2023年12月31日
やるからには
不平不満を口にしているとますます練習が嫌になっていく。嫌な顔になり気持ちも凹んでいく。どうせやらなきゃいけないなら、明るく楽しい雰囲気にしていきたい。空元気でも大きな元気なポジティブな言葉を口にして笑顔でやっていれば気持ちもそれに引っ張られて高まっていく。やらないならやらない。やらなきゃいけないなら最大限にやらなければそれこそ時間やエネルギーのロスになってしまうだろう。グダグダやっていたらそれこそ気持ちも身体もだらけていってしまい効率が悪くなってしまう。そのために何をするかはしっかりと考えて臨んでいきたいものだ。
2023年12月30日
ダメだの先に
もうダメだ…の先に新たな可能性があるし、そこからもうひと踏ん張りすることで力もつけていける。余力のある時はできるのは当たり前。もうダメだという心理的な限界値を打ち破った先に、今まで気づかなかった新たな自分を発見できる。それを打ち破れるのは最終的には自分自身でしかない。
ダメと決めつけてしまうと不思議なもので、どんどんダメな理由が浮かんできてダメに押し潰されてしまいそうになるもの。まだまだいけると自分自身を奮い立たせて自分が自分自身をさらに追い込んでいけるかどうか。スポーツではもうダメだからが練習と言われる。それは自分でダメから諦めに繋げないため。ギリギリまで追い込んでいく中でこそ今まで見えなかった新たな境地に辿り着いていける。
ダメと決めつけてしまうと不思議なもので、どんどんダメな理由が浮かんできてダメに押し潰されてしまいそうになるもの。まだまだいけると自分自身を奮い立たせて自分が自分自身をさらに追い込んでいけるかどうか。スポーツではもうダメだからが練習と言われる。それは自分でダメから諦めに繋げないため。ギリギリまで追い込んでいく中でこそ今まで見えなかった新たな境地に辿り着いていける。
2023年12月29日
楽しむ心
何故?子どもの頃はお金はなくても誰もが楽しく遊んでいたのに、大人になるとお金がなければ遊べなくなる人が多くなるのだろう。子どもの頃は楽しいと感じることは全て遊びだった。大人になると遊びはある程度定義されていき、その定義された遊びが楽しかろうが楽しくなかろうが、それをしたことで満足しようとする。子どもの頃は目の前の時間を楽しむことが目的だった。しかし大人になると遊ぶという行為そのものが目的になっていくのだろうか。楽しいことは子どもであれ大人であれ、実は身近なところにいくらでもあるのに、、、子どもはそれを楽しみ、大人はそれを楽しいと感じられなくなる。いくつになっても、楽しむ心や楽しみを作り出していく創造性を大切に忘れずに持てていると幸せなことなのだろうと感じる。
2023年12月28日
心のフィルター
意志(いし)も濁れば意地(いじ)になる。口(くち)も濁れば愚痴(ぐち)になる。徳(とく)も濁れば毒(どく)になる。という言葉がある。なかなか言い得ているように感じる。自分自身の心の奥底にあるものが例え清廉潔白な美しいものであったとしても、それがアウトプットされる途中経過のどこかで、自分自身の心が濁ってしまえば、もともとの想いが違う形になって表れてしまうということになるのだろう。確かに意志と意地は紙一重だし、親切とお節介も紙一重だなと感じる。優しさと馴れ合いだってそうだろう。本当にほんの些細な濁点があるかないかの差なのかもしれない。清濁あわせ持つという言葉もあるが、人間なんていうのは清だけの人もいないし、濁だけの人もいない。どちらも持ちながらも、どちらの色が色濃く出ているかということなのかもしれないなと思う。自分中心になれば濁が混ざり始めていくものなのかもしれない。
2023年12月27日
アドバイスに対して
自分に足りないものを気づかせてくれる人がいる。そのアドバイスを否定と取るか、伸びシロと取るのか。それを決めるのは自分自身。少なくても期待をしない相手には人はアドバイスなどはしない。アドバイスをその人が注いでくれる愛情と考えてみてはどうだろう。他人からのアドバイスに素直に耳を傾けられるのは自分が本質的な部分でしっかりと自信を持てているから。自信を持てていないと他人の言葉で自分が揺らいだり崩れたりするような錯覚にとらわれたりしてしまう。すると自分を必死で守ろうとしてアドバイスを拒否してしまったりする。相手も嫌がられてまで本来は言いたくはないだろう。。。それでも言ってくれるのは相手の愛情があればこそだったりもする。そのことを忘れないようにしていきたいものだ。
2023年12月26日
真の仲間とは
仲間は作るものというよりも、ある夢に向かって同じ釜の飯を食い、苦楽を共にし、汗し涙し笑い合う中で自然にできるもの。思い出も作るというよりも、辛くても悲しくても全力で乗り越えてきた時間、仲間と本気で熱く過ごしてきた時間が自然に思い出に変わるもの。今を真剣に全力で生きるだけのこと。仲良しごっこをして仲間作りをするのではなく、何かにお互いに全力投球することで絆が深まり結果として心が通い合う仲間になれたらいいような気がする。人の顔色を窺いながら八方美人になることよりも、お互いが本音をぶつけ合い時にぶつかりながらも真にお互いを理解していく。最初からピッタリ何もかも同じ人間なんていないのだから。時にぶつかることは当然。ぶつかったから仲が悪いということではない。ぶつかり合わないと仲は良さそうに見えるだけでお互いがお互いの腹の内を見せずに遠慮しているだけのこと。そんなのは本当の仲間とは言えないだろう。ただぶつかるのではなくお互いがお互いを理解しようとする姿勢を失わなければ。
2023年12月25日
夢に
夢が壊れる原因は大きく二つに分けられる。内的要因と外的要因ということになる。内的要因としては自分の実力不足とか自分のミスなどだ。それは決して誰かのせいにすることができない自分自身の問題と言える。外的要因とは自分の意思や行動とは全く関係ない何かが及ぼす影響となる。要は自分以外の原因によって夢が壊れる場合だ。それでも、外的要因の方が後々の心理的なケアは簡単なのではないだろうか。自己否定することなく、原因となった自分以外の要因を憎めばいいからだ。憎むことでストレスは解消されて、時間と共に恨み自体が薄れていく。その過程をはしょって立ち直った振りをしていても本当には立ち直れてはいないのかもしれない。
2023年12月24日
球道
球汚れなく道険し。球道。恐らく真っ直ぐに好きという純粋な想いを持ち続け、好きなことをどこまでも探求し続けることこそが球道なのではないかと思う。野球に限らず、どんなことでも探求心を持ち続ける限りは、簡単には答えは出ないだろう。まさに険しい道のり。でも…だからこそ面白い。険しい道を傷つきながらも一歩一歩、好きな想いに駆り立てられるように進んでいく。自分の答えを見出だしていく。ひたむきに真っ直ぐに。それは好きなことだからこそ進んでいける道なのだろう。
2023年12月23日
大の中の小
『則天去私』小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きて行くこと。「則天」は天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと。「去私」は私心を捨て去ること。夏目漱石が晩年に理想とした境地を表した言葉のようだ。小さなことにとらわれていると、大きなことを見失っていく。すると大きな流れをつかめなくなる。小というのは、大の中の一部。今回のコロナに限らずあらゆる自然災害は、人間のエゴが強くなりすぎてしまい、世界、地球規模の大きなものへの意識が薄れてしまったことも一因としてある。小さなエゴがどれだけ何をやろうが、大きな自然は支配することはできない。今回のことで人間という自然界の一部が大きな自然界に意識が向き、この言葉のような生き方を積み重ねていければ、大きな流れの中で順応して生きていけるのではないかと感じる。
2023年12月22日
試練と向き合う
試練を与えられた時にそれを苦しみと捉えず、今まで練習してきた事を試すんだと考える。重いものではなく、その場だけで乗り越えられるものでもなく、日々どれだけのことを積み重ねてきたのかが問われるもの。試練は一朝一夕にその場しのぎでは太刀打ちできない。が、必要以上に恐れるものでもない。試練に直面して苦しくて辛くて涙を流すくらいなら我慢してその何倍も汗を流して練習しよう。試練に対して愚痴をこぼすくらいなら黙して背中で行動して示していこう。試練から逃げようと迷うなら潔く決断してどうやればできるのかを頭に汗して徹底的に悩んでいこう。試練が与える怖さに震えるなら怖さに打ち克つくらいの練習を積み上げていこう。全ては自分との戦い。日々の積み重ね。試練に耐えうる力を日々作り上げていかなくてはいけない。これはスポーツであろうが他のことであろうが変わらない。試練は一日にして越えられず、しかし怖いものではあらず。積み上げてきたものの真価を試される時であるだけのこと。
2023年12月21日
大人の挑戦
子どもの頃は七転び八起き。失敗を恐れず立ち向かい、失敗してもすぐに挑戦する。悔し涙を流しながらもひたむきに立ち向かっていく。失敗する怖さより、成功する喜びが勝っている。というより、失敗なんて恐れてなかったはず。そんな子どもの頃の思いをいくつになっても大切にしていたい。大人になるというのは怖さを知ることだとよく言われるが…怖さばかりが先立ち身動き一つ取れなくなるような寂しい大人にはなりたくはないと感じる。子どもの頃のように失敗しようが次にまた平然と挑んでいけるような大人でいたいと思う。これは意識しておかなければ日常での様々な失敗から人はどんどん小さくなっていってしまう。身体ばかり大きくなるが、心はどんどん小さくなっていってしまう。それでは大人になることはつまらないことではないだろうか。大人になった今こそ、どんどん挑戦していけるのだから。
2023年12月20日
自分自身の幅を
心の余裕というのは本当に大切だなと感じる。心の余裕とは生き方の幅にも関係しているように思う。線の上をギリギリに歩いていると神経を磨り減らしていくし、周りを見渡したり、何かを感じたりできなくなる。
しかし、ある程度の道幅があれば、多少ははみ出しても問題ないし、周りをゆっくりと眺めながらでも大丈夫。生き方も、自分自身の生き方の幅が狭いとキュウキュウになり生きづらくなるだろう。そうすると心の余裕もなくなっていく。
では、広ければいいのか?広いとはみ出すことがない分、余裕は生まれるが、それが油断に繋がることが多いような気がする。余裕を持って周りをよそ見し過ぎてノロノロのスピードになったり、周りを見すぎて足下の障害物に気づかずにつまずいてしまったり。。。
ある程度の緊張感も保ちながらの余裕が持てる生き方が丁度いいのではないだろうか。人にはそれぞれの生き方の幅と心の幅がある。時には自分自身の幅を立ち止まって確認してみるのもいいかもしれないなと思う。
しかし、ある程度の道幅があれば、多少ははみ出しても問題ないし、周りをゆっくりと眺めながらでも大丈夫。生き方も、自分自身の生き方の幅が狭いとキュウキュウになり生きづらくなるだろう。そうすると心の余裕もなくなっていく。
では、広ければいいのか?広いとはみ出すことがない分、余裕は生まれるが、それが油断に繋がることが多いような気がする。余裕を持って周りをよそ見し過ぎてノロノロのスピードになったり、周りを見すぎて足下の障害物に気づかずにつまずいてしまったり。。。
ある程度の緊張感も保ちながらの余裕が持てる生き方が丁度いいのではないだろうか。人にはそれぞれの生き方の幅と心の幅がある。時には自分自身の幅を立ち止まって確認してみるのもいいかもしれないなと思う。
自分自身の幅を
心の余裕というのは本当に大切だなと感じる。心の余裕とは生き方の幅にも関係しているように思う。線の上をギリギリに歩いていると神経を磨り減らしていくし、周りを見渡したり、何かを感じたりできなくなる。
しかし、ある程度の道幅があれば、多少ははみ出しても問題ないし、周りをゆっくりと眺めながらでも大丈夫。生き方も、自分自身の生き方の幅が狭いとキュウキュウになり生きづらくなるだろう。そうすると心の余裕もなくなっていく。
では、広ければいいのか?広いとはみ出すことがない分、余裕は生まれるが、それが油断に繋がることが多いような気がする。余裕を持って周りをよそ見し過ぎてノロノロのスピードになったり、周りを見すぎて足下の障害物に気づかずにつまずいてしまったり。。。
ある程度の緊張感も保ちながらの余裕が持てる生き方が丁度いいのではないだろうか。人にはそれぞれの生き方の幅と心の幅がある。時には自分自身の幅を立ち止まって確認してみるのもいいかもしれないなと思う。
しかし、ある程度の道幅があれば、多少ははみ出しても問題ないし、周りをゆっくりと眺めながらでも大丈夫。生き方も、自分自身の生き方の幅が狭いとキュウキュウになり生きづらくなるだろう。そうすると心の余裕もなくなっていく。
では、広ければいいのか?広いとはみ出すことがない分、余裕は生まれるが、それが油断に繋がることが多いような気がする。余裕を持って周りをよそ見し過ぎてノロノロのスピードになったり、周りを見すぎて足下の障害物に気づかずにつまずいてしまったり。。。
ある程度の緊張感も保ちながらの余裕が持てる生き方が丁度いいのではないだろうか。人にはそれぞれの生き方の幅と心の幅がある。時には自分自身の幅を立ち止まって確認してみるのもいいかもしれないなと思う。
2023年12月19日
心の法廷速度
車のスピードを上げていくと、視野が狭くなり、近くが見えにくくなる。同じように人は感情を高ぶらせてしまうと視野は狭くなってしまう。感情のアクセルを踏みすぎてしまうと、知らない間に焦って心のスピードが勝手に上がってしまう。周りを見る余裕が失われていく。そうすると大切なことを見落として大きなミスをしてしまうだろう。道に法廷速度があるのは、その速度の範疇なら、その道ならその速度で走る限りは適正な余裕を持って冷静にいられるということだろう。人間も同じような気がする。取り組む物事を進めていく道で、適した感情や心のスピードというものがあるように思う。狭く入りくんだような物事を進めていくような状況で感情を高ぶらせて心のスピードを上げても結果として当然のように事故を起こしてしまうだけだろう。物事を進めるに当たっては自分の心の法廷速度を定めておくことが大切になる。それをオーバーしないように常に意識をしておくこと。ある程度自分自身を抑制しておけるようにすること。
2023年12月17日
練習と試合
練習はできないことをできるようにするためにやる。試合はできることを全て出し切るためにやる。練習でできることばかりやって満足し、試合で普段できない無謀なことをしようとするのは本末転倒。練習はできなくて当たり前。試合はできて当たり前。練習では欲を出し、試合では欲を捨ててありのままで。まあ、極論ではあるが、でも、そんな感覚は大切になる。練習では自分を追い込み、試合では自分を解放していく。練習ではどんどん背伸びして、試合では等身大の自分で挑んでいく。
2023年12月16日
素直に
白紙には何でも書ける。過去も書けるし、未来も書ける。文字も書けるし、絵も描ける。写真だってプリントできる。好きな色だってつけていける。白紙は無ではなく実は無限の可能性を秘めているものなんだろう。しかも規定されずに自由自在に自分を表現していくための。恐らく心が素直な時は自分に対しても人に対しても白紙の状態で接することができるのだろう。何にも妨げられることなく、心のノートにありのままを刻み込んでいけるのだから。そのためには常に心の中をクリアーにしておかなくてはいけないだろう。
2023年12月15日
陰の力
本当に凄い実績を残す選手は地味なことを地道に継続できている。競技の練習をするのは当たり前で、それを支える地味なことにしっかりと意識を払いながら、大切に継続できている。他人の目に決して触れることのないこと。それを自分のために欠かさず続ける強さ。これが選手の底力を支える。派手な練習、好きな練習は楽しいだけでもやっていける。しかもやった!感がある。地道なことはそれ自体は何も楽しくはない。しかも特別にやった!感はない。それでも地道に続けていける強さこそ大きな力になっていくものだろう。実績の大きさとは、それ自体が目に見える氷山の一角でしかない。それを支える大部分は陰に隠れているのかもしれない。地味なことはバカにできない。それこそが技術的な土台、人間的な土台になるのだから。それができるかできないかで未来は大きく変わることだろう。
2023年12月14日
集団
おでん。小さな鍋の中で様々な具材が一緒に煮込まれている。その中で誰が一番人気ある具材なのかを競い合う。たかだか小さな鍋の中の話なのに。しかし、どの具材も実はメインになりうる。こんにゃくは味噌田楽では主役だし、卵は目玉焼きで。個々でも単独に生きていける者達が集まって鍋という組織の中にいるからこそ美味しくなるのだろう。そんな中で小さな競い合いをするくらいなら、自分の持ち味を最大限に出し切って、鍋の中全体をさらに美味しくしていけばいい。個々が出した旨味が全体に融合して全体の旨味になり、全体の旨味がさらに個々の旨味を引立てていくような循環。それこそがまさしくお互いを生かし生かされることのような気もする。ただし、人気競争でなく、自分自身の旨味を常に高めていかなくてはならない。全体の一部だからいいやっていう個が集まっても意味はないのだから。個でも主役に立てるだけの自分だからこそ。
2023年12月13日
希望という太陽
心の中が太陽の見えない雨のような状態でも、決して太陽がなくなった訳ではないことを忘れないでいたい。雨雲に隠れているだけで、太陽は変わらずに存在する。希望の光は自分があると信じて見続けていけば、今は消えたように見えても必ず姿を現してくれる。厚い心の雲の向こうには希望は必ずある。今は見えないから永遠に見えない訳ではない。雨空が永遠に続かないように…しかし見るのを諦めて投げ出して見なくなれば見えない状態は続いていくことだろう。見続けるというのはエネルギーの必要なこと。希望が変わらずにあることを疑いなく信じ抜いていなければ持てるものではない。見続けていれば見失うことは決してないと信じ抜く自分を大切にしていきたいものだ。
2023年12月12日
夢への挑戦
夢への挑戦に年齢なんて関係ない。自分が挑戦したいと思えた瞬間がチャンス。夢が成功か失敗か他人は様々な評価を下すだろう。いかなる結果が待ち構えていようが、自分自身が後悔しないことが人生の一番の成功かもしれない。人生はたった一度切り。挑戦できるチャンスがあるなら挑戦した方が後悔はない。そんか自分自身に対して自分が成功と評価できればそれは成功。夢を追う道のりは厳しいだろう。しかしその道のりは自分を最大限に鍛え磨いてくれるだろう。たくさんの苦しみもあるだろう。それは人間としての深みを形成してくれる。夢がある。こんな素晴らしいことがあるだろうか。できそうなことを当たり障りなく成功させる。そんなものは夢でも何でもない。夢を描き、例え周りから無謀な挑戦と言われようが、いても立ってもいられず突き動かされるように夢に向かって突っ走る。人生の中でこんなにも豊かで輝きに満ちた時間はあるだろうか。そんな挑戦に周りがああだ、こうだと言えるものではない。
2023年12月10日
熱感
何かをやろうとする時に、僕は熱感を大事に考えている。今からやろうとしていることに対して、一度損得などを一切頭の中から取り払って、自分の中でどれだけ情熱を燃やして取り組んでいけるのかを、心の中でじっくりと感じて味わってみる。もちろん、仕事だから情熱だけで動けるものではないのだが。しかし、仕事だからと言って自分の中で情熱を全く感じられないのに受けるというのは、相手に失礼にな気がする。だからこそ、受けたからには本気で情熱を傾けてしまう。意識して傾けようというのではなく、自然に傾けてしまっているという感じだ。熱感は自然に人を突き動かしていくもののような気がする。相手と自分とでその熱感が呼応して、それがさらなる熱感が生まれ、お互いが情熱を傾けて本気で取り組んでいければ、結果として良い仕事になっているものだ。
2023年12月09日
指導者
指導者とは太陽や月のような存在なのかもしれない。選手とのある一定の距離を保ちつつも、いつも変わらずに選手を見守り続ける。そしていかなる時も寄り添い続ける。
時に太陽のようにその熱で選手のことを照らし、選手を温かく包み込む。そして時に月のように暗闇に迷った選手を一条の光で導いていく。
どんなに選手の心が迷い、悩み、雲が広がっていようが、時にその存在が選手の方から見えなかったとしても、変わらずにそこに居て選手を照らし続けていく。雲があろうが、その熱や光は選手の元に僅かでも届き、選手を優しく包み込んでいく。
選手には春の木漏れ日のような優しさで、夏の燃え盛る情熱で、秋の愁いのある落ち着きで、冬の北風のような厳しさで。その時々で形は変えても決して選手を見離すことなく、いつもその根底には愛情がある。そして熱と光を送り続けていく。
時に太陽のようにその熱で選手のことを照らし、選手を温かく包み込む。そして時に月のように暗闇に迷った選手を一条の光で導いていく。
どんなに選手の心が迷い、悩み、雲が広がっていようが、時にその存在が選手の方から見えなかったとしても、変わらずにそこに居て選手を照らし続けていく。雲があろうが、その熱や光は選手の元に僅かでも届き、選手を優しく包み込んでいく。
選手には春の木漏れ日のような優しさで、夏の燃え盛る情熱で、秋の愁いのある落ち着きで、冬の北風のような厳しさで。その時々で形は変えても決して選手を見離すことなく、いつもその根底には愛情がある。そして熱と光を送り続けていく。
2023年12月08日
知恵と智恵
『知者不惑』という言葉がある。賢者は物事の道理を分かっているから惑うことはないという意味だ。僕はこれを『智者不惑』なのではないだろうか?と考えている。知恵は損か得かの頭の使い方。智恵は真か偽かの頭の使い方。損か得かの頭でいると逆に判断に惑うような気がする。物事の真実を探求して真なるものに辿り着けた時に、人は初めて判断に戸惑わなくなるように感じる。知恵は知識の収集で対応できる部分も大きいが、智恵は探求して探求してその先に自らが見出だす哲学のようなものだと思う。知識は他人の情報。哲学は自分が作り上げたもの。だからこそ、周りに左右されずにブレることがないように思ってしまう。
2023年12月07日
信じる力
クリスマスイブの夜にサンタクロースを信じて寝たり、七夕の夜に短冊に願いを込めて書いたり…あの頃は純粋に幸せな気分だったなぁ、と感じる。何かを無条件に信じられる力というのは、それだけで幸せなことなのかもしれない。心が純粋であるというのは幸せを感じる心の在り方かもしれないとも思う。子どもの頃のようにはいかないが、でも子どもの頃のそんな気持ちを心の中に残していられたらな…と思う。少なくても自分が描く夢や自分が進む道は強く信じてワクワクしながら進んでいきたいと思う。
2023年12月06日
終わりなき道
どこまで行ってもそこで慢心せずに発展途上でいたいと思う。成熟はしても、成熟し切ってしまえば、あとは落ちるだけ。だからこそ、しっかりと自分の実力なるものは評価しつつも、まだまだここから!という意識は持ち続けていきたいと思う。形のないものには、終わりはない。ここで完成というのもない。だからこそまだまだ探求し追求していくことはできる。どこまでも極めようとしても、最期の瞬間まで極め切ることができないだろう。たった一つのことでも、どこまで行っても終わりのない道。慢心してここで終わりと自分が感じない限りは終わりのない道。
2023年12月04日
小さな勇気
周りの空気に流されることは簡単なことだ。しかし、流されることで誰かが傷ついたり、大切な自分を見失ってしまうくらいなら、周りの空気を止めるくらいの勇気は持っていたいと思う。周りの空気というのは、時として周りの全員で一人の人間を追い込んでしまうことがある。大した考えもなかったり、何となく調子を合わせたり、大した悪気がなかったとしても、その空気に流された時点でその群衆の中の一人に加味したことになるのだという意識を忘れたくはない。空気を止めるのは勇気のいることだろう。でも、誰かが深く傷つけてしまうことに比べれば、それを持てることもとても大切だと感じる。誰かを追い込んでしまうときっと自分自身の心の中に消えない後悔が残るはず。群衆の中の一人だったでは済まなかったりするのだから。その時には勇気のいることかもしれないが。でも、何よりも大切な勇気なんだと思う。
2023年12月03日
言葉と拳
言葉は人を癒す、勇気づけるために使えたらいい。手は人を支え、そっと手を添えていくために使えたらいい。言葉も手も使い方を間違えると人を心身共に深く傷つけてしまう。言葉も手も心の在り方の表れ。心を愛情や温かさで満たしていければ、それは言葉と手を通してたくさんの人へと広がっていく。せちがない、自分勝手な自分さえ良ければみたいな殺伐とした社会にあって、心の中にほんの少しでも愛情や温かさを。そしてそれを人へと繋げていけたらと思ったりもする。一人の人の心がたくさんの人の心へと。それがどんどんさらに人から人へと広がっていく。心ある人が適切に言葉や手を生かしていってほしいと願う。言葉や手で人を傷つけても、その先には殺伐としたものしか残らないんだから。人が人を大切にしていける社会にしていかなくてはいけないだろう。
2023年12月02日
目に見えないミス
表示されるエラーはミスによるもので、どんな一流選手でも必ずミスはある。これは人間である以上仕方がない。問題は表示されないエラー。ヒットの表示になる。これは選手の実力の問題になる。ヒット性をどれだけ潰してアウトにできるのか…ここはミスではない分だけ一朝一夕にいかない難しさがある。ミスに見えないミス(実力)ほど怖いものはない。下手をすると本人もそのことに気づけずに流してしまう可能性もある。気づけなければそこで満足してしまい、自分の実力の範疇でミスがないことで自分は優れているんだと勘違いを起こしてしまいがちになる。ある意味目に見えるミスは分かりやすくていい。満足することなく自分自身をどこまでも高めていきたいものだ。
2023年12月01日
念
何事もそうだが、ギリギリまでは決して諦めることなく執念で食い下がることは大切だと思う。しかし、それが終われば、絶対に念を残さない潔さもそれ以上に大切なことなのではないかと思う。念とはとても強い人間の心。ベストを尽くしてやりきった先に出た結果に対しては潔く受け止める。念とは強い力を持つため、過程においてはそれが諦めない気持ちを掻き立ててくれたりもするが、マイナスの結果に対して念を残してしまえばそれは大きなマイナスのエネルギーとして自他共に深く傷つけてしまうことにも繋りかねない。怨念なんてまさしくその例なのではないかと感じる。そんなものを残して生きていたくはない。常に人間は目の前の過程には尽力できるが、最終的な結果まではどうにもできないのだから。やれることはやりきる。結果が出てしまえば、出た結果はどうにも変えられないのだか潔く受け止める。それでいいのではないかと考えて生きている。