2023年10月31日
想いの共有は
何か想いを伝えようとしても、相手が必ずそれを受け取らなくてはならないということもない。いくら正確に言葉にしたと思っていても、相手にそれが間違って伝わったり、相手の違った解釈になることもある。相手のあることというのは、だからこそ難しいもの。伝わってほしいというのはあくまでも一方の考えであって、相手も相手で自分の想いを分かってほしいと考えているかもしらないのだから。よく相手に裏切られたと口にする人を見かけるが……裏切られたのではなく、相手はもしかすると自分の想いのままに言動をしたに過ぎないのかな、とも思ったりする。想いを一方的に伝えて相手も同じ想いを共有したと自分で勝手に期待をして、相手が予想外の言動をしたからといって、それは裏切られたというのとは少し違うのかもしれないなと思う。そもそも、想いの共有はなかったのだとしたら、相手の言動だって自由なはずだから。それを責めても仕方がないだろう。相手とは想いや考え方が違った、想いの交流がなされなかったというだけのことかもしれない。そこが人と人との難しさでもあるが、だからこそ想いを本当に共有できた時の喜びも大きいのではないかと思う。
2023年10月30日
人に
ふと振り返ると、実に多くの人の顔や様々な場面が脳裏に浮かぶ。この仕事をしてきた中で多くの人の力にもなれてきたとは思うが、同時に多くの人からたくさんの感動や力もいただいたなと改めて思う。何せ、この仕事は相手がいなければ成り立たない。その相手は様々な場面で自分に感動を与えてくれた。人生の中の時間にそのような時間をもたらせていただけたというのは本当に感謝である。人は一人では生きていけない。必ず人と関わりながら生きている。その関わり方がそれぞれの人の仕事や生活スタイルで違うだけのこと。人から色々なことを教わってきた。福山雅治さんの道標の歌詞「人に出逢い、人を信じ、人にやぶれて、人を憎み、人を赦し、また人を知る、風に吹かれ泣いて笑い生きるこの道、あなたの笑顔、それが道標」まさに自分の人生も多くの人の中にあって、自分の道を真っ直ぐに進んで来られたのだなと。悩んだり迷ったりもしたし、様々な感情の中でもがいたりもしてきたが、やはり最後には人からたくさんの感動をいただいた人生だったと心から感謝の気持ちで一杯になる。
2023年10月29日
仲間のために
仲間の笑顔のために全力を尽くしてみる。チームのために自分を犠牲にしてみる。自分の事以外のために全力を尽くしているようでいて、それは結果的に自分自身を育てていくことでもある。周りの力にもなり、自分も育つ、それは素晴らしいことだと感じる。自分さえ良ければではなく、仲間のために全力を尽くす時間があってもいいと思う。仲間のために自分の力を最大限に生かしていく、そうすれば自然に自分自身も生かされていく。自分だけのためなら妥協するようなことでも、大切な仲間のためなら妥協を許さずに取り組んでいけるかもしれない。それは知らず知らずのうちに自分自身を大きく力強くしていっているだろう。自分の力が仲間にも役立つことが喜びになり、さらなるモチベーションに繋がっていくかもしれない。自分のためにというのは大切だが、同時に仲間のためにというのも人間として生まれてきた以上は大切なことだと強く感じる。力なんて生かされなければ単なる宝の持ち腐れでしかないのだから。
2023年10月28日
改めて
人は失って改めて大切だったものに気づいたりもする。当たり前が当たり前ではないことを思い知らされる。当たり前の時には不平不満を抱いていたことも、無くして感謝の念がわいたり。災厄はその怖さと同時に人が生きる上で普遍的な大切なことも改めて教えてくれる。失う前に常に意識しておくのがいいのは当然だが、ともすると当たり前の中に生きているとついつい意識が薄れてしまうこともあるだろう。改めて。この改めてというのを人は災厄などで経験させてもらっているのかもしれない。人が生きるというのは、この繰り返しなのかもしれない…忘れ、改めて気づき、忘れ、改めて気づき…
2023年10月27日
胸を張って!
レギュラーになれないことは恥ずかしいことでも、情けないことでもない。今、レギュラーじゃないから、後の人生も活躍できない訳じゃない。だから、今の自分に胸を張って全力で打ち込んでほしい。腐らず、自分を見限らず、挑み続けてほしい。そんな姿勢を貫けることで未来を切り拓く力を育ててほしい。レギュラーかレギュラーじゃないかなんて、実は狭くて小さな世界の話。陽の目が当たらなくても黙々と自分がやるべきことを地道にやり続けられる姿勢。ふて腐らずに、投げ遣りにならずに自分の中で一歩でも二歩先でも目指していける姿勢。そこに恥ずかしさや情けなさなんてない。どんな状況でも、諦めずに最後の最後まで全力で取り組んでいく姿勢さえあれば、人生をどこかで切り拓いていけるはずだ。胸を張って生きていこう!!
2023年10月26日
シンプルに
生い茂っていた葉を綺麗さっぱり落としてしまうと、大きく見えた木も小さくシンプルに見える。物事も人も余分なモノを削ぎ落としていけばどんどんシンプルに身軽になっていく。等身大の自分で、等身大に様々な物事を見ていけたらいいと思う。大きく見せる必要もなければ、大きく見る必要もない。極力シンプルな自分でシンプルに物事に臨んでいければと思う。大きく見せて大きいなんて評価されたとしても、所詮は自分は自分自身でしかない。見栄を張る必要もなければ格好つける必要もない、権力をかざして強く見せる必要もない。そこに一生懸命になっていても、木々と同じでいつの日にか葉は落ちていく。その時に堂々とこれが自分自身なんだと胸を張って生きていける方が余程いい。生きてきた年輪をさらした幹を晒して生きていけばいい。いつも身軽な自分でいたいと思う。どう見せるかではなく、どう余分なモノを捨てていくのかを考えながら生きていたいと思っている。
2023年10月25日
向き合う
本当に人生を生きていると様々なことと出会うものです。全く予期もしなかったこと、ある程度は覚悟していたこと。そのどちらも人生は避けては通れない。しっかりと受け止めて、それを乗り切っていくしかない。悲しみに耐え、苦しみに耐え、辛さに耐え、それでも人生が続いていく限りはそれに向き合っていくしかない。様々なことが、様々な形で心にのしかかり、それが様々なことを自分自身に気づかせてくれたり、学ばせてくれたりする。目をそらしたくなるようなことがあっても、絶対に目をそらさずに向き合っていこうと思う。それだけの力はこれまでの人生の中で身につけてきたはずだから。最後まで目を見開き、とことんまで向き合ってみようと思う。
2023年10月24日
見極め
過保護や甘やかしはいけないが、保護していかないと崩壊する。誰が守ってくれる訳でもない。自分が自分自身の身体としっかり対話しなくてはいけない。アスリートは自分自身を鍛えていくのと同時に自分自身を守ってもいかなくてはいけない。このバランス感覚がなければ、自分自身が壊れてしまいかねない。ギリギリまで自分を追い込みながらも、ある一線は越えないように守ってあげる。過保護すぎると単なる甘ったれの自分になるし、保護しなければ心身共に崩壊してしまう。そのギリギリのバランスを保ちながら自分を鍛え上げていかなくてはならない。その見極めがとても重要になるのだ。
2023年10月23日
ルールとモラル
社会は法律で成り立っている。スポーツもルールで成り立っている。それを守ったからモラルがあるとは言えない部分がある。法律では挨拶は決められていない。法律を守っても挨拶ができない人だったら。。。そこに常識という問題が出てくる。罪には問われないが非常識な人としてモラルを問われてしまうかもしれない。スポーツでルールを守れないのは完全なペナルティーだが、ルールだけで語れる問題でもないように思う。松井選手の5連続敬遠なんかはルールは決して違反はしていない。しかし、一般的な世論という常識では相手投手や相手チームは批判を受ける形になった。ルールとモラルをついつい混同してしまう方も多くいるが、別物であることを意識して伝えていかなくてはならない。
2023年10月22日
頭も心も自由に
小さな頃はあらゆる面で、できないことは多かった。でも、頭や心はどこまでも自由だった。大人になるとできることはたくさん増えたが、頭や心が不自由になってしまった人が多いような気がする。生きていく中で、無意識のうちに様々な制限や限界や常識などに完全に縛られていってしまうのかもしれない。そして、自分ができるようになったことの範疇で生きていこうとするのかもしれない。そんな勿体ない人生にするのではなく、頭も心も自由自在に解き放ち、どんどん挑戦していける人生にしていきたいものだ。
2023年10月20日
冷静に検討
ダメだから試合に使わない!もっと練習して力をつけてこい!と言われても、選手は時に、何がどう悪いのか?何をどのように練習していけばいいのか?を解らない場合が多い。方向性や道筋の解らない檄は、時に選手を余計に迷走させてしまうことになる。冷静で具体的な指示が大切な場合もあるだろう。選手本人が指導者の求める意図を明確に理解していない、もっともっとの練習は場合によっては徒労に終わってしまうこともある。指導者自身も時に何となくダメだ、よく分からないけど練習が足りないんじゃないかという漠然とした感覚で檄を飛ばしてしまうこともあるだろう。指導者も選手も共に一緒に冷静に課題を検討していくことが大切なように感じる。
2023年10月19日
責任とは
やった事に責任を持つというのは、やったことをどれだけ論理的に考えて明確にその事を論理的に理論的に説明できるかということでもあるような気がする。スポーツであれ、人生であれ一瞬先の結果なんて誰一人分からない。要は分からないことに対して選択して采配を振るわなければ試合は何一つ進んでいかない。結果が悪ければ、結果論で監督を責めるというのは違うと思う。監督が結果はどうであれ、その時に何故その選択をしたのかを明確に論理的に理論的に説明ができれば、賛否両論あれど良いのではないかと思う。何となく采配したとか、あまり考えずに選択をしたというのは、仮に結果が良かったとしてもそれは単に運が良かっただけのこと。人は誰も一瞬先は未知。未知に対して選択して責任を持つというのは、そういうことのような気もする。今の日本は未知なるものに怯えて選択をできずにズルズル試合の流れを先延ばししているような気がする。それか結果が失敗に終わった場合のことを考えすぎて誰もが責任回避の準備をしているかのようにも感じてしまう。責任を持つというのは考え抜いた先に失敗した時のことも含めて覚悟を決めることなのだろう。
2023年10月18日
?のために
人がほんの少しでも余裕があるモノをほんの少しでいいから、自分以外の人のために使うことができたら、幸せな社会になるのではないか、と思ったりする。お金があればお金を。時間があれば時間を。体力があれば体力を……全部を自分が抱え込んだところで、一人の自己満足にしかならない。オードリーヘプバーンの『人間には二つの手がある。一つの手は自分のために。もう一つの手は自分以外の他人のために』のような言葉を昔、母親から教わり、自分の心の中に常に置いて生きるようにしている。自分の何かのモノが誰かの力になったり、幸せになったりするなら、それは自分だけの幸せより、もっと大きな幸せに繋がっていくと思う。でも。。。時に両手とも他人のためになっていたりすることがあるのも自覚したりする。少しは自分のために、というのも必要なのだろう。自分に対してはけっこう無欲に近いのもあるのかもしれないが。。。だから、ついつい自分のためにが薄れていたりする。
2023年10月17日
これからの指導者は
このメンタルトレーナーという仕事を始めて、30年弱になるが、始めた当初のプロ野球選手の気質と最近の選手とでは大きく違ってきたなと肌で感じることができる。プロの世界でもそうなのだから、時代と共にスポーツに取り組む子ども達の気質も大きく変わってきているのだろう。それと同時に選手を指導するコーチ陣にも指導法やコミュニケーションの取り方など変化や工夫が見て取れるようになってきた。
指導者の側が一つのことを指摘したつもりが、選手は自分が全否定されたかのように受け取る。発破をかけたつもりが、それをそのまま受け取り帰宅したり辞めてしまったり。厳しいことを口にするとすぐに萎縮して元気をなくす…試合に出場させなければ親から苦情が来る…
昔と比べるのはどうかとは思うが、違いを挙げればキリがない。それもそうだろう。子ども達の家庭での親子関係も、子ども達の学校などでの友人関係なども時代と共に変化しているのだから。コミュニケーションの手段もラインが主体になり、家庭でも怒られた経験もなければ、逆に家族の中で最優先に扱われて育つ。辛いことも親が先回りして回避させていく。
指導者の側も昔はこうだったと嘆くのではなく、時代に適応していかなくてはならないだろう。温故知新ではないが、昔からの大切なことは今なお大切にしながらも伝え方という手段を新たに考えていく必要がある。指導者は自分のやりたいようにやって自己満足に浸るために指導をするのが目的ではない。指導の目的はあくまでも子ども達を伸ばしていくことなのだから。
今の時代の子ども達の特徴を踏まえた上で、伝えるべきことをいかなる手段を使ってより伝わるようにしていけば良いのかを熟慮していかなくてはならないだろう。大人である自分達も過ぎし日を思い出してみると、このように指導を受けていれば…と思うようなことも多いのではないかと感じる。そういう意味では表面的には昔と今の子どもは違っているように見えて本質的な部分では大きくは変わっていないのかもしれない。
指導者の側が一つのことを指摘したつもりが、選手は自分が全否定されたかのように受け取る。発破をかけたつもりが、それをそのまま受け取り帰宅したり辞めてしまったり。厳しいことを口にするとすぐに萎縮して元気をなくす…試合に出場させなければ親から苦情が来る…
昔と比べるのはどうかとは思うが、違いを挙げればキリがない。それもそうだろう。子ども達の家庭での親子関係も、子ども達の学校などでの友人関係なども時代と共に変化しているのだから。コミュニケーションの手段もラインが主体になり、家庭でも怒られた経験もなければ、逆に家族の中で最優先に扱われて育つ。辛いことも親が先回りして回避させていく。
指導者の側も昔はこうだったと嘆くのではなく、時代に適応していかなくてはならないだろう。温故知新ではないが、昔からの大切なことは今なお大切にしながらも伝え方という手段を新たに考えていく必要がある。指導者は自分のやりたいようにやって自己満足に浸るために指導をするのが目的ではない。指導の目的はあくまでも子ども達を伸ばしていくことなのだから。
今の時代の子ども達の特徴を踏まえた上で、伝えるべきことをいかなる手段を使ってより伝わるようにしていけば良いのかを熟慮していかなくてはならないだろう。大人である自分達も過ぎし日を思い出してみると、このように指導を受けていれば…と思うようなことも多いのではないかと感じる。そういう意味では表面的には昔と今の子どもは違っているように見えて本質的な部分では大きくは変わっていないのかもしれない。
2023年10月16日
一人じゃなければ
人としても心から尊敬できる方から大切な言葉を気づかされた。一人じゃないという言葉。人は時に孤独になる。人は時に孤独に人生の中で頑張り続けなくてはならない。人は一人としか思えない時に、自分自身を本当には大切にできなくなるかもしれない。一人で全てが完結する世界の中に生きていると何を成しても、何を手にしても虚しいように感じる。そうなると、自分の心の叫び、自分の心の涙、そうしたものを心の奥に封じ込めて、それを無いものにしようとしてしまうかもしれない。それは自分を大切にできていることなのだろうか。。。もし、自分が一人じゃなければ、自分のことを本気で解ろうとしてくれる人がいれば、時に心の叫びを口にしてもいいのだろうし、心の涙を瞳から流してもいいのだろうと思う。どんな自分でも受け止めて包み込んでもらえるという心の底からの安心感。一人ではないというだけで誰かと喜びも悲しみも分かち合える。それは生きている実感を強く持てることなのかもしれない。その誰かだけは普遍的に変わらずに自分を見続けてくれるという安心感。そうすると人はもっとありのままの自分を認めていけるし、安心して物事に向かっていけるように感じる。
2023年10月15日
凛と
どんなに悔しい敗戦であっても凛とした姿勢を大切にしたい。対戦相手に尊厳のある気持ちとひとときの時間を共に戦えた感謝の念を大切にしたい。苛ついたり落ち込んでいたとしても、きっちりとした礼節を忘れずにいたい。敗戦で人間的に敗者にはなりたくはない。名選手である前に真の人間でありたい。ある競技をひたむきに続けていき、その中で単に競技だけ上達するのではなく人間的にも磨かれていきたいものだ。試合に勝とうが負けようが人間としては常に凛とした自分自身でありたいと思う。人間として大切なものを自分自身の中でしっかりと守り抜いていきたいものだ。勝った負けたでは人間の価値は図れないのだから。
2023年10月14日
やる!
まあ、できるかできないかは分からないが、少なくてもやることはできるはずだ。やってみてできないなら仕方ない。しかし、やる前から、自分の中でどうせできないんだから、やってもやるだけ無駄とやらないのはもったいないと思う。最初からできそうな計算が立つことばかりやっていたのでは限界を打ち破るどころか、自分の力は退化していくだろう。計算という予測は時に大切になるが、反対に時にはそんな計算なんかせずにアホみたいに、まずはやってみるという挑戦も大切になるのではないかと思う。この踏ん切りを持てるかどうか。できた?できなかった?の二分法ではなく、今の自分はここまではできた!でいいんだと思う。やった時点でもはやゼロではないんだから。後はやり続けて、できたの量や精度を高めていけばいいんだから。
2023年10月13日
ライバル
ライバルは自分と共に高みに進む道標。ライバルは妬む存在ではなく尊敬する存在。敵ではなく同じ高い志を持つ仲間。自分の成功、ライバルの失敗を望むのではなく、お互いの成功という一歩上の高みでの勝負を望みたい。そんなライバルなら、真剣に競り合いながらも、本気で分かり合える仲間になれる。そう、同じ高い志で高みを目指している相手とは必ず分かり合える。目先の勝った負けた以上に深い部分で必ず理解し合えるはずだ。そうなれないとしたら、それはライバルではなく単なる敵であり、商売仇でしかない。高みを目指すのではなく、単に目先の勝ち負けにとらわれているだけのこと。究極はライバルは関係ない。だって、ライバルがどうこうではなく、自分の実力を究極まで高めていけばいいのだから。ライバルとはそんな高みを目指す旅を共にする旅人仲間のようなものだから。
2023年10月12日
ストレートに
ストレートな生き方。僕はそんな生き方が好きだ。それはストレートしかないというのではなく、様々な変化球も巧みに操れる自分もいて、生き方の投球術も巧みな自分もいながら、それでも尚、敢えてストレートを選択して全身全霊で向き合う生き方をしていきたい。変化球でかわすのも悪いとは思わないし、投球術で頭脳戦に持ち込むのも悪いとは思わない。それは良い悪いではなく、好きかどうかなのかもしれない。自分が心地良いかどうか。真正面から向き合ってそこに真っ直ぐに全力を注げるのがとても心地良い。結果としてホームランを打たれるような望まない結果になっても、そこで自分らしく真剣勝負をできたのならそれでいい。恐れずにまた次にストレートに生きていく。
2023年10月11日
問題の全体像を
まずはグッと問題の中核に踏み込んでみて考えてみる。そこでは、主体的になって感じながら考えている。そして、次に問題から離れて距離を取って見つめてみる。客観的にできる限り観察をしながら考えている。変な例えかもしれないが、ボールが問題だと仮定すると、まずはボールが柔らかいのか固いのかを感じて、次にその形態の全体像を客観的に見て円い形なのを確認するようにしている。どちらが欠けていても、正確には問題を捉えきれないからだ。敵を知るではないが、問題も正確な実態を知らなければ対処を間違えたり、判断を間違えたりしてしまう。難問になると、この二つを何度も行き来する。その都度、ズレを修正しながら徐々に全体像を正確に掴んでいくようにしていくのだ。問題を正確に掴むことができるからこそ、正確な問題解決方法を選択していけるのだと考えている。
2023年10月10日
線香花火
夏休みに子どもの頃に家の庭でやった花火を思い出す。特に好きだったのが一番最後にやる線香花火。それまでの派手な花火はワクワクするのに対して、線香花火は目立った華やかさがある訳でもないし、寂しい花火だなと思ったものだが、その儚さ、その繊細さに何故だか凄く心惹かれたのを思い出す。華やかなものの中にある美しさもあれば、儚き寂しさの中にある美しさもある。前者の美しさが開放的な美しさだとしたら、後者は胸が締めつけられるような美しさかもしれない。自分の人生を考える時に、ふと線香花火のような人生っていいなと思ったりもする。誰ををも魅了する華やかな人生ではなく、誰かの心の中にささやかな心の温もりが残るような人生。華やかな余韻ではなく、せつなさのような余韻の残る人生。たぶん、自分の人生に派手なものを求めているのではなく、すごく情緒的なものを求めているのだろうと思う。
2023年10月08日
折り合いをつける
事実は決して消すことはできないのであれば、折り合いをいかにつけていくのかが重要になっていく。その事実を乗り越えようというのではなく、その事実と共に生きていく。苦難が立ちはだかった時に逃げずに立ち向かえと言われることもあるだろう。しかし時には立ち向かうことができない現実というものも世の中にはあったりするのだ。そのような時はゆっくりと時間をかけて折り合いをつけていくのも良いのではないかと思う。何もかも全て真正面から向き合って乗り越えようとしなくても大丈夫。あくまでも逃げるのではなく折り合いをつけるということ。そのためには無数の自問自答が必要となってくるのだろうが。
2023年10月07日
価値とは何だろう?
国宝のお碗も冷静に考えてみたら、本質的にはただの土(泥)なんだということ。ただの土に人間の創造力が加味されることで、そこに価値が生まれてくる。価値とは本当に不思議なものだと思う。場合によっては、本質的な金の塊よりも本質的な土の方が価値を見出だされるのだから。国宝のお碗も国宝だと言われなければ、場合によっては、ただの粗品くらいにしか感じないかもしれない。国宝だと言われるからこそ価値を感じるのかもしれない。土が人間の創造力によって形成され、その形成されたものを誰かが評価して国宝に昇華させられていく。そうなると、それは土の塊であっても崇高な価値になる。うん、うん、なかなか不思議なものだな、とふと考えてみた。
2023年10月06日
心の窓を
窓にカーテンを引いたままであれば、太陽の光も届かないし、外の景色も見ることができない。
窓が曇っていては太陽の光も雲って届くし、外の景色も雲って見える。
窓が歪んでいると太陽の光も歪んで届くし、外の景色も歪んで見える。
心の窓はどのような状態なのか。心を閉ざしているのか、心が曇っているのか、心が歪んでいるのか。それによって人からの愛情の受け止め方や、人や社会の見方が変わっていくのではないかと思う。
同じものでも、どのような心の窓を通して見るのかで全く違ったものになってしまう。見え方や捉え方が変わってしまえば当然、感じ方も変わっていく。
心の窓が小さければ、そこから見える景色は全体の一部でしかなくなる。心の窓が大きければ全体を見渡すことができる。
素直でいられるためには、いつも心の窓を拭いて透明感を保っていなくてはならない。そして、人や社会を正確に見るためには心の窓を大きくしていかなくてはならない。
窓が曇っていては太陽の光も雲って届くし、外の景色も雲って見える。
窓が歪んでいると太陽の光も歪んで届くし、外の景色も歪んで見える。
心の窓はどのような状態なのか。心を閉ざしているのか、心が曇っているのか、心が歪んでいるのか。それによって人からの愛情の受け止め方や、人や社会の見方が変わっていくのではないかと思う。
同じものでも、どのような心の窓を通して見るのかで全く違ったものになってしまう。見え方や捉え方が変わってしまえば当然、感じ方も変わっていく。
心の窓が小さければ、そこから見える景色は全体の一部でしかなくなる。心の窓が大きければ全体を見渡すことができる。
素直でいられるためには、いつも心の窓を拭いて透明感を保っていなくてはならない。そして、人や社会を正確に見るためには心の窓を大きくしていかなくてはならない。
2023年10月05日
内容は同じでも
卵5個を生で食べようとすると食べることが難しいだろう。しかし、5個を使って玉子焼きにするとペロリと食べられてしまう。内容は同じ卵5個なのだが、調理法によって食べられたり食べられなかったりする。何でもそうなのだろうが、ある物事をやるにしても、そのやり方をどうすれば楽しくなるかを考えてみると違ってくるのかもしれない。何かを伝えるにもある伝え方では伝わらないようなことでも、伝え方を工夫すれば伝わるかもしれない。内容は同じでも調理法を変えていく工夫が大切になるのではないかと思う。
2023年10月04日
動機
入部動機なんかどうでもいい。どんな動機であれ、〜をやるという最終決断を自分自身が下したのであれば、まずは全力で取り組んでいこう。そうすれば、自分の力でその動機を超えていけるだろう。入部動機なんて単なるスタート地点。その一歩先からの道が自分の道になるんだから。格好いいから、モテそうだから、人気あるから、レギュラーになれそうだから、仲良い友達が入るから…動機なんていい。ただし、どうせやるなら全力でやらなきゃ、何一つ面白くもないし、自分自身を育てていくことはできない。動機なんて、何かの部活に出会うための1つのきっかけみたいなもの。出会った先にどれだけ本気で付き合っていけるかで、その深みは全然変わっていくのだから。動機になんて縛られないで、どんどん挑戦していってもらいたい。充実した時間かどうかはスタートで決まるのではない。そこから先の道のりで決まっていくのだから。
2023年10月03日
越える
どんな形であれ、いままで自分の中でできない、やりたくない、と逃げ回っていたことに取り組んで自分の中の壁を乗り越えた時、凄い爽快感があるものだ。誰かに言われたからとか、誰かのためとか、誰かを見返すためとか、そんなことではなく、あくまでも自分のために。自分が心から手にしたいことのために。それから逃げ回っていたら、何も手にできないことを本当に自覚すること。楽をして何かなんて絶対に手にすることなんてできない。妥協すれば妥協した結果に甘んじるしかないのだから。越えないうちは、自分の中にある壁はとてつもなく大きなものに見える。とても越えられないように見える。しかし、どんな形であれ一歩を踏み出し、やることに決めた瞬間からもはや壁ですらなくなる。逃げ出さずに一歩という行動に変わったのだから。突き進んでいくしかないのだから。そして最後までやり切った時に出逢える新たな自分に爽快感や幸せを感じられることだろう。実は何かを手に入れることより、そんな自分の中での心の充足感の方がかけがえのないものだったりする。
2023年10月02日
ダメだの先に
もうダメだ…の先に新たな可能性があるし、そこからもうひと踏ん張りすることで力もつけていける。余力のある時はできるのは当たり前。もうダメだという心理的な限界値を打ち破った先に、今まで気づかなかった新たな自分を発見できる。それを打ち破れるのは最終的には自分自身でしかない。
ダメと決めつけてしまうと不思議なもので、どんどんダメな理由が浮かんできてダメに押し潰されてしまいそうになるもの。まだまだいけると自分自身を奮い立たせて自分が自分自身をさらに追い込んでいけるかどうか。スポーツではもうダメだからが練習と言われる。それは自分でダメから諦めに繋げないため。ギリギリまで追い込んでいく中でこそ今まで見えなかった新たな境地に辿り着いていける。
ダメと決めつけてしまうと不思議なもので、どんどんダメな理由が浮かんできてダメに押し潰されてしまいそうになるもの。まだまだいけると自分自身を奮い立たせて自分が自分自身をさらに追い込んでいけるかどうか。スポーツではもうダメだからが練習と言われる。それは自分でダメから諦めに繋げないため。ギリギリまで追い込んでいく中でこそ今まで見えなかった新たな境地に辿り着いていける。
自分に負けるな!!
誰に負けるより一番情けないのは弱い自分に負けること。これを一番知っているのは他でもない自分自身。他人は誤魔化せても自分は誤魔化せない。弱い自分はすぐに限界を作る。そんな弱い自分に打ち勝って、自分の限界を打ち破れる自分でありたいものだ。その積み重ねが自信に繋がる。人間は弱いものであるが、同時に自分の意志の力でいくらでも強くなっていける。どれだけ他人に勝とうが、どれだけ他人を誤魔化していこうが、自分を見ている自分自身が、自分はいつも妥協しているな…と感じていてはいくら積み重ねても弱い自分に敗北した自分を日々積み重ねているに過ぎなくなる。自分に打ち勝つ自分を日々少しずつでも積み重ねていきたいものだ。