2024年06月30日
切り拓いて
誰もが強豪校でやれる訳ではないし、恵まれた環境でやれる訳ではない。ないない尽くしの中にあって、様々な『ない』を理由に無理と諦めたくはない。ないならないなりに発想を変えたり、工夫したりしていきたい。ないなら、言い訳をするより、代わる何かを積極的に生み出していきたい。そりゃあ、あるある尽くしの方が目指す目標への近道の可能性が高いことは言うまでもないだろう。しかし、近道に乗れなかったから目指す目標に絶対に届かないとも言えない。遠回りになるかもしれないし、道なき所に新たな道を作っていかなくてはならないかもしれない。今、自分が身を置いている環境の中で諦めずに切り拓いていくことが大切になるだろう。少なくてもその環境を選択したのは他でもない自分自身なのだから。
2024年06月29日
夢を!
甲子園。高校生なんだから、いいじゃない!ドデカイ夢を持ったって。夢を堂々と語ったって。どれだけ険しい道でも夢を本気で追いかけたって。夢に挑戦する権利があるんだから。例え夢破れても、そんな高校時代は人生の中の夢のような時間としてずっと心に刻まれるから。夢の舞台はそこにあるんだから。目標みたいな現実的なものじゃなくて、周りからアホか?って言われるくらいの夢。何だっていい、そんな時代を高校生には過ごしてもらいたい。そして、その何かに向かって一心不乱に打ち込んでいく。それができるかけがえのない時間なんだから。夢が叶おうが叶わなかろうが関係ない。大切なのは本気で夢を持てて、本気で夢を追いかけられたことなんだから。夢破れることなんて恥ずかしいことでも、情けないことでも何でもないんだから。夢を持てた自分を誇りに感じて欲しい。
2024年06月27日
過程
失敗と妥協は違う。全力を尽くしての失敗は次に何かしら繋がっていく。しかし妥協してのそこそこの成功は、本当にその場限りで終わってしまう。目先では失敗と成功と結果は分かれるが、そこに至るまでの過程の違いが今後を大きく左右していく。また目先の成功がその先の成功と必ずしも繋がらない場合もある。例えば野球のゴロ捕球にしても極力後ろの方で守り、チャージをかけずに待って捕ればエラーは少ないだろう。しかし、積極的に前方にチャージをかけていけばエラーをする確率も上がる。前者は捕球ミスはないかもしれないが送球が間に合わずアウトにできないかもしれない。後者は捕球ミスは起こるリスクはあっても送球が間に合わないということはない。何を最終的な成功とするのかで、そこに至るまでの過程が違ってくる。それはスポーツに限らず何事においても言えることだろう。
2024年06月24日
時には自己を主張
三方良しというが、いざ!という時には全ての意見に耳を傾けて全てに応えていこうとしてしまうと、目指す方向性に一貫性が見られなくなるし、判断がことごとく遅れてしまい、さらには行動力が鈍くなってしまう。今回のコロナに対しての政府の対応はどうしても後手後手に回ってしまったように感じる。平時の取り急ぎの案件がない時であればそれでもいいのだろうが。。。いざ!至急!を要する際には、やはり全てに良しとはならないだろうし、全てから納得を得られることも賛同を得ることもできないかもしれない。それでも、責任を全うして一貫性を保ちながら、素早く決断して行動に移していくことも大切なのだろう。これは国という大きな単位だけではなく、会社やスポーツチームなどの組織でも同様のことが言えるだろう。時には八方美人ではなく、明確な自己主張も求められることもあるように思う。
2024年06月23日
自分への負けず嫌いを心がける
大人になって改めて振り返ってみると、幼少期の頃から人と自分を比較されながら育てられた経験が多いのではないかと思います。親から「〜ちゃんはもう自転車の補助輪外せたのに、あなたはいつまでつけてるの」とか学校の先生から「〜くんはこんなに良い点数を取れてるのに何で君はこんな点数なの」など。挙げればきりがないことでしょう。すると、人は自分の立ち位置を周りと比較して認識するという思考が植えつけられていくのです。しかし、比較から生まれるのは誰かより上なら優越感、誰かより下なら劣等感のいずれかしか生みません。優越感に浸っていると自己満足に繋がっていきやすいですし、劣等感に浸っていると無力感に繋がっていきやすいものです。要は優越感も劣等感も人が何かに取り組む上での根本的なモチベーションには繋がらないということです。誰かや周りに対しての負けず嫌いよりも、自分が自分自身に対して負けず嫌いでありたいものです。誰かや周りと比較して優越感や劣等感を感じるよりも、今日の自分が昨日の自分をほんの少しでも乗り越えて力をつけられたことを自信にしていきたいものです。自分の中での少しの成長でもいいので、それを自分でしっかりと評価して「自分はやればしっかりと力をつけてきている。ここまでできるようになったのだから、もっとできるようになれる。」というようにモチベーションに繋げていくと良いと思うのです。自分が自分自身の実力を高めていけば、他者と比較しなくても気づけばその実力にふさわしい立ち位置を任されている可能性は高いと思います。周りを気にしてキョロキョロしている暇があったら、もっと真剣に自分自身を見つめてみるといいと思います。もし、自分が自分自身に負けているようなら、他人に対して負けず嫌いがどうのこうのという話ではありません。自分に負けてやることもやらないで、人と比較して自分はダメだと落ち込むようなことは意味を成しません。
2024年06月21日
一つ
たった一つのコツを掴む。一つのキッカケを掴む。この一つが大きく飛躍したり、長年やれる要因になったりする。しかし一つと言ってもその一つを掴むまでには無数の試行錯誤の連続がある。途中で諦めたり投げ出せば、その一つには巡り合えない。その一つには無限の可能性が秘められている。ゼロから一を産み出していく。ゼロはいくら積み上げても、掛け合わせてもゼロだが一はどんどん積み上がり広がりを持っていく。たかが一つと思わずに、懸命に一を追い求めてみればいいと思う。
2024年06月20日
尊重と放任
選手を尊重するということは現場の指導者としてはなかなか難しいことと思われるのではないでしょうか。選手の自主性に任せてしまって失敗された経験も多いのではないかと思います。
尊重と似て非なるのが放任。尊重とはあくまでも相手が明確な意見を持てていることを理解した上で、その意見を実行させてあげることだ。反対に放任は相手の意見もさほど聞くこともなく全て丸投げで任せてしまうことです。
指導者の中にはこの区別がしっかりとついていない方もいらっしゃるのかもしれません。そうなると自分では選手を尊重しているつもりでも、結果としては放任になっている可能性もあるということです。
尊重ということは、選手と指導者との考え方に違いがあり、そのどちらの考え方を実行に移していこうかということがあるから出てくるのです。違いがなければ尊重ではなく、同意見だよねとなる訳です。
尊重をするための第一歩としては、まずはお互いの考え方の〃違いの部分〃をしっかりと認識することから始まります。ここが曖昧だと放任に向かっていきやすくなります。
次にその違いを生み出している考え方の要因を炙り出していくのです。例えば打率を上げたいという目的のために選手の側はフルスイングしたいという意見だったとします。それに対して指導者の側はミートバッティングをさせようという意見だったとします。
違いの部分は明確になりました。選手の側は「空振りしても思いきり振らないと迷いが生まれてしまう。」という考え方だとします。指導者の側は「空振りの数を減らすためにはコンパクトに振った方がボールをとらえやすい。」という考え方だとします。
こうなると意見の違いを生み出している要因は空振りに対する認識の違いによるものなんだと両者が理解できることでしょう。さらにここで話を深めます。選手は空振りしてもいいと考えるのは何故か?指導者の自分は空振りが嫌だと考えるのは何故か?と考えてみることです。
選手は「例え空振りしても思いきり振れることで自信を持って打席に立てる。」という考え方だとします。指導者の自分は「自分は空振りすることで打席で負けたような気がする。」という考え方だとします。ここまで話すと、これは個人の空振りに対してのメンタリティーの問題だと気づけることでしょう。
そこで初めて、実際に打席に立つのは指導者の自分ではなく、選手なのだから選手のメンタリティーが良い方向に向かう方を優先させて尊重してあげようという考え方になるということです。
こうした話し合いのない選手任せが放任なのです。選手がやりたいようにやらせてあげるというスタンスになってしまいます。尊重とは、あくまでも話し合って両者でしっかりと合意した上で選手を優先させてあげることなのです。
尊重と似て非なるのが放任。尊重とはあくまでも相手が明確な意見を持てていることを理解した上で、その意見を実行させてあげることだ。反対に放任は相手の意見もさほど聞くこともなく全て丸投げで任せてしまうことです。
指導者の中にはこの区別がしっかりとついていない方もいらっしゃるのかもしれません。そうなると自分では選手を尊重しているつもりでも、結果としては放任になっている可能性もあるということです。
尊重ということは、選手と指導者との考え方に違いがあり、そのどちらの考え方を実行に移していこうかということがあるから出てくるのです。違いがなければ尊重ではなく、同意見だよねとなる訳です。
尊重をするための第一歩としては、まずはお互いの考え方の〃違いの部分〃をしっかりと認識することから始まります。ここが曖昧だと放任に向かっていきやすくなります。
次にその違いを生み出している考え方の要因を炙り出していくのです。例えば打率を上げたいという目的のために選手の側はフルスイングしたいという意見だったとします。それに対して指導者の側はミートバッティングをさせようという意見だったとします。
違いの部分は明確になりました。選手の側は「空振りしても思いきり振らないと迷いが生まれてしまう。」という考え方だとします。指導者の側は「空振りの数を減らすためにはコンパクトに振った方がボールをとらえやすい。」という考え方だとします。
こうなると意見の違いを生み出している要因は空振りに対する認識の違いによるものなんだと両者が理解できることでしょう。さらにここで話を深めます。選手は空振りしてもいいと考えるのは何故か?指導者の自分は空振りが嫌だと考えるのは何故か?と考えてみることです。
選手は「例え空振りしても思いきり振れることで自信を持って打席に立てる。」という考え方だとします。指導者の自分は「自分は空振りすることで打席で負けたような気がする。」という考え方だとします。ここまで話すと、これは個人の空振りに対してのメンタリティーの問題だと気づけることでしょう。
そこで初めて、実際に打席に立つのは指導者の自分ではなく、選手なのだから選手のメンタリティーが良い方向に向かう方を優先させて尊重してあげようという考え方になるということです。
こうした話し合いのない選手任せが放任なのです。選手がやりたいようにやらせてあげるというスタンスになってしまいます。尊重とは、あくまでも話し合って両者でしっかりと合意した上で選手を優先させてあげることなのです。
2024年06月18日
一人じゃなければ
一人じゃないという言葉。人は時に孤独になる。人は時に孤独に人生の中で頑張り続けなくてはならない。人は一人としか思えない時に、自分自身を本当には大切にできなくなるかもしれない。一人で全てが完結する世界の中に生きていると何を成しても、何を手にしても虚しいように感じる。そうなると、自分の心の叫び、自分の心の涙、そうしたものを心の奥に封じ込めて、それを無いものにしようとしてしまうかもしれない。それは自分を大切にできていることなのだろうか。。。もし、自分が一人じゃなければ、自分のことを本気で解ろうとしてくれる人がいれば、時に心の叫びを口にしてもいいのだろうし、心の涙を瞳から流してもいいのだろうと思う。どんな自分でも受け止めて包み込んでもらえるという心の底からの安心感。一人ではないというだけで誰かと喜びも悲しみも分かち合える。それは生きている実感を強く持てることなのかもしれない。その誰かだけは普遍的に変わらずに自分を見続けてくれるという安心感。そうすると人はもっとありのままの自分を認めていけるし、安心して物事に向かっていけるように感じる。
2024年06月17日
真実を
事実ではなく、真実を見つめてほしいと願う。事実は最後の夢の舞台を失ったということ。しかし、真実は自分自身の心の中にあるはずだ。真実とは自分にとって絶対的で、普遍的なもの。自分がどんな想いで日々を積み重ねてきたのか。それは事実がどうであれ、今も、そしてこれからどれだけの月日が流れようとも決して変わることのない真実。嘘偽りなく心の中に深く刻まれたもの。事実は時として時間と共に風化していくかもしれない。しかし、真実はこれから先の人生を生きていく上での心の拠り所になり指針となっていくだろう。目では事実は見えても、真実は決して見えない。でも自分の心に問えば、必ず心は真実を答えてくれる。
これから先の人生においても自分が望む結果としての事実を確実に手にできることばかりではないだろう。でも、いかにそこまでの過程に打ち込むかという自分の真実は自分次第でいかなる時でも手にしていける。人生は、自分の生き方は、真実の積み重ねでしかないのかもしれない。
打ち込んできた情熱の強さも、流してきた汗も、そして仲間達に対する想いも、誰かと比較するものでもなければ、誰かに評価されるものでもない。自分の中にこそあるもの。自分にしか分からないこと。だからこそ、これからも変わらずに真実を貫いていく人生にしていってほしいと心から願う。
これから先の人生においても自分が望む結果としての事実を確実に手にできることばかりではないだろう。でも、いかにそこまでの過程に打ち込むかという自分の真実は自分次第でいかなる時でも手にしていける。人生は、自分の生き方は、真実の積み重ねでしかないのかもしれない。
打ち込んできた情熱の強さも、流してきた汗も、そして仲間達に対する想いも、誰かと比較するものでもなければ、誰かに評価されるものでもない。自分の中にこそあるもの。自分にしか分からないこと。だからこそ、これからも変わらずに真実を貫いていく人生にしていってほしいと心から願う。
2024年06月16日
想いの強さ
想いの強さは、どんな絶望の淵にあっても、そこに希望の光を与えてくれる。想いの強さは、どんなに困難な状況にあっても、踏ん張り抜く底力を与えてくれる。想いの強さは、孤独な戦いの中でも、想いを共有できる大切な仲間を与えてくれる。想いは時に打ち砕かれそうになる。それを建て直してくれるのも、また想い。想いは想いで乗り越えていく。決して諦めることなく、投げ出すことなく、地道に進んでいく。それを支えるものこそ想いの強さと言えるだろう。何が何でも何とかしてやろうという想いの強さ。想いとは中途半端なものとは違う。心が根底から求めているもの。それ以外は考えられないというくらいの覚悟を伴った想い。決して揺らぐことのない一途な想い。それがあれば大抵の物事は成し遂げていけるはずだ。想いはとてつもなく大きな力だと実感させられる。
2024年06月15日
全員の責任
確かに負ける原因となるミスプレーは試合を振り返れば必ずある。しかし、その誰かのミスだけで負けたのかと言えば、必ずしもそうとは言えない。野球であれば全員が4打数4安打を打てば勝てるだろう。投手が9回を0点で押さえれば勝てるだろう。つまり誰もが一つのミスも犯さなければ勝てる。そもそもミスをしていいと思う選手もいなければ、ミスしてやろうなんて選手もいない。でもミスをしてしまうのが選手でもあり、人間である。僕はだから、誰かのプレーが原因で負けたと考えるのは好きではない。人を責めるくらいなら、まずは自分自身のできなかったことやミスを個々で見つめ直していきたいと思う。チームとして考えた時に、自分のせいで負けました、ごめんなさいという光景は見たくはない。やはりチームプレーは一人で戦っている訳ではないし、負けた時は個々のミスの集積が大きくなった時なんだと思う。
2024年06月14日
解決と解答
解決と解答。同じ問題という言葉でもでも、人生の問題は解決するといい、勉強の問題は解答するという。勉強の解答で答と使うのは、勉強には絶対に唯一の答えがあるからなのだろう。それに対して人生の問題には唯一の答えは存在しない。言ってみれば答えは個々によって違ってくる。だから、人生の問題に対して、例えば人それぞれどんな答えであっても、その人にとって正解と思えるなら、それが本人の正解となる。人生の問題は決めることに意味があるのだろう。問題に直面して懸命に解いて、自分なりの正解の答えを決めていく。正解などない問題には、自分が自分の正解を決めていくしかない。勉強の問題は答えを導きだし、人生の問題は決断を導きだす。
2024年06月13日
小さな前進
周りから見たら小さな前進。でも、時にそれは本人にとっては大きな前進だったりする。それは本人が前進しようという強い意志を持たなければ、進まないままだったから。数字や目では分からない、その意志を力を気づけないと、まだまだ小さな前進として片付けられてしまう。見える部分はまだまだ小さくても、見えない部分が変われば、小さな一歩が積み重なり、それがやがては大きな前進になっていることだろう。人は一気には前進はできないものだから。意志の力は大きいし、無限大だと感じる。ここが変わらなければ、小さな前進すら生まれないのだから。後は意志をどこまで貫いていけるかだけ。でも、きっと本人も小さくても一歩ずつでも前進できているのを実感できれば、貫いていけることだろう。
2024年06月12日
心と頭
『熱願冷諦』熱心に願い求めることと、冷静に本質を見極めること。諦とはここでは諦めるという意味ではなく、明らかにするという意味に使う。よく試合などでベストなのは心は燃えてて頭は冷静なのが良いと言われる。もちろん競技によっても違うが。心がビビっていては戦えるものも戦えない。臆することなく試合には自分のベストを出し切るのを願い、そして自分自身を強く信じ抜いて戦っていきたい。そんな心の状態を熱いと表現することもできる。しかし、頭の中まで興奮して熱くなってしまうと、冷静な判断ができなくなる。冷静に流れを読み取り、冷静に対処していくことが大切になる。心が熱く頭も熱くなると暴走プレーになっていくし、心が冷たく頭も冷たいと臆病プレーになっていくだろう。心は大胆かつ頭は繊細にと言い換えることもできるように思う。
2024年06月10日
豊かさ
目を奪われるものは世の中には溢れている。モノも情報もそれこそ、溢れるくらいみちみちている。人は目にとまる何かに飛びつき、すぐに飽きて、また次に目にとまった何かに飛びついていく。これこそ、物質的豊かさなのだろう。何かを手にする満足感。それに対して心を奪われるものとなると、そんなに多くはないだろう。心が豊かになったり、幸せを感じたり、強く感動したり、強く心を揺さぶられたり……目先の欲ではなく、心の奥底から強く求めるもの。目移りして飽くことなく、ずっと大切にしていきたいもの。それこそが精神的な豊かさなのではないかと感じる。もしかすると、ものが溢れる社会だからこそ、物質的豊かさに満ちている社会だからこそ、余計に精神的な豊かさを人生の中で求められるかで、人生の色彩が変わっていくのかもしれない。
2024年06月08日
静観して
足掻くことも大事だが、時には静観して流れを読むことも大切になる。足掻いていると近視眼的になりやすく、流れに気を配れなくなることがある。ここぞ!という時には懸命に足掻くことも大切だが、流れが逆流の時に足掻きすぎると消耗の割には成果に結びついていかなかったりする。逆に足掻くことが裏目、裏目にも出てしまいやすい。そんな時には敢えて動かず俯瞰的に静観して流れを見極めていくことが大切になる。これは、スポーツでも日常生活でも言えるような気がする。果敢に攻めていくポイントと耐えながらじっと待つポイント。こう書きながら、ふと武田信玄の風林火山もそういうことかもしれないと感じた。
2024年06月07日
自分を試す
誰かが整備してくれた整った道と、誰一人として足を踏み入れたことのない未開の道があったら、自分は後者を選んでしまう。前者は行き先もなんとなくは分かるし、多くの人がそこを歩いているので安心して進むことができる。後者は怖さや不安もある。自分一人だけを頼りに悪戦苦闘しなくてはならない。では、何故に自分は後者を選んでしまうのか?心の中に強く自分の人生を生きたいという想いがあるからかもしれない。一度きりの人生をやはり自分の人生にしていきたいという気持ちは昔から強かった。人の歩んだ道筋が自分も同じように歩く道筋とは素直に思えなかった。自分のしたいことが世の中に存在しなければ、自分が作り上げて存在させていけばいいと考えたし、道がなければ自らが開拓していけばいいと考えてきた。その道が楽とはほど遠い険しい道であったとしても、その道の先に大きな落とし穴や崖があったとしても、自分の力で進んでみたかった。自分という一人の人間をその道の中で試してみたかったし、追い込んでもみたかった。自分が人生の中で何者でどれだけのことができるのか?それはやはり未開の道を選ばせてしまう。
2024年06月06日
目の前の問題に
もし、自分がテストを受けていたとする。目の前にはテスト用紙がある。そこにはどんな問題が用意されているか分からない。もしかすると難問や奇問の数々かもしれない。だからと言って何故こんな問題ばかりなんだと愚痴っていても、問題ははかどらない。周囲の人の動向ばかりを気にしてテストをおろそかにしていれば不合格になる。自分にできることは目の前に突きつけられた問題を必死になって解き続けることしかない。それしかできない。不合格になりたくなければ、問題がどうだ、周りがどうだ、ではなく自分がどうするかでしかないのだろう。それが人生の時間の中の今という時間なのかもしれない。放棄したり、周りに振り回されれば今の先にある未来は結果が見えてくる。やれることは目の前の問題に諦めずに徹底的に足掻いてみることなのだろう。
2024年06月05日
継続していく
生け花の花。その花の色は花瓶の中にあっても、大地に根差して咲いていても色そのものはそう変わらないだろう。そしてやがてはどちらの花もいずれは散ってしまう。花瓶の花はそこで終わり。しかし大地に根差した花は結実して新しく芽吹く。今だけの成功なのか、未来に繋がる成功なのか。目先だけを見れば同じように見える物事でも、それが未来にしっかりと続いていく形なのか、ほんの一時の形なのか。。。仕事というのは、一時的なブームとかではなくしっかりと未来に続いていく形を模索していかなくてはならないと感じる。
2024年06月04日
個性を活かす
人と人との違いなんて個性に過ぎない。同じなんて逆につまらない。同じ人間同士がいても、アイデアや発想も画一化されて組織の発展はないだろう。違いこそが面白いと感じる。ただ、それぞれの個性がそれぞれ好き勝手にそれぞれが思うベクトルの方向に向かっていては、逆に組織はバラバラになり、どこに向かっているのかが分からなくなっていく。向かうべきベクトルは組織にいる誰もが共有していなくてはならない。その組織が向かうベクトルの中で、個々人がそれぞれの個性を発揮していけばいいのだと思う。スポーツだって同じだ。向かうべきベクトルは決められていても、個々の選手には個性を強く感じられる。好き勝手にやることだけが個性ではなく、ある程度決めれた中で自分の持ち味をどう活かしていくかを考えるのも個性なのだろうと感じる。
2024年06月02日
言葉で
優しい言葉のあやとりをしていけると、その言葉が相手の新たな言葉を生み、それがまた自分の言葉を生む。言葉が深まっていくことで、心に温かさが広がっていく。言葉のやりとりは、何となく自分が言葉を投げかけ、相手の言葉を受け取るという一方通行の感じがする。あやとりはお互いの協力がないと続いていかない。優しい言葉のあやとりは、相手に対しての愛情や思いやりなくしては続いていかないのだろう。それがあるからこそ、言葉を交わすごとに心が満たされて温かくなっていくのだろう。言葉をぶつけられれば心は寂しく寒く感じる。言葉は本当に使う人間の心の在り方が問われていくものなのだなと感じる。