2025年02月27日
追い込み&解放
自分をどんどん追い込む術と同様に、どんどん解放していく術も大切。練習では自分を追い込み、試合では解放していく。それができなければ、練習では妥協の連続になったり、試合で自分が自分自身を追い詰め過ぎて自滅してしまったりしてしまう。練習で苦しみ試合で伸びやかに。日本人は追い込むことばかりを美徳のようにして文化を育んできた。修行的な文化。だから、大切な時に自分自身を解放しようとすることに悪のような意識が働いてしまう。試合は苦しんでこそ意味があるみたいな…練習は準備。試合は本番。お祭りだって、お祭りの準備期間は忙しいし、楽しいなんて言っている余裕はない。落ち度がないように詳細に渡って準備を欠かさない。だけど本番は一気に爆発させてお祭りを誰よりも楽しむ。大変な準備があったからこそ、本気で心底から楽しむ。お祭りの本番が苦しくて辛いものなら誰も準備だってしたくなくなるだろう。追い込む時は徹底的に追い込み、解放する時はバカになれるくらい溌剌と解き放つ。この両面が大切なように感じる。
2025年02月26日
頭と心の両面で
極端な分類ができるものではないが……傾向として頭で考えて動く人もいる。心で感じて動く人もいる。何かを伝えることと、何かが伝わることとは違う。これは伝える人と伝えられる人という意味ではない。伝えるというのは自分の論理を言語化して、相手の頭で論理的に理解してもらうこと。そこで論理的に納得ができれば動き始める。伝わるというのは、自分の感情や気持ちを相手が感じ取って、その感情や気持ちに共鳴して共感して動き始める。前者が言語的なコミュニケーションで、後者は非言語的なコミュニケーションということになる。どちらも大切な力と言えるだろう。頭でも心でも相手を理解できるとより良くなっていくと感じる。
2025年02月25日
生きた教材
挫折したら、そこから再びスタートを切ればいい。そこが終わりではないのだから。挫折の分析をして、二度と同じ過ちを繰り返さないように決意する。足りないものを身につけていく決意をする。挫折を挫折という傷で終わらせないように超回復をさせていく。何の改善も課題もない前進は次なる挫折の種。
そう考えると中途半端な喉もと過ぎれば熱さ忘れるみたいな挫折よりは、大きくて強い痛みを感じる挫折の方が人生を切り拓いていける機会になるような気がする。みんな挫折を恐れて中途半端に逃げたりしてしまう。ダメなら徹底的にダメな方が自省も学びも気づきも多くなる。それに乗り越えた時の強さも…挫折は自分自身を真剣に見つめ直せる最大の生きた教材なのだから。
そう考えると中途半端な喉もと過ぎれば熱さ忘れるみたいな挫折よりは、大きくて強い痛みを感じる挫折の方が人生を切り拓いていける機会になるような気がする。みんな挫折を恐れて中途半端に逃げたりしてしまう。ダメなら徹底的にダメな方が自省も学びも気づきも多くなる。それに乗り越えた時の強さも…挫折は自分自身を真剣に見つめ直せる最大の生きた教材なのだから。
2025年02月24日
立ち向かう
楽しむと楽をすることは違う。楽しむと苦しいことから逃げることは違う。本当の楽しさって巧くなることであり、少しでも上を目指すことだと思う。苦しいことをしたから巧くなる訳ではないが、苦しいことから逃げては巧くはならない。楽しむと緩いナアナアは違う。厳しくしたら巧くなる訳ではないが、ユルユルで巧くはならない。巧くなったり、強くなったりするためには、当然やるべきことはやらなくてはいけない。妥協していてそれを手に入れることはできない。お遊びなら楽しかったね〜で済むかもしれないが。やるべきことをやるためには、当然の如く苦しさや辛さは付いてくるだろう。自分やチームメイトに対する厳しさも付いてくるだろう。そこから逃げていては、やはり本当の楽しさには辿り着くことはできないだろう。妥協には妥協の答えしか返ってこない。楽した先には楽した結果しか返ってこない。立ち向かっていかなくては!!
2025年02月23日
楽しむ心
何故?子どもの頃はお金はなくても誰もが楽しく遊んでいたのに、大人になるとお金がなければ遊べなくなる人が多くなるのだろう。子どもの頃は楽しいと感じることは全て遊びだった。大人になると遊びはある程度定義されていき、その定義された遊びが楽しかろうが楽しくなかろうが、それをしたことで満足しようとする。子どもの頃は目の前の時間を楽しむことが目的だった。しかし大人になると遊ぶという行為そのものが目的になっていくのだろうか。楽しいことは子どもであれ大人であれ、実は身近なところにいくらでもあるのに、、、子どもはそれを楽しみ、大人はそれを楽しいと感じられなくなる。いくつになっても、楽しむ心や楽しみを作り出していく創造性を大切に忘れずに持てていると幸せなことなのだろうと感じる。
2025年02月22日
レベル上がれば
選手はレベルが上がれば上がるだけ失敗のレベルも上がる。人間は基本的に失敗はする。そうすると、失敗を否定している限り、どこまで高いレベルになっても自分を否定するしかなくなる。昔は、何かスポーツを始めた当初はレベルも低く、失敗レベルも低かったはず。それがどんどん失敗しないようになる代わりに、失敗レベルも高くなる。つまり、引き算的な自己評価でいけば、どこまでレベルが高くなっても、自分は失敗してしまうダメな選手という否定的な評価になる。それだったら、レベルが高くなる度にできるようになったことを足し算的に評価していきたい。自己否定と自分に厳しいというのは似ているようで、まるで違うことだ。
2025年02月21日
逆転
どんなに点差を引き離されても最後まで、じわりじわりと追い上げていけばいい。最後に一点でも追い越していればいいのだから。点差で気持ちを萎えさせるのではなく、目の前の一つ一つのプレーを雑にせずに丁寧に積み上げていく。点差でヤケな無茶なプレーではなく、丁寧な攻めの気持ちのプレーを。そう、ウサギとカメの話。どんなに離されても一歩一歩歩みを進めていけばその距離は縮まっていくかもしれない。投げ出した時に全ては終わってしまう。自ら試合に臨みながら自らの手で勝手に試合を終わらせてしまうようなことはしたくはない。試合自体が終わっていなければ、試合の途中にはどこにもゴールなんてない。絶対に気持ちを切らさずに諦めずに喰らいついていく。それをできた選手は逆転もありうる。下手な計算をしている余裕があるなら目の前の一つ一つのプレーを丁寧に積み重ねていこう。
2025年02月20日
駄目からの進化
一生懸命に全力でやってみて駄目だった時は、駄目だった結果で良かったのかもしれないと考えている。駄目だったという結果が今の自分に足りていないことを教えてくれているチャンスなんだと。だから、自分自身の生き方の中で、負け惜しみとかではなく、あの時に駄目だったのが結果的には良かったと分かる日が必ず来るような生き方をしていきたいと思っている。駄目だったことを、自分の未来の中で最高の成功に繋げていけるような生き方を。僕の生きるテーマは日々進化。駄目を恐れず、駄目を無駄にせず、駄目から目をそらさず、常に自分自身を進化させていこうと考えている。
2025年02月19日
楽に?
みんな簡単に早く巧くなりたいと思ったりする。逆にそんなに楽に手っ取り早く巧くなれたとしたら、あっ!こんなものね!とつまらなく飽きてしまうだろう。やればやるだけ難しく、どこまで巧くなってもさらに奧深いからこそ、今までもこれからも続けていけるんじゃないかな。それが苦しさであり楽しさ。これは、スポーツに限らず何事にも言える。イージーに何でもできるようになりたい。簡単な答えを教わりたい。小手先のテクニックやスキルでできたようなつもりになっている。そんな上っ面なことで何事も本当の意味で極めていけるのだろうか。それで巧くなったつもりで、その先を進んでいけるのだろうか。そんなことでは人間的にも技術的にも浅いままで終わってしまう。苦しむのが嫌だから楽に何かを習得したい。そんな過程の中に本当の楽しさなんか存在し得ないと思う。楽と楽しさは字は同じだが意味はまるで違うものだと思う。
2025年02月18日
言葉の限界
コミュニケーションで大切なのは、単に言葉をやり取りすることではなく、お互いがお互いに関心を持ち、相手に何かを伝えたい、相手の何かを知りたいという想いの強さだ。言葉はそれを繋ぐ一つの道具でしかない。言葉の巧みさがコミュニケーションの巧さではない。コミュニケーションは心でするものだ。人間には非言語的なコミュニケーションがある。それを昔から察するという表現をする。何の言葉がなくても相手の心のうちを感じ取っていく力だ。相手に対して何の興味関心もなければ、いくら無数を言葉を並べ立てて話をしてみても、何一つ相手の心には届かなかったりもするということだ。それは相手が聴く気がないからいけないと相手を責めるのではなく、自分が逆に相手に対して興味関心をしっかりと持てているのかを問い直してみることが大切になる。言葉がなくても理解し合える、言葉を尽くしても理解し合えない。それはある意味で言葉の持つ限界を示しているとも言えるだろう。
2025年02月17日
停滞の先に
『紫電一閃』事態の急激な変化のこと。研ぎ澄まされた剣をひと振りするとき、一瞬ひらめく鋭い光の意から。「紫電」は研ぎ澄まされた剣をひと振りするときにひらめく鋭い光。「一閃」は一瞬のひらめき。さっとひらめくこと。スポーツでも何でもそうだが停滞しているような時に、ワンプレーで一気に流れが動き出すようなことはある。もしくは自分の頭の中の思考が停滞しているような時に、一瞬の閃きから思考回路が活発に動き始めるといったことはある。よく降りてきた!とかの表現が使われたりもするのではないだろうか。何かを大きく動かすための、小さなこと。しかし、小さいがそれは同時に大きくもある。この小さなワンプレーや小さな閃きというのは、それが出てくるまで何とかしようと、もがいて、もがいて、もがき抜いて最後まで諦めない者にしか降りてはこないだろう。停滞しても気持ちを切らさずに耐え抜いていく。その先に一瞬のように出てくるもの。一瞬の閃きが暗い夜空を一瞬のうちに明るくしていくようなもの。
2025年02月16日
やりたい想い
何かを本気でやりたい人は可能性を信じて手段を探し出そうとする。逆にやりたくない人は不可能の言い訳を探そうとする。迷いという暗闇の中の小さな光に走り寄ろうとするのか、小さな光を見て見ぬ振りをして生きていくのか…やりたいこととやれることとは必ずしも同じではない。やりたいという想いが強ければ例えできなくても、何とかできるように喰らいついていける。しかし、いくらできてもやりたいという想いがなければ、できない言い訳を探していってしまう。不可能を可能にしていけるのは、どうしても何が何でもやりたいという強い想いではないだろうか。
2025年02月15日
失敗と成功
失敗したから終わりじゃない。次に成功すればいい。幾多の失敗の土台があるから揺るぎない成功に繋げていける。失敗を恐れていては次に行動していけなくなる。失敗を失敗のまま終わらせないためにも、次に向かって進んでいかなくてはいけない。失敗は誰でもする。成功したのは失敗を乗り越えた人。運や偶然にした成功は長続きはしない。その成功にはしっかりとした土台がないからだ。紆余曲折を繰り返しながら模索した成功にはやはり揺るぎない安定感がある。失敗を恐れて行動しなければ失敗もないが同時に成功もない。ただ同じ失敗を何度も繰り返していては何の進歩もない。考えて考えて常に前を向いて行動していきたい。失敗したら次こそは成功するよ!と笑っていれるくらいでいたい。顔で笑いながらも次に向けて誰よりも真剣に精進していけるような自分自身でありたい。失敗は終わりではなく、成功への第一歩と前向きに考えながら一歩一歩前進していける自分自身であり続けたいと思う。
2025年02月14日
頭と心の両面で
極端な分類ができるものではないが……傾向として頭で考えて動く人もいる。心で感じて動く人もいる。何かを伝えることと、何かが伝わることとは違う。これは伝える人と伝えられる人という意味ではない。伝えるというのは自分の論理を言語化して、相手の頭で論理的に理解してもらうこと。そこで論理的に納得ができれば動き始める。伝わるというのは、自分の感情や気持ちを相手が感じ取って、その感情や気持ちに共鳴して共感して動き始める。前者が言語的なコミュニケーションで、後者は非言語的なコミュニケーションということになる。どちらも大切な力と言えるだろう。頭でも心でも相手を理解できるとより良くなっていくと感じる。
2025年02月13日
ミスの過程
結果ミスなら、過程も全部悪いかと言えば必ずしもそうとは言えない。結果だけ見て全てを否定してはいけない。それをしてしまうと積極性が消えたり、結果良ければ全て良しという選手になっていきがちになる。罪を憎んで人を憎まずではないが、ミスを全面否定するのではなく、一連の流れを分析してミスの起きた場面の原因を冷静に考えることは大切だろう。過程が良かったのであれば、逆に誉めてあげる。ミスをする怖さを解消してあげる。人間がやることには必ずミスは伴う。本人の中でミスしても平気、ミスしたいなんて考えている人間なんて一人もいないのだから。誰もが何とかしたいと思っているのだから。
2025年02月12日
縁
何かの縁である場所に集い、縁が深まり絆で結ばれて仲間になっていく。元をただせば生まれた場所も、生活環境も、通った学校も…全くバラバラの人間がある一つのことを通して縁が生まれてくる。いつも当たり前に接していると感じられないが、いつも接している仲間は決して当たり前ではない。縁は最初は偶然のように思えるかもしれない。しかし、絆が深まり、お互いが繋がる共通の一つのことを通して夢を実現した時に偶然は必然に変わる。というより、仲間との夢の実現を必然に感じて、この仲間とだから夢が実現できるのだと信じて突き進んでいけるといいだろう。
2025年02月11日
選んだ責任を
選手というと選ばれた者という言葉のイメージがあるが、僕はそれとは違うイメージがある。選ばれた者ではなく、自らが選んだ者。つまり、ある競技を自分が自ら選んだ時点から誰もが選手になる。選ばれた者であれば、様々な言い訳を並べられるが、自らが選んだのであれば言い訳は許されないと思う。自らが選んだ責任をしっかりと持つべきだろう。数ある選択肢がある中で自らが選んだ責任。自分はレギュラーになれないから、やる気がしないというのは違う。選び取った者の責任として、最後まで全力で全うしていきたい。競技に限らず、人生の様々なことで自らが選び取った全てにおいて、誰もが選手なんだと思う。
2025年02月10日
自分を信じる
できるか、できないかを決めてるのも自分。やるか、やらないかを決めてるのも自分。もっと自分自身の持つ可能性を信じてもいいように感じる。挑戦する自分自身を応援してもいいように感じる。自分を作り上げているのは他でもない自分自身だから。自分が自分自身を信じないで誰が信じるのか…可能性を他でもない自分自身が潰してしまっていないか?やりもしないで最初から投げ出したりしていないか?誰が可哀想って自分自身が一番可哀想だ。やはり自分の人生は自分が自分自身の力を信じて切り拓いていくしかないものだ。周りがどれだけ助けてくれたり、力を貸してくれたとしても、自分の人生の主体はあくまでも自分自身なのだから。
2025年02月09日
無償の情熱
無償の情熱。学生時代にはこの情熱を燃やしてほしい。損得計算や変な先読み計算なんていらない。ただ、無我夢中で目の前のことに情熱を注ぐ。やって得するのか?やって報われるのか?そんな見返りなんか度返しして無償の情熱を注ぐ。それは学生時代にしか持てない情熱かもしれない。部活動であれ、体育祭なんかであれ、合唱や文化祭…どれもそれを全力でやったからといって得やお金がもらえる訳でもない。だけど、本気で情熱を燃やす。熱い想いが込み上げてくる。そんな時間というのは本当にかけがえのない時間だと感じる。こんな経験をたくさんしていれば社会に出てからも、学生の時のようにただ無償の情熱という訳にはいかないが、でもそれに近い生き方はしていけるように感じる。単なるドライに計算された損得勘定ではなく、自分が熱く情熱を燃やせることに本気で打ち込んでいくことはできるように思う。大人になっても気持ちの持ち方で、まだまだ青春時代を生きていけるかもしれない。
2025年02月08日
変化に気づく
『生生流転』すべての物は絶えず生まれては変化し、移り変わっていくこと。「生生」は物が次々と生まれ育つこと。「流転」は物事が止まることなく移り変わっていく意味。世の中の森羅万象、意識をしていないだけで、常に生生流転している。空に浮かぶ雲は毎日見ることはでけるだろう。しかし、今この瞬間に見ている雲は常に変化して二度と見ることはできない。道端の木々にしても、葉を落としたり葉をつけたりして日々刻々と変化し続けている。人間だって。。。同じ人間であっても心は常に変化したり、思考も変化している。地球上の全てが一瞬たりとも同じ状態でずっとあり続けることはない。そう考えると日々生きている中で環境も自分自身も変化のない毎日のように感じるかもしれない。だからこそ、自分自身の中の僅かな変化を見つけ出して、それを少しでも味わえたりすると楽しい時間になるし、それが自分自身の進化のきっかけにもなるような気がする。
2025年02月07日
伝える
伝えるというのは、伝わるということとイコールではない。伝えるというのは自分がどのように発信するかということ。伝わるというのは相手がどのように受け止めるかということ。指導者は伝えたから、相手に伝わったと錯覚しがちだ。キャッチボールみたいなもの。自分が言葉のボールを投げて終わりではない。相手がしっかりとキャッチしたのを確認しなければいけない。よそ見をしている相手もいるだろうし、受け取る気がない相手もいるだろうし、受け取る気はあってもミスキャッチする相手もいるだろう。受け取っても変な受け取り方をする相手もいる。相手に伝えたから、では終わりではないのだ。伝えたことと伝わったこととは全く別の問題なのだろう。指導者は伝えたことを相手が受け止める気があるのかないのか?しっかりと受け止められたのかどうなのか?どのような受け止め方をしたのか?までしっかりと見極めていかなくてはならないと感じる。
2025年02月06日
自らの手で
嫉妬か羨望か。嫉妬は人の足を引っ張ろうとする。羨望はその人に一歩でも近づこうとする。どうせ他人を羨むなら追いつけ追い越せでいきたい。単にひがんでいても何一つ始まらない。自分が汗を流す。相手を引き摺り降ろすのではなく、自分が相手を越えていく。仮にどうしてもかなわないなら、角度を変えてその相手にはない部分をどんどん伸ばして互角に勝負していけるようにしていく。無いものを妬んでも始まらない。有るものを磨いていけばいい。
2025年02月05日
静観して
足掻くことも大事だが、時には静観して流れを読むことも大切になる。足掻いていると近視眼的になりやすく、流れに気を配れなくなることがある。ここぞ!という時には懸命に足掻くことも大切だが、流れが逆流の時に足掻きすぎると消耗の割には成果に結びついていかなかったりする。逆に足掻くことが裏目、裏目にも出てしまいやすい。そんな時には敢えて動かず俯瞰的に静観して流れを見極めていくことが大切になる。これは、スポーツでも日常生活でも言えるような気がする。果敢に攻めていくポイントと耐えながらじっと待つポイント。こう書きながら、ふと武田信玄の風林火山もそういうことかもしれないと感じた。
2025年02月04日
安易や諦めからの卒業を
今までの経験の中で学ばされたこと。「まっ!いっか!」という安易な考えと選択。「まあ、こんなもんだろう」という諦めと選択。この二つから絶対に良い結果は生まれない。
何かを選択する際には、「何が何でもこうしたい」「何が何でも何かを掴みたい」という何かに対するこだわりと、何が何でもという諦めない気持ちが大切になる。
ボクシングで相手に倒された時には、一瞬意識も朦朧となり、恐怖心は大きくなり、戦意も一瞬喪失しそうになるそうだ。ここで立つか、そのまま倒れるか。。。
目の前にどうしても手にしたいものがあるならば、どれだけ打ち砕かれようが、それを手にするために立ち上がる。諦めずに挑戦していくことが大切になる。
絶対に妥協できない自分が大切に思うものがあるなら、立ち上がってもうひと踏ん張りしてみるといい。諦めの先には諦めの未来しかない。その未来は他の誰でもない自分が作り上げたもの。
格好悪くてもいい、不器用でもいい、諦めないことはできる。自分にとって絶対に譲れない大切なものであるならば、立ち上がって掴み取ろうとする気持ちが必要だと感じる。
何かを選択する際には、「何が何でもこうしたい」「何が何でも何かを掴みたい」という何かに対するこだわりと、何が何でもという諦めない気持ちが大切になる。
ボクシングで相手に倒された時には、一瞬意識も朦朧となり、恐怖心は大きくなり、戦意も一瞬喪失しそうになるそうだ。ここで立つか、そのまま倒れるか。。。
目の前にどうしても手にしたいものがあるならば、どれだけ打ち砕かれようが、それを手にするために立ち上がる。諦めずに挑戦していくことが大切になる。
絶対に妥協できない自分が大切に思うものがあるなら、立ち上がってもうひと踏ん張りしてみるといい。諦めの先には諦めの未来しかない。その未来は他の誰でもない自分が作り上げたもの。
格好悪くてもいい、不器用でもいい、諦めないことはできる。自分にとって絶対に譲れない大切なものであるならば、立ち上がって掴み取ろうとする気持ちが必要だと感じる。
2025年02月02日
馬を乗りこなす
馬を乗りこなす。自分の中に潜む馬をいかに乗りこなすかを考えてみよう。猛烈に意気込んでいる馬は、乗りこなそうとしても変に暴れてしまう。しかも力んだ割りには空回りで終わってしまう。制御するためにはそんな馬は冷静にさせるためにドウドウと話しかけて、なだめていかなくてはいけない。反対に臆病になっている馬に、ムチを入れれば瞬間的には走るがこれまた恐怖で力んでしまう。そんな馬には走る楽しさを改めて気づかせてあげなくてはいけない。伸び伸びと走る楽しさや爽快感を。まずは、馬の状態を客観的に観察すること。そして馬の持つ潜在能力を引き出してあげようとすること。馬を否定するのではなく、馬を信じてあげること。騎手としての自分が馬としての自分をいかにすれば、気持ち良く走れるかを考えてあげること。先走ろうとする気持ちを抑えたり、後退りする気持ちを前向きに楽しくしたり。自分の馬を乗りこなせるは他でもない自分自身。自分らしく走ればいいと思う。自分らしく騎乗して自分の馬の力を最大限に発揮させればいい。