2024年06月12日

心と頭

『熱願冷諦』熱心に願い求めることと、冷静に本質を見極めること。諦とはここでは諦めるという意味ではなく、明らかにするという意味に使う。よく試合などでベストなのは心は燃えてて頭は冷静なのが良いと言われる。もちろん競技によっても違うが。心がビビっていては戦えるものも戦えない。臆することなく試合には自分のベストを出し切るのを願い、そして自分自身を強く信じ抜いて戦っていきたい。そんな心の状態を熱いと表現することもできる。しかし、頭の中まで興奮して熱くなってしまうと、冷静な判断ができなくなる。冷静に流れを読み取り、冷静に対処していくことが大切になる。心が熱く頭も熱くなると暴走プレーになっていくし、心が冷たく頭も冷たいと臆病プレーになっていくだろう。心は大胆かつ頭は繊細にと言い換えることもできるように思う。
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2024年06月10日

豊かさ

目を奪われるものは世の中には溢れている。モノも情報もそれこそ、溢れるくらいみちみちている。人は目にとまる何かに飛びつき、すぐに飽きて、また次に目にとまった何かに飛びついていく。これこそ、物質的豊かさなのだろう。何かを手にする満足感。それに対して心を奪われるものとなると、そんなに多くはないだろう。心が豊かになったり、幸せを感じたり、強く感動したり、強く心を揺さぶられたり……目先の欲ではなく、心の奥底から強く求めるもの。目移りして飽くことなく、ずっと大切にしていきたいもの。それこそが精神的な豊かさなのではないかと感じる。もしかすると、ものが溢れる社会だからこそ、物質的豊かさに満ちている社会だからこそ、余計に精神的な豊かさを人生の中で求められるかで、人生の色彩が変わっていくのかもしれない。
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2024年06月08日

静観して

足掻くことも大事だが、時には静観して流れを読むことも大切になる。足掻いていると近視眼的になりやすく、流れに気を配れなくなることがある。ここぞ!という時には懸命に足掻くことも大切だが、流れが逆流の時に足掻きすぎると消耗の割には成果に結びついていかなかったりする。逆に足掻くことが裏目、裏目にも出てしまいやすい。そんな時には敢えて動かず俯瞰的に静観して流れを見極めていくことが大切になる。これは、スポーツでも日常生活でも言えるような気がする。果敢に攻めていくポイントと耐えながらじっと待つポイント。こう書きながら、ふと武田信玄の風林火山もそういうことかもしれないと感じた。
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2024年06月07日

自分を試す

誰かが整備してくれた整った道と、誰一人として足を踏み入れたことのない未開の道があったら、自分は後者を選んでしまう。前者は行き先もなんとなくは分かるし、多くの人がそこを歩いているので安心して進むことができる。後者は怖さや不安もある。自分一人だけを頼りに悪戦苦闘しなくてはならない。では、何故に自分は後者を選んでしまうのか?心の中に強く自分の人生を生きたいという想いがあるからかもしれない。一度きりの人生をやはり自分の人生にしていきたいという気持ちは昔から強かった。人の歩んだ道筋が自分も同じように歩く道筋とは素直に思えなかった。自分のしたいことが世の中に存在しなければ、自分が作り上げて存在させていけばいいと考えたし、道がなければ自らが開拓していけばいいと考えてきた。その道が楽とはほど遠い険しい道であったとしても、その道の先に大きな落とし穴や崖があったとしても、自分の力で進んでみたかった。自分という一人の人間をその道の中で試してみたかったし、追い込んでもみたかった。自分が人生の中で何者でどれだけのことができるのか?それはやはり未開の道を選ばせてしまう。
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2024年06月06日

目の前の問題に

もし、自分がテストを受けていたとする。目の前にはテスト用紙がある。そこにはどんな問題が用意されているか分からない。もしかすると難問や奇問の数々かもしれない。だからと言って何故こんな問題ばかりなんだと愚痴っていても、問題ははかどらない。周囲の人の動向ばかりを気にしてテストをおろそかにしていれば不合格になる。自分にできることは目の前に突きつけられた問題を必死になって解き続けることしかない。それしかできない。不合格になりたくなければ、問題がどうだ、周りがどうだ、ではなく自分がどうするかでしかないのだろう。それが人生の時間の中の今という時間なのかもしれない。放棄したり、周りに振り回されれば今の先にある未来は結果が見えてくる。やれることは目の前の問題に諦めずに徹底的に足掻いてみることなのだろう。
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2024年06月05日

継続していく

生け花の花。その花の色は花瓶の中にあっても、大地に根差して咲いていても色そのものはそう変わらないだろう。そしてやがてはどちらの花もいずれは散ってしまう。花瓶の花はそこで終わり。しかし大地に根差した花は結実して新しく芽吹く。今だけの成功なのか、未来に繋がる成功なのか。目先だけを見れば同じように見える物事でも、それが未来にしっかりと続いていく形なのか、ほんの一時の形なのか。。。仕事というのは、一時的なブームとかではなくしっかりと未来に続いていく形を模索していかなくてはならないと感じる。
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2024年06月04日

個性を活かす

人と人との違いなんて個性に過ぎない。同じなんて逆につまらない。同じ人間同士がいても、アイデアや発想も画一化されて組織の発展はないだろう。違いこそが面白いと感じる。ただ、それぞれの個性がそれぞれ好き勝手にそれぞれが思うベクトルの方向に向かっていては、逆に組織はバラバラになり、どこに向かっているのかが分からなくなっていく。向かうべきベクトルは組織にいる誰もが共有していなくてはならない。その組織が向かうベクトルの中で、個々人がそれぞれの個性を発揮していけばいいのだと思う。スポーツだって同じだ。向かうべきベクトルは決められていても、個々の選手には個性を強く感じられる。好き勝手にやることだけが個性ではなく、ある程度決めれた中で自分の持ち味をどう活かしていくかを考えるのも個性なのだろうと感じる。
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2024年06月02日

言葉で

優しい言葉のあやとりをしていけると、その言葉が相手の新たな言葉を生み、それがまた自分の言葉を生む。言葉が深まっていくことで、心に温かさが広がっていく。言葉のやりとりは、何となく自分が言葉を投げかけ、相手の言葉を受け取るという一方通行の感じがする。あやとりはお互いの協力がないと続いていかない。優しい言葉のあやとりは、相手に対しての愛情や思いやりなくしては続いていかないのだろう。それがあるからこそ、言葉を交わすごとに心が満たされて温かくなっていくのだろう。言葉をぶつけられれば心は寂しく寒く感じる。言葉は本当に使う人間の心の在り方が問われていくものなのだなと感じる。
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2024年05月31日

真っ直ぐに

人生は時には、戦わなければならない時もあるだろう。それは時にひどく大きなものかもしれない。つかみどころのない社会というものかもしれない。何のために戦うのか…それは自分が自分自身であるためかもしれない。社会に上手に呑み込まれた方が楽に生きられることもあるだろう。適当に自分を誤魔化しながら生きた方が生きやすいこともあるだろう。社会や時代に逆流して進んでいくことは苦しくて辛くて孤独を感じることもあるだろう。でも自分が自分自身であるために敢えてその逆流に突っ込んでいかなくてはならない時もあるかもしれない。自分の生きる道を真っ直ぐに真っ直ぐに突き進んでいく。周りからは無器用と笑われるかもしれない。周りから批判や非難を受けるかもしれない。それでも自分自身を貫いていく生き方。自分が自分自身を裏切らない生き方。そんな生き方もあるように感じる。
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2024年05月30日

大切な思いを

チームの中で、誰かが代表して見本を見せるような場面で、その選手が巧くできなかったり、ミスしたりした時にみんなで茶化して笑ったり、口々に否定的な言葉を口にしたりするような場面に出くわすと、とても厳しく注意をする。自分の中でそれが一番許せないことだから。その選手だってみんなの前に出たい訳ではないだろう。それでも勇気を振り絞ってそこに立っている。本人だって巧くやりたいはずだし、ミスして恥ずかしく悔しい思いを誰よりもしているだろう。そんなチームの仲間に対して、そんな言動をすることに対しては一人の大人として教えなければならないと感じる。その選手の気持ちを思いやり、励まして応援してやるのが仲間だろう。もし、自分がその選手と同じ立場ならどう思うのか?自分が同じ立場なら仲間からどうされたいのか?想像してほしい。自分じゃなきゃいいのか?と。仲間の心が傷ついてもいいのか?と。茶化すことと盛り上げることとは違うし、意識して傷つけるつもりがなかったとしても人の心を傷つけて許される言葉なんてないのだから。言葉は仲間を助けたり元気や勇気を持てるように使いたいね、とこれから先も教えていきたいと思っている。
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2024年05月28日

輝きながら

スポーツの場面で輝きを放つ選手がいる。持っている技術もさることながら、誰よりもその競技を愛し、チームを愛する。試合での一瞬一瞬を慈しむように真剣に全力で楽しむ。ここが自分が生きている証であるかのように。技術を超えるものがあることを自分が自分自身に証明するかのように。輝きを増す。勝ったから輝く、上手だから輝くというのではなく、もっと本質的な部分からの沸き上がるような輝き。そんな選手でありチームでありたい。そんな輝きの中で誰かの心に何かを伝えられていけたらいい。
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2024年05月27日

安易や諦めからの卒業を

今までの経験の中で学ばされたこと。「まっ!いっか!」という安易な考えと選択。「まあ、こんなもんだろう」という諦めと選択。この二つから絶対に良い結果は生まれない。

何かを選択する際には、「何が何でもこうしたい」「何が何でも何かを掴みたい」という何かに対するこだわりと、何が何でもという諦めない気持ちが大切になる。

ボクシングで相手に倒された時には、一瞬意識も朦朧となり、恐怖心は大きくなり、戦意も一瞬喪失しそうになるそうだ。ここで立つか、そのまま倒れるか。。。

目の前にどうしても手にしたいものがあるならば、どれだけ打ち砕かれようが、それを手にするために立ち上がる。諦めずに挑戦していくことが大切になる。

絶対に妥協できない自分が大切に思うものがあるなら、立ち上がってもうひと踏ん張りしてみるといい。諦めの先には諦めの未来しかない。その未来は他の誰でもない自分が作り上げたもの。

格好悪くてもいい、不器用でもいい、諦めないことはできる。自分にとって絶対に譲れない大切なものであるならば、立ち上がって掴み取ろうとする気持ちが必要だと感じる。
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2024年05月26日

好きの原点は??

好きは好きから始まるのではなく、できるから始まるのかもしれない。ここは、どうなのか?まだ自分でも分からない。何かを全くできなかったとしたら、人はそれを好きなことと感じるのだろうか。。。最初から全くできなければ楽しくもないような気もするし。何かを始めた時に何かができたことで楽しさを感じて好きになっていくのか。。。まとまりのない文章になってしまったが、好きになった先にもっとできるようになりたいという気持ちが湧くのは分かる。要は好きになるの原点は何なのだろう。楽しいと感じなければ好きにはならないような気もする。何となく好きってこともあるような気もする。うーん。。。難しい。。。
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2024年05月25日

伝統との付き合い

伝統を大切にすることと、伝統に縛られることとは別の問題。過去にこだわって変化を拒絶していると、弊害ばかりが際立って時代から取り残されていく。伝統を守るために大切なのは、まさしく温故知新。伝統の本質は大切にしながらも時代に合わせて伝統も進化していかなくてはいけないだろう。伝統は重いものだが、過去にだけ縛られてしまうとその重さに押し潰されてしまいかねない。常にブラッシュアップして余計なものは削ぎ落としたり磨き上げたりしていかなくてはいけない。
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2024年05月23日

自身を認める

周りに認められる人であるより、自分で自分自身を認められる人でありたいと思う。それは自己満足という意味ではなく、その逆で他人は誤魔化せても、自分自身は誤魔化せない。そして自分が自分自身に打ち克ち積み重ねたものを自分が厳しい目で見て、認めていけるといい。他人をある程度納得させる見せ方や振りはできるだろう。それで他人から認められたからって、それは何だろう…?それよりも自分が自分自身を本当に納得させて認めていける生き方の方がはるかに難しい。そのためには、何より自分が自分自身を常に見続けていなくてはいけない。
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2024年05月22日

どんな先にも

雨降って地固まるということはある。雨降って虹が出ることもある。でも、それは同時に晴れて太陽に照されるからでもある。太陽に照されなければ、地は水たまりのままだし、虹も出てこない。どんな悲しい気持ちになったとしても、どこかで心の太陽を持っていられれば、最後は幸せな気持ちで締めくくれるかもしれない。悲しさを人は持っているからこそ、幸せも感じられるのかもしれないとも思う。悲しさというのは乗り越えるものではないのかもしれない。悲しみの雨が降りやむのを静かに待つ。一瞬の雨もあれば、長く続く雨もある。パラパラ雨も土砂降りの雨もある。でも止まない雨はない。その先は心の太陽を照らしていけばいい。地固まり大切なことがより大切に思えたり、空に広がる虹のように心の中に美しさを感じられたりするだろう。それを信じて静かに雨を見つめる時間というのも人生の中ではとても大切な時間なのだろう。
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2024年05月21日

子ども達の未来に

子ども達が未来を生きていく中で、彼らの心の中に一つでも二つでも生かされていく何かを残していけるといいですよね。そうした心の中に撒いた種が彼らの積み重ねていく未来の経験の中で大きく育っていってくれると心から嬉しくなります。子ども達との信頼関係は一朝一夕ではできるものではありません。だからこそ、日々子ども達と真剣に向き合うことなのでしょうね。大人も子どもも共に進化していけるのが教育現場なのだと感じます。血の通った関係。それがとても大切だと感じます。上っ面な表面的にだけ上手くいっているような関係からは真の教育はできないはずです。どんな時でも、どんな子でも最後の最後まで愛情をもって包んであげることで、子ども達の心にも安定感が生まれて伸びていけるのではないかと思います。指導とは子どもの進むべき方向を指し示し、その場所へと導いてあげることなのかもしれませんね。そのためには指導者の側にも明確な意図をもって指導していくことが求められるのでしょうね。指導者側の意図のない放置では指導とは言えないのだと思います。子ども達の目を輝かせるためにもこれからも全力を傾けていきたいと思います。
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2024年05月20日

自分自身

戦う前に負けるな!戦ってる途中に負けるな!戦った後に負けるな!途中は相手だが突き詰めれば自分自身、前後は完全に自分自身の中の問題。まだ見えない相手に脅えるな!どんな相手だろうが逃げずに立ち向かえ!敗戦という結果に打ちひしがれるな!究極、弱気という最大の敵は自分の中にいる。その敵に打ち克てるのは他でもない自分自身でしかない。弱気がいつも優勢ではそもそもそこに勝ち目なんてない。弱気な自分を常に凌駕していける自分自身を作り育てていかなくてはいけない。それをできるのも、これまた自分自身。苦しくても辛くても目をそらさずに立ち向かっていこう!一つ一つ!越えていこう!それこそが自分に負けないための一番の近道だろう。自分というのは弱いものでもあり強いものでもある。その比重を日々の中で少しずつでも変化させていけばいい。自分自身を甘やかせた先にあるのは弱気に満ちた自分の姿。自分に厳しく立ち向かった先にあるのは自信溢れる自分の姿。
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2024年05月19日

月のように

子どもの頃に夜空を見て、月がいつもどこまでも自分についてくるのが不思議だった。でも、どこまでもついてきてくれることに何だか分からないけど安心感があった。温かい月の光に見守られているような安堵感に包まれる。暗い中のほんのりとした月明かり。何かそんなのっていいなと思ったりする。人が暗闇の中で迷ってもがいている時に、つかず離れずの距離感で常に寄り添い、温かくその人を照らし出し、その人に必要な方向性やその人が求める方向性をを示唆する。押しつけるでもなく、放り出すでもなく、温かな心で包み込んでいけるということ。人が明るく迷いなく生きている時は姿は見えないが、暗闇になったら必ず姿を現して寄り添ってくれる。見上げれば必ずいて、見上げなくてもその温かな心で照らしていける。子どもの頃のような素直な気持ちで素直な気持ちで自分の心の中にもあるであろう月を眺めてみようかな……
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2024年05月18日

準備の質

『長袖善舞』前もってしっかりと準備してことに臨めば成功しやすいということ。または、元手や資質があれば成功しやすいということ。袖が長い服のほうが、袖の短い服よりも舞う時に美しく見えるということから。準備の大切さはよく言われることだが、この準備は人によって度合いも、精度も、期間もまるで違う。誰もが、準備をしてきたか?と問われれば、はい!と答えるだろう。しかし、準備の質によって結果は違ってくるだろうと思う。付け焼き刃的な準備ではすぐにボロが出てしまうだろう。長袖というところに本来の意味とは違うが、自分なりの意味を見出だしてみた。半袖の準備では暑ければいいが……仮に寒かった時には大変な思いをすることになる。しかし、長袖であれば暑ければ袖を捲ればいいし、寒ければそのまま長袖でいい。長袖ならいかなる状況にも対応可能な準備と言える。本来の準備というのは、あることだけにしか対応できないというものではなく、どんなことにも応用して対応できる準備なのだろうと考えさせられた。
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