2025年04月23日
会話
耳ではなく、心で聴く。言葉にとらわれるのではなく、心で感じる。語彙ではなく語調を感じる。頭で理解するのではなく心で理解する。会話なんてたわいのない日常のひとこま。。。そのひとこまの中で上っ面な言葉のキャッチボールをしても、それは単なる言葉遊びに過ぎない。人を感じることのできる会話をしていきたいと思う。心の情緒的な部分を大切にして会話をできると楽しいのにと思ってしまう。もちろん、言葉のロジカルな部分や話の論理性も重要だが、最近では頭で会話をしている人が増えてきているなと感じてしまう。そんな会話は会話の後にどっと疲れが出る。心で会話をするという自然なことが薄れているような。。。心と心が通い合うからこそ、相手の心も自分の心も豊かになるのではないかと思うのだが。会話なんて構えてするものでもないし、勝ち負けでもないし、相手と自分とがある部分を深く共有して一つになるもののような気がする。
2025年04月22日
興味のある学び
昔は物理とか苦手で赤点ギリギリだったりしたものだ。分かる気も全くせずに、授業も上の空だったような記憶が……しかし、この年齢になり再度自分なりに勉強してみると難しいとは全く感じず、逆に楽しく感じたりする。何故?物理を?それは、選手達の動きを考える時に運動力学的にも考えているから。その運動力学の基本となるのが物理になる。大人になったから、少しは頭が良くなったのかな?と最初は思ったのだが、やはり興味があるか、ないかの違いだと気づいた。昔は勉強と捉えていたが、今は選手の動きに興味があるので、興味があれば楽しく学べるものなんだなぁ、と改めて実感した。本来、勉強なんて誰かと競って点取虫になることではない。知りたいことを興味を持って学んでこそ、学んだことが自分自身の血肉になっていく。その証拠に受験勉強であれだけやったことが今では頭の中にほとんど残っていない。いくつになっても興味のある学びは楽しいものだ。
2025年04月21日
?のために
人がほんの少しでも余裕があるモノをほんの少しでいいから、自分以外の人のために使うことができたら、幸せな社会になるのではないか、と思ったりする。お金があればお金を。時間があれば時間を。体力があれば体力を……全部を自分が抱え込んだところで、一人の自己満足にしかならない。オードリーヘプバーンの『人間には二つの手がある。一つの手は自分のために。もう一つの手は自分以外の他人のために』のような言葉を昔、母親から教わり、自分の心の中に常に置いて生きるようにしている。自分の何かのモノが誰かの力になったり、幸せになったりするなら、それは自分だけの幸せより、もっと大きな幸せに繋がっていくと思う。でも。。。時に両手とも他人のためになっていたりすることがあるのも自覚したりする。少しは自分のために、というのも必要なのだろう。自分に対してはけっこう無欲に近いのもあるのかもしれないが。。。だから、ついつい自分のためにが薄れていたりする。
2025年04月20日
温故知新
スポーツは進化する。いつまでも自分がやっていた時代はこうだったと昔に固執していると、進化に取り残されていく。ただし昔が全て古くて駄目なものという訳ではない。今も昔も変わらずに大切にしなくてはならないものもある。それが失われた進化は進化ではなく、単なる時代の流行にしかならなくなる。中身のない上っ面なものになってしまうだろう。温故知新。まさにこの言葉がピッタリ。故きを大切にしながらも、常に新しいことを学び続けていこうとする姿勢こそが大切になる。昔に固執することと、昔を大切にすることとは明らかに違う。そこの意識をしっかり持てていなければ、時代の指導者にはなっていけないし、ましてや、なり続けていくことはできないだろう。そのためには、常に自分の中でスポーツの本質を精査して、本質はぶらさずに、常に最新のものに対するアンテナを張っていなくてはならないだろう。
2025年04月19日
繋ぐもの
何かと何かとを繋ぐ時に、糊だとすぐに離れてしまうかもしれないし、瞬間接着剤ならガッチリくっついているかもしれない。人と人とを繋ぐもの様々なモノがあるような気がする。想いが繋げる、愛情が繋げる、友情が繋げる、利害関係が繋げる、お金が繋げる、損得計算が繋げる……人と人とは多くのことで繋がったり離れたりしている。その繋げるモノによって、関係が深まったり、薄っぺらい関係で終わったり。本当に人と人とは難しさも多い。繋がっていても、結果として仮に離れてしまったとしても、自分の中で大切に大事にしている接着剤で繋がっていたいとは思う。繋がっていても、離れたとしても、人に対しても自分自身に対しても、やはり心から幸せを感じることができるモノで繋がりたいとは強く思っている。
2025年04月18日
風のように
風のように。時に春の優しさのある暖かな風のように。時に夏のホッと清涼感のある風のように。時に秋の寂しさを含んだせつなさが漂う風のように。冬の厳しさも持ちながら美しい雪を吹き付ける風のように。人は風に包まれて生きている。特別に風を意識している訳ではないが、風に吹かれて生きている。向かい風に押し戻されたり、追い風で背中を押されたり。嵐のような風に自然に畏敬の念を覚え、穏やかな風に自然の豊かさに思いを馳せて。風は流れていく。何処から来て何処かへと。余韻だけを残して一瞬のうちに去っていく。風は駆け抜けた後に人の心に何かを残していく。
2025年04月17日
自らの手で
諦めずに、自分の信じる道を貫いて、自分でチャンスを掴み取る。結果をなかなか出せずに苦しんだ時期もあっただろう。時に自分の信じる道を疑ってしまいそうになったり、正解を求めて迷い悩んだこともあっただろう。でもどんな時でも諦めなかった。自分のやっていることが大好きでたまらないんだろう。大好きだから、大好きな世界で自分を全力で表現したかったのだろう。それが報われて本当に良かった。不器用でも、のろまな亀でもいい、地道に地道に進む中で自分の手でチャンスを掴めたことに自分が誇りを持ってこれからも変わらずに進んでいけばいい。
2025年04月16日
思考力と想像力
『深謀遠慮』深く考えを巡らし、のちのちの遠い先のことまで見通した周到綿密な計画を立てること。「深謀」は奥深い見通しをもった考え。「遠慮」は、将来について考え巡らす、遠く先のことをよくよく考えること。感情的になったりして、その場でその感情を抑制できずに思いつきの行動をしてしまったり、近くの損得勘定に振り回されて目先のことしか見えなくなったりする人もいたりするだろう。近視眼的にしか物事を見れなければ、先々のことまでは見れもしないし、当然考え抜くこともできないだろう。そうなると目の前に起こることへの行き当たりバッタリの対応にしかならなくなる。先を見るためには今の目の前を見るための目ではなく、心の目、そう心の中の想像力というものが大切になっていく。この想像力を持てているのは人間しかいないのだから。深く考えるための思考力。これまた人間しか持てていない。想像力と思考力の二つの力を両輪駆動させていかなくては『深謀遠慮』を行ってはいけないだろう。
2025年04月15日
白紙の先に
出来上がった物を見たり、読んだりして、あれこれ言う人はたくさんいるものだ。では、そう口にする人に白紙を渡してみたらどうなるのだろうか…果たしてそのうちの何人が白紙をしっかりと埋めていけるものなのだろうか…その白紙を埋めるための空想力、発想力、創造力、企画力。白紙を持て余してしまうのに、誰かが白紙から完成させた物にあれこれ口にするのはどうなんだろうか?と思う。何事においてもそうなのだろうが、批判ばかりを口にする人間ではいたくないと思っている。自分はやりもしないで、やった人や結果を云々したくはない。今までの自分自身の人生は白紙に懸命に絵を描いてきた人生だったなと感じる。白紙は苦しくもあるが、そこには何物にも変えがたい楽しみもあったような気がする。
2025年04月14日
知恵と智恵
『知者不惑』という言葉がある。賢者は物事の道理を分かっているから惑うことはないという意味だ。僕はこれを『智者不惑』なのではないだろうか?と考えている。知恵は損か得かの頭の使い方。智恵は真か偽かの頭の使い方。損か得かの頭でいると逆に判断に惑うような気がする。物事の真実を探求して真なるものに辿り着けた時に、人は初めて判断に戸惑わなくなるように感じる。知恵は知識の収集で対応できる部分も大きいが、智恵は探求して探求してその先に自らが見出だす哲学のようなものだと思う。知識は他人の情報。哲学は自分が作り上げたもの。だからこそ、周りに左右されずにブレることがないように思ってしまう。
2025年04月12日
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今のうちに苦しんで、悩んで、泣いて、傷ついてもいい。その現実から逃げ出さなければ、それは後々にきっと自分自身の財産になっていくだろう。しかし、現実に負けてしまえば、マイナスの傷跡になってしまうだろう。自分に負けたら本当の敗者になって、現実以上に心の敗者になってしまう。戦いに破れて、心まで敗者になってほしくはない。全力で戦ったなら、現実にどれだけ打ちのめされようが、現実から苦しみや辛さや悲しさを与えられようが、向き合って乗り越えていきたいものだ。自分自身を転落させていくのではなく、喰らいついてでも這いつくばり踏ん張り、現実を乗り越えていく。それは、きっと今突きつけられている現実以上に後々に自分の中に刻まれていくことだろう。受け止めた自分。向き合った自分。立ち向かった自分。乗り越えた自分。戦いに破れても最後には胸を張れた自分。どれもこれも、後々にはかけがえのない自分だけの財産になっているはずだから。
2025年04月11日
直視する
情熱を持っている人を醒めた目で見ない。本気で打ち込む人を笑わない。真剣にしている人から目をそらせない。真っ直ぐに素直に感じてみる。そうすると自分が求めているものに気づける。どんなに表面的には自分が自分自身を誤魔化せても、心の奥底では何かを強く求めているものだ。そこから目をそらして、したり顔をして、何熱くなってんの?、何バカみたいに本気になってんの?と。自分はそんなものには興味ないよ…という振りをしていても、本当のところはきっと羨ましくて、それを直視してしまうと自分を保てなくなってしまうからなのではないだろうか。相手の情熱、本気さ、真剣さを否定することで、自分自身を肯定する…いや、肯定しているつもりになっている。そこからは何も生まれない。自分も前には進んでいけない。本当は自分の心の奥底には火照った火種がくすぶっているはずなのに…そこを感じれば人はきっと動き始めるだろう。いや、自分も自然に突き動かされることだろう。
2025年04月10日
思考の消化吸収
思考は、身体の栄養吸収に似ている。好き嫌いなく何でも口にして、その栄養が消化吸収されていく。不要なものは排泄される。思考も自分に合う合わないに関係なく、まずは他人の意見を素直に受け入れてみる。それを自分の頭の中で消化して栄養を取り入れて思考の幅や深さを作り上げていくことが大切。他人の意見に全く耳を貸さなかったり、他人の意見を拒絶するというのは、身体的には食べ物を摂取しなかったり、好きな物しか食べないという偏りに繋がってしまう。まずは他人の意見を食べて、内臓の代わりに頭の中でしっかりと消化することが必要になる。その中で必要のない思考は自然に自分の頭の中から排除されていくだろう。
2025年04月09日
組織のベクトル
人が組織に集まると、組織には様々な問題が生じてくる。その問題の多くは各々が描いている未来予想図のズレ、目指している目標のズレ、そこに所属する目的のズレ、などなど。もちろん、細かく見ていけば各々の性格や個性の違いみたいなものもあるのだろう。でも、個性や性格は違って当然だし、そこが大きなポイントにはならないのではないかと思う。やはり、冒頭に書いた通り、組織として向かうべきベクトルが不明確だと、各々がそれぞれの自分勝手に自分のベクトルを歩み始める。そうすると同じ組織にいても、向いている方向やベクトルがバラバラになっていってしまう。やはり、組織というのは集合体としてのベクトルを明確化して、そのベクトルには全員合わせて進んでいくようにしなくてはならない。そのベクトルと向かうべき未来予想図を共有さえできれば、そこからは各々がそれぞれの個性を発揮していけばいいのかなと思ったりする。
2025年04月08日
今の自分を乗り越える
ノルマを消化する練習ではなく、自分の限界を打ち破っていく練習がいいと思う。練習をこなすという意識ではなく、練習を乗り越えていくという意識。ただ量をやればいいという練習ではなく、昨日までの自分自身に挑戦していける練習。やったことに満足ではなく、乗り越えた自分に自信を持てる練習。昨日を自分をほんの少しでも乗り越えていければそれは自分自身の進化。そんな進化を味わえるような練習を日々積み重ねていきたいものだ。
2025年04月07日
重い腰が
やりたくないなぁ〜と思うようなことでも、いざ!重い腰を上げて取り組み始めると僕の場合は凝り性のせいか、徹底的にやってしまいたい衝動に突き動かされてしまう。やりたくないなぁ〜と思っている時に自分が自分自身にするできない言い訳が、その時には既にどうやって工夫したらできるのか?と頭の中はアイデアや発想に溢れている。今日はここまで!と決めて終えたとしても、頭の中に生れたアイデアや発想に突き動かされて、もう少しやってみよう!となっていく。あと、目に見えて少しずつ先に進んでいくのも大きいことのような気がする。最初に始める前には膨大にある作業量が、少しずつ減っていくのが案外気持ちが良かったりするのだ。『重い腰 一度上がると 軽い腰』しかし、やる気になれば人はどんな困難でも楽しんで乗り越えていけるのかもしれない。
2025年04月03日
言葉の合図
「よし!次!」試合の時、ミスした時にあれこれ考える前に、直後に口にしてみる。「まだまだ元気!」練習で疲れた時にどんどん嫌になる前に口にしてみる。そんな言葉を口にする習慣をつけていく。するとそれが合図になって、気持ちが切り替わりやすくなる。そんな自分なりの言葉を持つといい。落ち込んだり、沈み込んだり、イライラする前に先手を打って自分が自分自身に言葉をかけていく。深みにはまる前がいい。人は後ろに時間は生きてはいけない。人は前に時間を生きていく。前に向かうために必要な言葉を探してみよう。取り返せない時間をウジウジ過ごすより、これからの時間を前向きに取り戻していく方が遥かにいい。
2025年04月02日
知恵と智恵
『知者不惑』という言葉がある。賢者は物事の道理を分かっているから惑うことはないという意味だ。僕はこれを『智者不惑』なのではないだろうか?と考えている。知恵は損か得かの頭の使い方。智恵は真か偽かの頭の使い方。損か得かの頭でいると逆に判断に惑うような気がする。物事の真実を探求して真なるものに辿り着けた時に、人は初めて判断に戸惑わなくなるように感じる。知恵は知識の収集で対応できる部分も大きいが、智恵は探求して探求してその先に自らが見出だす哲学のようなものだと思う。知識は他人の情報。哲学は自分が作り上げたもの。だからこそ、周りに左右されずにブレることがないように思ってしまう。
2025年04月01日
誰のためでもなく
スポーツは誰のためにやるのか?誰かのためではなく他でもない自分自身のため。自分自身のために死力を尽くす姿が誰かを勇気づけたり、自分の活躍が仲間やチームの力になる。誰かに責任を転嫁するものでもないし、誰かに依存するべきものでもない。好きだからやっている。巧くなりたいからやっている。それを通して成長していく自分を味わいたいからやっている。そんなものではないかと思う。そんな純粋な想いで真摯に向き合い本気の汗を流す姿が他人の心を深く打つということなのではないかと思う。
2025年03月31日
間違いを楽しむ
何かをするときに例え間違ってもそれすら楽しんでしまえとも思う。間違えるのは嫌なことではある。でも間違えるということはまだ自分がそれをできていないということ。できないことがあるというのは、まだ自分にはやるべきことがあり、そこに自分の伸びシロがあるなら、それを知れることは楽しいこととも言える。そもそも、生きるなんてできないことだらけなんだから。間違うことに悲観的になるくらいなら、「おっ!自分にもまだまだできないことあるんだ!」と楽観的に受け止めて楽しんだ方が自分も楽しく間違ったことに取り組んでもいけるのではないかと思う。間違うことなんて何一つ恥ずかしいことでもないんだから。僕も近年まで度外視をどかえしだと間違い続け、度返しと書いていた。指摘を受けて人間の勘違いの面白さを知ったものだ。人なんて間違いの連続。その都度、悲観的になるより、おっ!また一つ偉くなれたくらいに楽しんだ方が人生は楽しくなる。









