに高く見せるかというテクニックに走るのではなく、地道に実力をつけていくことこそが時間はかかっても安定した高さを持つことができるのだろうと考える。
2023年02月24日
問題の全体像を
まずはグッと問題の中核に踏み込んでみて考えてみる。そこでは、主体的になって感じながら考えている。そして、次に問題から離れて距離を取って見つめてみる。客観的にできる限り観察をしながら考えている。変な例えかもしれないが、ボールが問題だと仮定すると、まずはボールが柔らかいのか固いのかを感じて、次にその形態の全体像を客観的に見て円い形なのを確認するようにしている。どちらが欠けていても、正確には問題を捉えきれないからだ。敵を知るではないが、問題も正確な実態を知らなければ対処を間違えたり、判断を間違えたりしてしまう。難問になると、この二つを何度も行き来する。その都度、ズレを修正しながら徐々に全体像を正確に掴んでいくようにしていくのだ。問題を正確に掴むことができるからこそ、正確な問題解決方法を選択していけるのだと考えている。
2023年02月23日
誇りとは
誇れる何かを持つという言葉をよく耳にする。時々、誰に対して誇るんだろう?と思ってしまう。世間に対して?多くの人に対して?僕は、そんなことより、自分が自分自身に対して誇れる何かを持てればいいのではないかな、と思う。誰かに見せつけるための誇りではなく、自分が自分自身と懸命に戦い抜いてきた過程そのものが誇りだと思う。何を?手にしたかではなく、それを手にするに至るまでの妥協を許さずに懸命に歩んできた道のりそのものが自分自身の誇りなのではないかと思うのだ。何を?なんてさほど重要だとも感じない。その人のそこまでの人生の生き方、向き合い方そのものを、自分が誇れればそれでいいんだと。自分が自分自身に負けない生き方をしていければ。
2023年02月22日
集団
おでん。小さな鍋の中で様々な具材が一緒に煮込まれている。その中で誰が一番人気ある具材なのかを競い合う。たかだか小さな鍋の中の話なのに。しかし、どの具材も実はメインになりうる。こんにゃくは味噌田楽では主役だし、卵は目玉焼きで。個々でも単独に生きていける者達が集まって鍋という組織の中にいるからこそ美味しくなるのだろう。そんな中で小さな競い合いをするくらいなら、自分の持ち味を最大限に出し切って、鍋の中全体をさらに美味しくしていけばいい。個々が出した旨味が全体に融合して全体の旨味になり、全体の旨味がさらに個々の旨味を引立てていくような循環。それこそがまさしくお互いを生かし生かされることのような気もする。ただし、人気競争でなく、自分自身の旨味を常に高めていかなくてはならない。全体の一部だからいいやっていう個が集まっても意味はないのだから。個でも主役に立てるだけの自分だからこそ。
2023年02月21日
頭と心の両面で
極端な分類ができるものではないが……傾向として頭で考えて動く人もいる。心で感じて動く人もいる。何かを伝えることと、何かが伝わることとは違う。これは伝える人と伝えられる人という意味ではない。伝えるというのは自分の論理を言語化して、相手の頭で論理的に理解してもらうこと。そこで論理的に納得ができれば動き始める。伝わるというのは、自分の感情や気持ちを相手が感じ取って、その感情や気持ちに共鳴して共感して動き始める。前者が言語的なコミュニケーションで、後者は非言語的なコミュニケーションということになる。どちらも大切な力と言えるだろう。頭でも心でも相手を理解できるとより良くなっていくと感じる。
2023年02月20日
言葉で
優しい言葉のあやとりをしていけると、その言葉が相手の新たな言葉を生み、それがまた自分の言葉を生む。言葉が深まっていくことで、心に温かさが広がっていく。言葉のやりとりは、何となく自分が言葉を投げかけ、相手の言葉を受け取るという一方通行の感じがする。あやとりはお互いの協力がないと続いていかない。優しい言葉のあやとりは、相手に対しての愛情や思いやりなくしては続いていかないのだろう。それがあるからこそ、言葉を交わすごとに心が満たされて温かくなっていくのだろう。言葉をぶつけられれば心は寂しく寒く感じる。言葉は本当に使う人間の心の在り方が問われていくものなのだなと感じる。
2023年02月19日
いつの日にか
いつの日にか誰もが誰かの元から巣立っていく。その巣立つ日まで、どれだけの生きる力をつけてやれるのか。どれだけ自信を持って送り出していけるのか。巣立つ側は自分自身を信じて自分の羽を広げて飛び立っていく。きっと、送り出す側は心配が残るような気もするし、どこまで力をつけさせてもまだ足りないと思ってしまうのだろう。それでも巣立ちの日を迎えた時には、巣立つ側は教えてもらった力を信じて、送り出す側も教え込んだ力を信じて背中を押してあげるのだろうと思う。最後は優しく静かな微笑みで。大丈夫だよって。人生なんていうのは、出会いと別れを繰り返していく。人生が永遠でないのと同様に人との永遠もない。だからこそ、人との与えられた時間を大切にしたいと思う。人に対して今の自分のできること、教えられることに全力を尽くしたいと思う。
2023年02月18日
アナログ
今の若い子達はレコードとかを知らない。ないのだから知らないのは当然だが。好きなレコードを買ってきて、心踊らせてレコードプレイヤーに置いて針を置く瞬間の心のときめき。デジタルではないアナログ。ラジオのチューナーを手で微妙に調整して合わせながら、そこから雑音混じりに声や音楽が流れてきた時のワクワク感。アナログにはデジタルにはない、何というか心の温かみや豊かさがあったような気がする。何かをするにも簡単にはいかない。そのためにあれこれと手間ひまかけて準備して走り回り。そしてやっと手にできる喜び。準備も含めてのワクワク感。スマホひとつあれば今は全ての手間暇は省ける。レコードに比べたら音声もいいのかもしれない。それでも何故かデジタルではないアナログに心惹かれてしまう。
2023年02月17日
発想を変えれば
逆転の発想をどれだけ持てるかで、自分自身の行動も変わっていくように感じる。行き詰まった時に人は進むのを躊躇する。しかし、行き詰まっているように感じるだけで、発想を変えれば大きく開けて見えることもある。ピンチに見えていることが大きなチャンスに見えてくることもある。行動していくためには、やはり視界良好にしておかなくてはならない。見ている世界と現実の世界は違っていたりする。見方の問題だったりする。見方を変えていくためにも今までとは逆転の発想を持つことがとても大切になってくる。
2023年02月16日
哲学
哲学なんて聞くと、何だか重々しくて難解な感覚があるかと思いますが、自分の人生という航路を進んでいく上での指針と思えば、それがいかに大切なものかわかってくる。どんな時にもブレることなくその指針に照らし合わせながら進んでいく。上辺だけの指針なんかでは簡単にブレてしまうだろう。だからこそ、とことんまで掘り下げていかなくてはならない。それこそが哲学。時に自分の中で自問自答し、禅問答のようなことを繰り返し。また時には誰かと徹底的に話をする中で、それが一つの媒体になり掘り下げられていく。深く根幹にあるものは揺るぎない。揺るがないからこそブレることもない。掘り下げていく中で哲学が変わっていくこともあるかもしれない。もがきにもがいた先に、深堀りした先に変わるのであれば大丈夫。簡単にコロコロ変わってしまうのは考えたのではなく、単に時代や環境や人に影響されただけのこと。恐れずに面倒臭がらずに自分ととことん向き合っていく時間というものを、こんな時間や時流が早く流れる時代だからこそ、逆にじっくりと持てるといいのではないかと思う。人生哲学しかり、勝負哲学しかり。
2023年02月15日
事実
事実は事実として結果だけを見れば、それが事実になる。しかし、その事実が生じるに至るまでの背景にある経緯によって、事実の見え方は変わってくる。表面的に見ると、見えなかった世界が、裏面的に見ると違って見えてきたりする。どちらが事実なのか?と問われれば、ある側面ではどちらも事実と言えるだろう。本当の事実というのは、そのように多面的に肉づけされたものなのではないだろうか。だからこそ、事実はあらゆるものが絡み合ってできているとも言える。時に絡まりすぎて分かりづらくなるからこそ、肉を削ぎ落としていくことも必要なのだろうが…事実の捉え方を自分自身ももっとより深めていきたいなと感じる。
2023年02月14日
時間の流れ
ネットやテレビで言葉や写真で見るものと、実際に見て体験するものとでは大違いなものだ。それらで知ることができるのは、物事の表面的かつ断片的なだけの世界。そこには時間の流れというものが欠如している。時間の流れの中で物事と一緒に過ごさなければ、本当の何たるかは見えてこないのではないだろうか。それこそが経験するということ。時間の流れということこそが、人間が生きている一つの証明でもあるのだから。時間の流れが止まるということはそこが最期ということにもなる。ネット社会になって、知ってるつもりが増えていくような気がする。知ってるつもりと知っているとは大違いだと改めて実感する。時間をかけて体験してきたものに優るものはないように感じる。生きるというのは時間を共にすること。その共にする物事は何なのか?その共にしながら感じたり考えたりすることは何なのか?そんなことで人生の豊かさも変わっていくような気もしてくる。
2023年02月13日
競技即人生
『文質彬彬』外面の美しさと内面の質朴さが、ほどよく調和しているさま。洗練された教養や態度と、飾り気のない本性が、よく調和しているさま。仕事柄、様々な競技の超一流選手達と接することも多いが、そういう選手達と接しているとこの四文字熟語が当てはまると感じる。プレーの動きの美しさはもちろんだが、人柄の素朴さがビジネスマンではない職人気質のようなものを感じる。卵が先か鶏が先かの話ではないが、その競技への取り組む姿勢が職人気質であるために、どんどん自分のプレーに終わりなき探求を積み重ねて磨きをかけていく。そうするとプレーは美しさをその都度増していく。意識が自分の競技に集中してブレずに向けられているため、本当に飾り気がなく、自分を大きく見せようなんて気もなく、自分が積み重ねてき て表現する作品(プレー)を見てくれればいいくらいの感覚。競技によって自分が磨かれ、自分が磨かれることで競技も磨かれていく。競技即人生。人生即競技。
2023年02月11日
報われなくても…
どれだけ日々精進して、ひたむきな汗を流して、日々結果を出し続けても、チャンスが巡ってこないことがある。やってきたこと、出してきた結果が必ず報われるとは言えない。では、報われないならどうせやっても無駄か?と言えば決してそうではない。そこで投げ出してしまえば、自分が自分自身に見切りをつけて見限ってしまうことになる。あるいは、近々にはチャンスはないかもしれないが、少し長期的に見たらチャンスはあるかもしれないのに、そこに繋がる今を断ち切ってしまうことになる。悔しくても辛くても、無意味に感じても、本当にその物事を終えるまでは、やはり今やるべきことに全力を尽くすしかない。報われなくても、自分自身を最高潮に保ってチャンスが巡り来るのを辛抱強く待つこと。
2023年02月10日
ある表現を
メンバーとメンバー外という使われ方をするが、、、チームに属している選手は全員がメンバーと言える。というより、どちらであろうが自分はこのチームのメンバーなんだという気持ちを持っていてほしい。メンバー外だから、もういいやという気持ちで最後を迎えてほしくない。せっかく好きで続けてきて、一生懸命にやってきたことの最後が、もういいや、ではあまりに自分自身が可哀相過ぎはしないだろうか。この区分けも工夫できないものだろうかと思う。メンバー全員とメンバー代表みたいな。やはり最後に言われる言葉メンバー外の外という表現を変えられないものだろうか。何だか蚊帳の外みたいな言葉を。最後まで自分はこのチームの一員だと胸を張っていられるような表現に変えていきたい。何といっても最後の締めくくりなのだから、心の底から全力でやり抜いたという想いを全員に持って臨んでいってもらいたいと感じる。
2023年02月08日
朝令暮改
朝令暮改というのは悪い意味で使われる言葉だ。命令や政令などが頻繁に変更されて、一定しないこと。朝出した命令が夕方にはもう改められるという意からきている。確かに平時においては、これでは困ってしまうだろう。しかし…事態が刻々と変化する緊急時には、逆に自分が出した指令にこだわりすぎて変えることをしなければ、変化に対応できずに逆にマイナスに作用してしまうこともあるのではないかと思う。状況の変化によってベストな対応策は変化して当然のこと。一度口にしてしまったから引っ込めるのは…とか一度出した命令はどんなことがあっても最後まで貫かなくては…と思いすぎてしまうと柔軟性や臨機応変さが失われてしまう。意味のない朝令暮改なのか、しっかりとした意味を持つ朝令暮改なのかは指令を出す側も、そして出される側もしっかりと理解をしておかなくてはならないだろう。
2023年02月07日
価値とは
子どもの頃に拾った石を何故か大切にしていたことを思い出した。宝石とは違っても、どんな石ころでさえも、丁寧に手をかけて磨いていけば、輝きを増していく。石ころだから無駄だと思って放置しておけば、本当に道端に転がっている石ころで終わってしまう。手をかけるとはそういうことなのだろうと思う。手にしたその石を大切に思い、大切に手をかけていくことで、輝きを増していき、自分にとって大切なものになる。宝石には宝石の価値はあるだろうが、ただの石でもそこに自分の思いやエネルギーや手間をかけることで自分にとっての価値が創造されていく。宝石のように誰かから与えられた価値ではなく、自分自身が作り出した価値。人に見せびらかすための価値ではなく、自分の心を豊かにしていく価値。石ころに限らず、人生の中でそんな自分にとっての価値というものを創造していける人生にしていきたいなと感じる。
2023年02月06日
何を成し遂げていくか
成し遂げてきたことよりも、これから何を成し遂げていけるのかに。成し遂げてきたことなど過去に過ぎない。人は過去に向かっては生きていけない。未来に向かって生きている。その未来に何を成し遂げていけるのか。そこに自分の力をどれだけ発揮していけるのか。力試し。何を成し遂げようがそれは全てが過去に流れていく。そうだとするなら、未来に繋がる今という時間の力試し。通用すればまだまだ力に余力があり、通用しなければ力が足りないということ。それを知りまた力を蓄えていく。人生はその繰り返しかもしれない。いつも、だからこそギリギリの力試しをしていきたい。それによって何を成し遂げていくかの何が変わっていく。
2023年02月05日
一つにとらわれない
『寸指測淵』考えの浅い行為。または、実際に行うことが不可能なこと。一寸の長さしかない指で、水の深い場所の深さを測ろうとするという意味から。改めて漢字の面白さと、表現力の豊かさに感服する。自分の指の長さ(自分自身のこと)と淵の深さ(相手や取り組もうとすること)を正確に理解しておかなくては、大失敗をしてしまうだろう。もし淵の深さが目で確認できないとしても、長い木の棒を突っ込んでみて底に届かないとすれば、指なんかでは到底測ることはできないことが分かる。長い紐の先に石をつけて沈めてもいい。相手のこと、取り組もうとすることを理解するのに、自分の中だけで勝手に判断をしてしまわないことが大切になる。判断をするための方法をよりたくさん発見することができれば、より正確な情報を得ていける。それがしっかりとできていれば、トンチンカンな行動をすることもなくなるだろう。指では永遠に測れない。しかし、指以外を使えば測る方法はいくらでもある。一つの方法だけにとらわれてしまうと、不可能を可能にはしていけない。
2023年02月02日
どこまでも……
どんなことも、永遠に分かることはないのだろう……自分が分かったと決めた瞬間が、ある意味で終わりとも言える。分かるということは、同時に分からないことも分かるということなのだと思う。分かるということは追い求めていけば、終わりがないこと。人はどこかで分かったつもりというキリをつけて生きているのかもしれない。人に対しても知識などにしても。そのキリのつけ方が浅いのか深いのかの違いはあるだろうが。全てに深くはいけないだろう。でも、せめて人でも知識でも、一つくらいは永遠に追い求めるものがあってもいいような気はする。終わりなき探求。分からないことの面白さ、分からないことの苦しさ。。。それこそが人生そのものなのかもしれない。
2023年02月01日
新たに
新しく技術を身につけていくためにはグズグズせずにサッサと取り組んでいこう!ただ早急な成果をソワソワ焦らずにジックリと取り組む。ジリジリせずにデンと構えて。できない今を見てガックリせずに、できるようになった未来を想定してワクワクしながら取り組んでいこう!イジイジせずにニコニコと!こんな感じで新しいことに挑戦していけるといいんだが。早急に、かつ、慌てず、焦らず、かつ、楽しんで。そして自分が自分自身に大きな期待を寄せてあげる。下手に悩んで時間を無駄にせずに、最大限に時間を有効に活用していけばいい。最初からできる人間なんていないんだから。だったら、できるようになるまで腹をくくって取り組んでいくぞ!と覚悟を持てば良い。