2025年01月31日
自己開発
自己開発。自分の可能性を信じて自分の実力を切り拓いていく。そのためにはチャレンジが大切なのだが……しかし、「チョロっと新たなことでもかじってみるか!」と中途半端に新たなチャレンジを始めるのは良くないような気がする。。そんな発想でいると好調の時には甘えが出て自分が調子いいからやらない、不調の時には、切羽詰まって自分が大変だからやらない、となり、いつまでたってもやらないことになってしまう。それでも、やろうとなった時には自分が良いからその余力でやるだろうし、あるいは自分が悪いからやむなくリスキーなものに手を出してしまうだろう。自己開発はやってもやらなくてもいいものではないし、中途半端にやるものでもないだろう。やるなら地道に本気で全力で取り組んでいかなくてはならない。自己として将来に向けて更なる発展していくために本気で取り組んでいかなくてはならないのが自己開発なのだと思う。
2025年01月30日
受け止め方ひとつ
練習で叱られたら、監督からそれだけ期待されてるんだと受け止めよう。試合のメンバーから外されたら、監督はこの悔しさをバネに這い上がってくるのを待ってるんだと受け止めよう。厳しい練習を課されたら、これだけのことを自分はできると認められてるんだと受け止めよう。受け取り方で変わる。叱られて自分はダメなんだ、監督から嫌われてるんだ…試合のメンバーから外されて監督はどこ見てるんだよとイライラし…厳しい練習を課されて、これは単なるシゴキだろ…なんて受け止めていたら、練習はストレスだらけの場所になってしまうだろう。自分にプラスになる受け止め方をした方がいいのではないかと思う。
2025年01月29日
ドンマイ
ドンマイ!ドンマイ!という言葉。それがお前のミスを許したんだから、俺がミスした時にも許してくれよな、という、もたれ合いの依存関係になると困ったことになる。ドンマイ!を口にする時には、お前のミスは俺がここからカバーしてやるよ!くらいの思いやりと覚悟と責任を持っていきたい。ドンマイ!は自分がミスをした時にかけておくべき保険の言葉ではない。相手には思いやりを持ちながらも、同時に自己には責任を負う言葉。仲間がミスして苦しい状況で自分自身が仲間を助けてやれるだけの力が必要になる。言葉だけのドンマイは下手をするとチーム全体のミスの連鎖を招きかねない。許し合うことは大切だが、一歩かけちがうと両者の関係をナアナアにしてしまう。責任のある許し合いが重要になるだろう。
2025年01月28日
最大限の方策
やることをやったけど、駄目でした…そう口にする前に、本当にそのやり方で良かったのか?他にやり方はなかったのか?やり方にもっと工夫できなかったのか?と自問自答してみた方がいい。やることをやって駄目だったけど、自分はやることをやったから満足…では勝負事ではもの足りない。どうすれば勝ちを引き寄せられるのか、そのための最大限の方策を考え抜いたのか?考えたのか?と問われれば、誰もが考えたと口にするだろう。そのレベルの考えたという言い訳はいらない。勝ち負けはある。しかし、同じ負けにもその過程の中に、どれだけ最大限の方策を考え抜いて臨んだのかという姿勢は見て取れる。結果にこだわるというのは、結果をどうこう一喜一憂することではなく、結果を出すためにどれだけ最大限の方策を導き出せるかどうかにある。
2025年01月24日
誇りとは
誇れる何かを持つという言葉をよく耳にする。時々、誰に対して誇るんだろう?と思ってしまう。世間に対して?多くの人に対して?僕は、そんなことより、自分が自分自身に対して誇れる何かを持てればいいのではないかな、と思う。誰かに見せつけるための誇りではなく、自分が自分自身と懸命に戦い抜いてきた過程そのものが誇りだと思う。何を?手にしたかではなく、それを手にするに至るまでの妥協を許さずに懸命に歩んできた道のりそのものが自分自身の誇りなのではないかと思うのだ。何を?なんてさほど重要だとも感じない。自分のそこまでの人生の生き方、向き合い方そのものを、自分が誇れればそれでいいんだと。自分が自分自身に負けない生き方をしていければ。
2025年01月23日
組織で気をつけていくこと
身内に競い合う者がいるからこそ、組織も人も磨かれていく。敵は敵でも好敵手ならばありがたいほどなのだ。正々堂々と競い合っていけるし、お互いが刺激になり高みを目指していけるものだ。その反対に最も質が悪いのは、好敵手になれないと自分を見限り、外の敵と手を組んで人の足を引っ張りにかかる人。これはまさしく外敵になる。つまみ出すに限るのだが、分からないように組織の隙間に潜り込み逃げ込んで姿を隠したがるもの。そしてその外敵が一人いれば、その人の周りには同類が身を寄せていたりするのもなのだ。一人では組織を生きていけないから、変な意味で力を結集したがるのだ。指導的な立場にある者は常にここに目を光らせて対応をしていかなければ、組織は次第に蝕まれていってしまうだろう。
2025年01月22日
大の中の小
『則天去私』小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きて行くこと。「則天」は天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと。「去私」は私心を捨て去ること。夏目漱石が晩年に理想とした境地を表した言葉のようだ。小さなことにとらわれていると、大きなことを見失っていく。すると大きな流れをつかめなくなる。小というのは、大の中の一部。今回のコロナに限らずあらゆる自然災害は、人間のエゴが強くなりすぎてしまい、世界、地球規模の大きなものへの意識が薄れてしまったことも一因としてある。小さなエゴがどれだけ何をやろうが、大きな自然は支配することはできない。今回のことで人間という自然界の一部が大きな自然界に意識が向き、この言葉のような生き方を積み重ねていければ、大きな流れの中で順応して生きていけるのではないかと感じる。
2025年01月21日
人生は
いいことばかりではないし、悪いことばかりじゃない。笑顔ばかりじゃないし、涙ばかりじゃない。幸せなことばかりじゃないし、辛いことばかりじゃない。そう、人生はどこまでいってもそんなことの繰り返しなんだと思う。真剣に生きるからこそ、喜びも大きいし、悲しみも大きいんだと思う。だから、笑いたい時は思い切り笑えばいいし、泣きたい時は思い切り泣けばいい。それが人生の醍醐味なのかもしれない。辛さがあるから喜びを知れるし、喜びがあるから辛さを知れる。その相関があるからこそ人生は面白いのかもしれない。喜びを感じるからこそ、人と喜びを分かち合いたいと思うし、辛さや悲しみを感じるからこそ、人に対しての思いやりが育まれるのかもしれない。それこそ人生が人を育てていくことなのかもしれない。何歳になっても、いいことも悪いこともあるからこそ、人はいつまでも学び続けていけるのかもしれない。
2025年01月20日
小さな前進
周りから見たら小さな前進。でも、時にそれは本人にとっては大きな前進だったりする。それは本人が前進しようという強い意志を持たなければ、進まないままだったから。数字や目では分からない、その意志を力を気づけないと、まだまだ小さな前進として片付けられてしまう。見える部分はまだまだ小さくても、見えない部分が変われば、小さな一歩が積み重なり、それがやがては大きな前進になっていることだろう。人は一気には前進はできないものだから。意志の力は大きいし、無限大だと感じる。ここが変わらなければ、小さな前進すら生まれないのだから。後は意志をどこまで貫いていけるかだけ。でも、きっと本人も小さくても一歩ずつでも前進できているのを実感できれば、貫いていけることだろう。
2025年01月19日
声なき叫び
全力でプレーしているのに誰も認めてくれず、手抜きをしてると言われるのは辛いだろう。絶対にミスしたくないと思ってプレーしていてもミスしてしまい、やる気あるのか!と言われるのは悲しい。選手の心の真意に寄り添い、選手の思いを感じ取っていくことも大切。誰にも苦手なことはある。苦手だからなかなか思うようなプレーができない。でも何とか克服しようと取り組んでも、お前は下手くそだ!やる気はあるのか!と言われては落ち込んでしまうかもしれない。誰か自分の思いを感じてほしい、誰か自分のことを分かってほしい、誰か自分を認めてほしい、こういう選手の心の中の声なき叫びに耳を傾けていくことも大切になる。
2025年01月18日
小さな原因
スランプや上達を妨げている要因は、意外にほんの小さなこと。小さいからこそなかなか気づけない。ここが厄介な点。小さな原因は身体の動きの最終段階では大きなプレーの差を生み出す。大味な原因分析では見えてこない。緻密な原因分析が求められる。自分自身に対する細やかな観察眼が重要になる。出てきた結果としての大きな誤差だけを見ていては原因はなかなか見出だしてはいけないだろう。過程を細かく分析して一つ一つの小さな動きやその連動性を見ていかなければならない。一見すると同じように見える動きでも、ほんの少し身体の使い方が変わるとまるで違った動きになってしまう。
2025年01月17日
自分磨き
野球のグラブもそうだが、練習後には土を丁寧に落として、オイルで丁寧に磨いていく。そうするとだんだん味が出てくるし、輝きを増していく。そうするとグラブへの愛着が強くなっていく。自分だけのグラブになっていく。そんなグラブだから打球が飛んできても信頼して捕球しにいける。そんなことをしている選手のみんなに問いたい。同じことを自分自身に対してやっていますか?と。自分自身をグラブに置き換えて考えてみてほしい。自分磨きは、自分自身に対してしっかりとそのような姿勢を持てている人が初めてできること。自分自身を雑に扱ったり、自分自身を放っぽらかしにして意識を自分自身に向けられていなければ、絶対にできない。自分自身に愛情も持てなければ、自分独自の味も作り上げてはいけなくなる。それは自分の心身共にだ。このグラブで戦おう!とするように、この自分自身で戦おう!と思える信頼できる自分自身というパートナーを磨きあげていくことはとても大切なことのように感じる。
2025年01月16日
人生の意味
人生に意味があるのではなく、限られた人生に意味を持たせていくのは他でもない自分自身だろう。生きるというのは時間の集積だとすれば、自分が何を求めていくかによって人生の意味は変わっていくだろう。意味を誰かが教えてくれるものではないし、待っていれば意味づけられていくものでもないように感じる。それでは人生の貴重な限られた時間が流れ去っただけになるだろう。時間を自分自身の求めることのために有効に使い切れてこそ、そこに意味が見出だせていくのではないだろうか。個々で求めるものは違えども、求めることがあるからこそ真剣に時間を生きていけるはずだ。
2025年01月14日
目的地まで泳ぎ切る
人生には時々、流されないと生きていかれないような時もある。そういう時は流されてもいい。しかし、流れが緩やかになって自力で泳げるようになったら、とにかく自力で泳ぐこと。できるだけ早く自力で泳ぐことを始めて、自分が目指している場所に向かって泳ぐ。そうしなければ、いつまでも流されていってしまい、どんどん自分が本来目指していた場所から遠ざかっていってしまう。自力で泳いでいる間に本気で目指している場所を自分の意志で変更するのはいい。しかし、ただ流れるままに流されているだけなのに安易に手短な場所でいいや!と妥協してはいけない。しっかりと自分の意志で自分が行きたい場所まで泳ぎ切るのはしんどいことかもしれない。。。でも、そうできた時にこそ自分の人生を生きたと言い切れるのかもしれない。
2025年01月11日
雰囲気
雰囲気。溌剌と伸び伸びとプレーできる雰囲気。仲間と助け合い励まし合える雰囲気。負けていても諦めない明るく前向きな雰囲気。自分達はやれるんだ!という自分を仲間を信じられる自信の溢れる雰囲気。雰囲気作りはとても重要だ。チームの雰囲気一つで選手は力を発揮する。雰囲気はチームの活力。雰囲気一つで選手の動きはまるで違ったものになる。それを作り出す先頭に立つのが指導者の役割になる。そのために指導者は我慢や忍耐が必要になる。気配りや配慮も必要になる。雰囲気を作るのは即席ではいかない。雰囲気を作り続けて雰囲気を熟成させてチームに完全に染み込ませていかなくてはいけない。にわか雰囲気ではそれは違和感にはなっても本当の意味でチームの活力にはならない。雰囲気は選手を生かしも殺しもする。
2025年01月10日
積み重ね
5時間睡眠と8時間睡眠とでは、仮に75歳まで生きたとしたら、起きている時間が14年間も違ってくるという事実に驚かされる。1日でみたら僅かな時間の差も積み重なると大きさを実感する…睡眠に限らず、ちょっとした時間の積み重ねは大きな事を成すには充分過ぎる時間になる。たかだか、ほんの僅かな時間と漠然とやり過ごしている時間の中の少しの時間でも意図して地道に積み重ねていけばそれはかなり意味のある大きな時間になっていく。1日の単位では大差のない時間でも積み重なった時の大差には唖然とさせられる。コツコツやることの意味はここにある。1日の内のほんの数時間、あるいは数分でも毎日欠かさずに積み上げていける根気を持てているかどうか。それは先々で大きく違っていくものだろう。
2025年01月09日
心のフィルター
意志(いし)も濁れば意地(いじ)になる。口(くち)も濁れば愚痴(ぐち)になる。徳(とく)も濁れば毒(どく)になる。という言葉がある。なかなか言い得ているように感じる。自分自身の心の奥底にあるものが例え清廉潔白な美しいものであったとしても、それがアウトプットされる途中経過のどこかで、自分自身の心が濁ってしまえば、もともとの想いが違う形になって表れてしまうということになるのだろう。確かに意志と意地は紙一重だし、親切とお節介も紙一重だなと感じる。優しさと馴れ合いだってそうだろう。本当にほんの些細な濁点があるかないかの差なのかもしれない。清濁あわせ持つという言葉もあるが、人間なんていうのは清だけの人もいないし、濁だけの人もいない。どちらも持ちながらも、どちらの色が色濃く出ているかということなのかもしれないなと思う。自分中心になれば濁が混ざり始めていくものなのかもしれない。
2025年01月08日
挫折せずに
目標を途中で諦めて投げ出すことは挫折かもしれないが、最後まで全力を尽くして諦めずに喰らいついた結果として目標が叶わなかったことは挫折とは言わないのかもしれない。その取り組む姿勢があれば、次の目標に向かって新たに前進していけるのだから。挑戦する心を失うことが本当の挫折かもしれない。ベストを尽くしたから必ず求める結果になるというほど世の中は簡単ではない。意に反する結果に直面しなくてはならないことも多々あるだろう。しかし真摯に取り組む姿勢があれば必ず次に次にと繋がっていくことだけは確かなことのように思う。いかなる時にも投げ出さずにいれば報われる時は必ずあるはずだ。それは人生の生き方にも通じることだ。人生の挫折も人生に挑戦できなくなった時に感じるものなのかもしれない。失敗がイコール挫折なのではないと思う。
2025年01月07日
心を育てる
種を蒔いても、土壌がひどければ発芽しない。土壌がどんなに良くても、栄養が足りなかったり、雨が降り、太陽の陽が届かなければ発芽もなければ成長もない。相手の心に何かしらの種を蒔く。相手の心の土壌を耕す。相手の心にプラスの言葉で栄養を与えて、時には厳しい言葉の雨を降らせる。でも、その根底には相手の心に豊かな愛情の太陽の温かさで包み込む。そうして人の心は育っていくのではないかなと思う。まさにメンタルトレーナーとは、農業のようなものなのかもしれないと。心を豊かにして心に蒔いた種を大切に育てていき、実らせていく。時に自分自身が相手の種になり、時に相手の心を耕す人になり、時に栄養や雨や太陽となり。地道な積み重ねでしか人の心は育ってはいかないだろうと思う。農家の方々が愛情を込めて作物を育てていかれるように、自分も相手の心に向き合っていかなくてはならないのだと思う。
2025年01月06日
見えない壁に
10秒00と9秒99との間のコンマ1秒の壁。日常生活では誰一人意識をすることもない時間。この壁を破るために何年もかけて、飽くことなく百メートルという距離を数えきれないくらいの本数走る。走る度に壁に跳ね返され、壁に打ちのめされ……それでも、その都度立ち上がり、また挑んでいく。そのコンマ1秒の壁。それは限界まで挑もうとする者にしか感じることのない壁。いや、感じることができない壁。自分の進化を求めないと打ち破ることのできない壁。その壁は高いが、だからこそ挑戦者の希望を掻き立てる。アスリートは今日もその見えない壁に挑み続けていく。
2025年01月05日
足の裏
『尊いのは頭ではなく手ではなく、足の裏である。一生人に知られず、一生きたない処と接し、黙々としてその努めを果してゆく。足の裏がおしえるもの。しんみんよ、足の裏的な仕事をし、足の裏的な人間になれ。』濱本光治著の『サクラ咲ク2』の中に書かれていた坂村真民の言葉だ。確かに足の裏というのは、普段は意識も払わないけれど、絶対的に必要なものだ。全身を支え、汚れ仕事をして…特に感謝されることもなく、人間の一生を支えていく。改めて考えさせられる言葉だ。人はついつい様々なことに当然になり、ついつい感謝の気持ちを忘れていくことも多い。きっと世の中は、自分を含めて、誰かが誰かの足の裏的な役割を担い、またその誰かも誰かに足の裏的な役割を担ってもらっているはずだ。だからこそ、自分もそうだが、足の裏的に支えてもらっている方々に対しての感謝を忘れないようにし、また自らも率先して誰かの足の裏的な役割を担って支えていけるような生き方をしていければと改めて考えさせられた。
2025年01月04日
満足な練習…??
練習を深くやればやるだけ自分に足りない部分がどんどん見つかっていく。どこまで行ってもゴールはない。満足いく練習なんてないのかもしれない。足りないからこそ、また次の日も新たな課題を持って取り組んでいける。できるようになったプラスの面には納得できても、満足とは違うような気がする。やればやり込むだけ満足からはどんどん離れていくように感じる。納得の積み重ねはあっても、満足は競技を続ける限り永遠にないのかもしれない。満足を感じた時点で終わりかもしれない。次の日からもうやるべき課題がなくなっているのだから。練習のための練習をして満足、たくさんの量をやったから満足…これでは練習が何のためのものなのか分からなくなる。できないことを一歩でも近づいてできるようになっていくためにこそ練習はあるのだから。その意識を常に忘れてはいけないように思う。何かはできても、人間はまだまだできないことは山のようにあるのだから。果てしない旅は続いていく。
2025年01月03日
目の前の問題に
もし、自分がテストを受けていたとする。目の前にはテスト用紙がある。そこにはどんな問題が用意されているか分からない。もしかすると難問や奇問の数々かもしれない。だからと言って何故こんな問題ばかりなんだと愚痴っていても、問題ははかどらない。周囲の人の動向ばかりを気にしてテストをおろそかにしていれば不合格になる。自分にできることは目の前に突きつけられた問題を必死になって解き続けることしかない。それしかできない。不合格になりたくなければ、問題がどうだ、周りがどうだ、ではなく自分がどうするかでしかないのだろう。それが人生の時間の中の今という時間なのかもしれない。放棄したり、周りに振り回されれば今の先にある未来は結果が見えてくる。やれることは目の前の問題に諦めずに徹底的に足掻いてみることなのだろう。
2025年01月02日
理想と現実
人間は理想を描く。現実を生きる。そして理想と現実の間で苦しむ。ここで、なお理想を追いかけられるか、現実に打ちのめされてしまうのか…ここが大きな分岐点。確かに現実に対して自分の目線を合わせた方が生きやすいかもしれない。それが生きるということだよ、と言われるかもしれない。でも、どんな時でも、どんな現実に直面しても、苦しくても辛くても理想に目線を合わせて一歩ずつでも一センチでも近づこうと進んでいく人が結果として理想にグッと近づいていけるのだと思う。喰らいついて喰らいついて喰らいつく。意地でも理想に辿り着いてやると絶対に理想から目を逸らせずに、迷わずにそこに歩を進めていくことを覚悟というのかもしれない。
2025年01月01日
トップに立つ人は。。。
人はそれぞれの立場があり、人はそれぞれの考え方や感じ方がある。これは当然のこと。トップに立つ人は八方美人になって、全ての人にいい顔をしようとしてしまうと、まとまりを欠いてしまうし、どこを目指すのか分からなくなる。また八方美人になることで誰にでもいい顔をしようとしてしまうと、雑多な意見を全て拾ってしまい、様々な矛盾点が生じてしまう。そして、その集団の中でも意見の強い人や多数派のグループの意見に大きく左右されてしまう。それらは全てあくまでも表面的な問題。大切なのは問題の本質部分。トップの人は問題の本質をしっかりと見据えて、この集団の未来を描いてナビゲートしていかなくてはならない。何かをやるというのは、当然、賛成もあれば反対もある。それにビクビクしていると問題の本質も見えなくなるし、進むべき未来もその都度、その都度、迷走して逆に集団の一人一人が困惑をきわめることになってしまう。これは政治でも一つの会社でもスポーツのチームにおいても同じことではないだろうか。